九度目の訪問者

坂本餅太郎

九度目の訪問者


 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 夢の中で、俺は祖父母の家にいる。畳の匂い、軋む廊下、古びた茶箪笥――すべてが子供の頃の記憶そのままだ。しかし、それと同時に強い違和感も覚えていた。何かが、少しずつズレている。


 最初の夢では、何も変わったことはなかった。ただ懐かしい家の中を歩き回るだけ。二度目、三度目も同じだった。だが、四度目の夢で、ふと違和感に気づいた。


 居間の隅に、見覚えのない襖がある。


 実際の祖父母の家には、あんな襖はなかった。最初は気のせいだと思ったが、夢の中でそれを意識するたびに、襖の存在感が増していくように感じた。


 五度目の夢では、その襖が半開きになっていた。


 六度目では、奥の暗がりに何かがいる気配がした。


 七度目では、黒い影がこちらを覗いていた。


 八度目では、影が襖の前まで出てきていた。


 そして今、九度目の夢で、ついにそいつは俺の目の前に立っている。


 全身が黒いもやに包まれ、顔のないそれは、何かを囁いていた。声にはならないが、言葉の響きだけが頭に流れ込んでくる。


「ヒロセ……ショウタ……」


 俺の名前を、知っている。


 恐怖に凍りついたまま、一歩も動けなかった。そいつは、じわりじわりと俺に近づいてくる。


 そして、夢が終わった。



 目を覚ますと、全身が冷や汗で濡れていた。心臓が激しく脈打ち、呼吸が乱れている。何度も見続けた夢だが、今までとは決定的に違っていた。


 起き上がると、部屋の隅に目が行った。そこには――襖があった。


 そんなはずはない。俺のアパートに、襖などなかった。なのに、夢で見たものと同じ、古びた襖がそこにある。


 恐る恐る近づく。襖は半開きだった。暗がりの奥に、何かがいる気配がする。


 そして、囁きが聞こえた。


「ヒロセ……ショウタ……」


 その瞬間、何かがこちらに向かって這い出してきた。


 黒い影が、ずるりと這い出してくる。


 喉がひゅっと詰まり、息ができなくなった。俺の部屋のはずなのに、どこか異質な空気が充満している。影の輪郭はぼやけているのに、確実に“何か”がいるとわかる。


「ヒロセ……ショウタ……」


 名前を呼ばれるたびに、体の芯が冷たくなっていく。まるで、俺という存在が少しずつ吸い取られているようだった。


 そのとき、不意に視界が暗転した。



 気づくと、俺は祖父母の家にいた。


 あの畳の匂い、軋む廊下、茶箪笥――だが、すべてが沈んだ色をしていた。まるで長い間、陽の光を浴びていないような、くすんだ世界。


 ふと背後で音がした。振り返ると、そこに襖があった。


 まただ。九度目の夢は、まだ終わっていなかった。


 だが、今回は違う。襖は完全に開いていた。


 その向こうに、黒い影が立っている。顔はないのに、俺をじっと見ているような気がした。


 影が、ゆっくりと口を開いた――そう感じた瞬間、耳鳴りのような音が響いた。


「オマエハ……」


 影の言葉が、直接頭に流れ込んでくる。


「ココデ……ナクシタ……」


 失くした? 俺が? 何を?


 考える間もなく、影が一歩近づいた。足音はない。空気が歪むような気配だけが広がる。


「トリモドセ……」


 何を取り戻せばいいのか、わからない。ただ、このままここにいたら戻れなくなる。そう確信した。


 俺は反射的に後ずさる。しかし、足が畳に沈み込んだ。いや、畳が沈んだのではない。俺の足が、影のいる空間へと引きずり込まれていく。


 まずい。このままでは……!


 俺は叫んだ。


「助けてくれ!」


 その瞬間、視界が弾けるように白くなった。



 気がつくと、自分の部屋の床に倒れていた。


 全身が痺れるような感覚に襲われ、息が荒い。あたりを見回すが、もう襖はなかった。部屋の壁は、何事もなかったかのように元に戻っている。


 俺は震える手でスマホを掴んだ。時刻は午前三時――夢から覚めたばかりのはずなのに、異様な疲労感があった。


 本当に、夢だったのか?


 だが、夢では説明できないものがあった。床に落ちていたのは、一枚の白黒写真。


 それは祖父母の家の縁側で撮られたものだった。幼い俺と、祖父母……そして、見覚えのない“誰か”が写っていた。


 そいつの顔だけが、黒く塗りつぶされていた。


 その瞬間、俺の耳元で囁きがした。


「オマエハ……ワスレタ……」


 ゾクリと背筋が凍る。


 あの夢は、まだ終わっていない。いや――終わらせてもらえないのかもしれない。

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九度目の訪問者 坂本餅太郎 @mochitaro-s

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