グッバイ、イノセンス
春雷
第1話
布団から出たくなかった。季節は冬。春はまだ遠い。僕は失業中で、一言で言えば、まあ、人生があまり上手くいっていなかった。布団に出て行動しても、結局はいい結果は得られないだろうという予測があって、何にもする気が起きない。
ふと、昔のことを思い出す。高校生の頃だ。あの頃は未来のことなんてこれっぽっちも考えていなかった。未来に対しては、漠然とした楽観的な予想しかしていなかった。僕らは、天下無双を気取っていた。何をやっても上手くいくイメージしか湧かなかった。人間関係が嫌になって、コネで入った会社を辞めることになるなんて、全然、思ってなかった。
あの頃は良かったな、なんて、あまりいい考えじゃない。けれど、どうしてもそう思ってしまう。今を愛せない。それは僕が満たされていないからなんだろう。将来が不安で仕方がない。僕はどうすればよかったんだろう。これから、どうするべきなんだろう。
考えたくもない現実が目の前には広がっていて、そこから逃れるために、僕は過去を振り返る。
僕の学校は普通校だが、アクターズスクール並みにダンスをやらせてくる学校だった。体育の授業でダンス、文化祭でダンス、体育祭でダンス、さらにはクラス対抗のダンス大会なるものが開催されて、僕らのクラスは初代チャンピオンに輝いた。人生で一番ダンスをした時期だった。僕は運動神経が皆無なので、ダンス自体は好きじゃなかったが、夜の公園でみんなとふざけながら練習するあの時間が好きだった。青春だな、と思った。いろんな馬鹿な話をした。それはありきたりなもので、でも、だからこそかけがえのないものだったに違いない。
「楢山節考」を一度も読んだことないくせに、5,000字の小論文を書いている友達がいて、そいつはとうとう龍角散のパッケージから現代社会を読み解く小論を僕に渡してきて、めちゃくちゃ笑った記憶がある。龍角散には依存性があり、それがバブみに通ずるものがあり、それが社会的な病理を浮き彫りにしていて云々といった内容で、どう考えてもこじつけが過ぎるが、まあ彼もギャグとして書いているので、本気にしているわけではない。彼は公務員になった。
バブみ関連で思い出したというわけでもないが、下ネタにとにかく敏感に反応する奴がいて、そいつがどこかの女子がネルチンスク条約のことをふざけてネルネルチンチンスクスク条約と言っていたのを素早くキャッチして、僕に報告してきた。女子はすぐ自分の発言が下ネタだったということに気付き、赤面したという。
特にスクスクの部分が秀逸だと彼は言っていた。僕にはよく分からなかったが、とにかく彼はそう言っていた。彼の下ネタに対するセンサーは常にビンビンで、どんな些細なことからでも下ネタを引き出すことができた。彼のセンサーは、実験用具のビュレットにすら反応していたくらいだ。彼以外で、あれほどの下ネタの高みに登っている人を、僕は見たことがない。彼は教師になった。
ラップ好きな友達がいた。DJ松永に顔が似てるボイパができる友達もいたから、僕は毎日、高校生版Creepy Nutsのライブを、階段の踊り場で聞かされることになった。R–指定がやるような聖徳太子ラップで、僕が毎回3つか4つのお題を出していた。彼はとても器用な奴で、毎回上手い具合にお題をラップに組み込んでくれて、それがとても気持ちよかった。僕にはそんな才能はないから、素直に凄いと思った。当時はフリースタイルダンジョンが流行っていて、至る所でラップバトルが行われていた。彼はいつも勝っていた。彼は将来、R–指定みたいな凄いラッパーになれるんじゃないかと思った。でも彼は、スポーツインストラクターになった。ボイパをしていた奴は、保険の営業をしている。
生徒から人気の先生がいた。数学の若い先生で、スポーツマンだったこともあり、爽やかないい先生だった。でも結局彼は犯罪を犯して捕まった。全校集会が開かれ、僕らはそこでこの衝撃の事実を知った。今まで数学の教師だと思っていたのに、最後は道徳の先生として学校を去った。彼は数式よりも大事な何かを、僕らに教えてくれた。彼は今どこで何をしているのだろう。
剣道の指導をしていた先生がとにかく怖かった。その先生は刑務所みたいな高校を卒業したらしく、その高校は上下関係がかなり厳しかったらしい。彼は、先輩には絶対逆らえない、尋常じゃない緊張感の中で青春を過ごして来た。その証拠に、彼は三十代半ばだったが、頭髪の一部が白髪になっていた。あまりのストレスに耐えきれなくなり、そうなったらしい。漫画みたいな話だ。そして実際彼は漫画みたいな現象を起こした。彼が生徒をすごい剣幕で怒鳴りつけた結果、生徒が気絶して倒れたのだ。リアル覇王色の覇気である。世が世なら、彼は四皇になっていたのかもしれない。カイドウだったのかもしれない。
そんな剣道の先生だが、ある疑惑があった。彼は喫煙者で、いつも校外に少しだけ身を乗り出して煙草を吸っていたのだが、ある日、全校集会があって、そこで校内のトイレで煙草の吸い殻が見つかったという報告があった。煙草を吸った生徒はあとで職員室に来なさい、と言って集会は解散となった。全校集会は何度も繰り返し開かれた。ずっと煙草の件だ。みなうんざりしていた。いったい何度、全校集会を開けば気が済むのだろう。連帯責任という考えはもうやめてくれないかな。全員がそんな思いを抱いていた。
そんな日々を過ごしていると、ある日突然、全校集会がピタリと開かれなくなった。僕らは喜んだ。犯人が名乗り出たのだろう。誰だったか知らないが、よく職員室に行ってくれた。僕らはそう思っていた。
その頃からだ。剣道の先生が煙草を吸わなくなった。
僕らは偶然とは思わなかった。しかし、まさかそんなことがあるか? いやいや、可能性はそれしか考えられない。
犯人はあの先生だったんじゃないか。
僕らは何度も議論を重ね、その結論の妥当性を確認しあった。どう考えてもそうとしか考えられなかった。
しかし、いまだに真相は解明されていない。
プルルルル、と電話が鳴った。
画面を見ると、あいつだ。トリの降臨である。彼こそトリに相応しい。
彼は帰国子女で、アメリカに1年間留学していた。ゆえに2回、高校3年生をしていることになる。僕が高校3年生の時に、彼は帰って来て、僕のクラスに入った。だから彼は僕の一歳上だ。
彼はエドシーランに憧れていて、実際歌もギターも上手で、エドシーランのように音を録音してそれを重ねるルーパーを使って、1人でライブを行っていた。彼のギターの名はエドワードだった。
彼はお喋りな奴で、四六時中喋りまくっていた。高校3年生だからみんな静かに勉強したいのに、構わず喋りまくっていた。だからみんなに嫌われていた。そんなに喋っていたのに成績は飛び切り良くて、指定校推薦で名門大学に進学した。みんな悔しがっていた。彼より真面目に勉強していたつもりだったのに、学力的には彼の足元にも及んでいなかった。僕も勉強なんてこれっぽっちもしていないタイプだったんだけれど、天才じゃなかったから、普通に成績は悪かった。だから誰でも入れるような大学に進んだ。もっと勉強すりゃ良かったな、と思うけど、どうせするわけないんだから無意味な後悔だ。これからだってしないんだから。
彼のするアメリカの話は刺激的で、アンダーグラウンドだった。麻薬をやっている友達がいるという話をしていた。僕には彼が異世界人に見えた。英語が話せて、ギターが弾けて、話が面白くて、とんでもないことを体験してきている。僕と対極にいるような人間だ。僕は消極的で、空っぽの、退屈な人間だから。
どうして彼は僕と友達になってくれたのだろう。僕だけが彼の長い話に付き合っていたからかもしれない。
僕はちゃんと彼と出会う一年前、僕が高校2年生で、彼が高校3年生の時、彼が留学に行くということが、全校集会で発表された。そして彼は全校生徒の前で、マルーン5の「シュガー」を歌った。サビの部分の裏声が美しくて、僕は度肝を抜かれた。こんな凄い人が同じ高校にいるんだ、と思った。そんな彼が一年後、僕と同じクラスになって、どうでもいい話を延々周囲に振り撒いていた。そして僕らは友達になった。不思議なこともあるものだ、と思う。一生関わり合いにならないだろうなと思っていた人と、僕は友達になったのだ。彼はIT企業に就職した。
そんな彼から電話がかかってきた。
電話に出ると、彼はインスタ見たか? と聞いて来た。僕はアカウントを持っていない。見てない、と言うと、あいつとあいつが結婚するらしいと言った。つまり同級生2人が結婚するという話らしい。子どももできたらしい。
僕は、自分だけが置いて行かれているような気がした。同級生にはもう子どもがいる。それなのに僕は、仕事すらない。家族を増やす余裕なんてない。彼女もいない、金もない、将来の展望なんてこれっぽっちもない。希望がない。
いつからこうなってしまったんだろう。僕は愕然とする。過去に原因を探ることは難しかった。いや、きっと無意識のうちに避けているのだろう。
過去を振り返っても何にもならない。
僕は結局、そう思うことにした。
彼と少し話をして、電話を切った。布団からは、まだ出れずにいた。もう高校生時代のことを思い出そうとはしなかった。かといって、未来のことを考える気にもなれない。
今の僕はすっかり汚れた大人になってしまった。そんな気がする。あの頃の純粋な前向きさは失われ、代わりにどこまでも怠惰な自分だけが残った。
僕は過去を捨てるべきだった。前に進むために、過去を見るのはやめるべきだった。
過去を美化しているだけだということはわかっていた。
だけど僕はまだ過去を捨てきれずにいた。未来を見る勇気がなかったから。
でも僕はいつかここから出なければいけない。未来に向けて動き出さなければいけない。美しい過去を捨て、汚れてでも前に進まなくちゃいけない。きっとその時、僕はこう言うだろう。
グッバイ、イノセンス。
グッバイ、イノセンス 春雷 @syunrai3333
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます