第一章. 私生児
第一話 初蔵誕生
江戸末期、黒船も来航したと言われる、漁業の盛んな港町の小さな民家から、大きな産声が聞こえた。
大正三年(1914)初蔵は誕生した。
産婆のばぁさんが、白い布に包んだ生まれたばかりの赤ん坊を、慣れた手つきで抱え、赤ん坊を見せて言った。
「———ほうれ、元気な野郎っ子だ」
出産という大仕事を終え、全身の力を使い果たし、布団に身を任せるように、放心した表情で女は横たわっていた。
女は産婆のばぁさんに向かって、
「ありがとうごぜいました」と枕に頭をつけたまま、顎を引いて礼を言った。
赤ん坊は元気な男の子だった。
父親の名は勝田七蔵、歳は二十、まだ若いが長七丸という小さいが自前の船を持つ漁師の男だ。
妻の名は
このあたりの豪商の一人娘だ。
産婆のばぁさんが、、琺瑯の洗面器に、消毒液の入った水で手を洗い、手拭いで拭き拭いながら、隣の部屋にいた七蔵を呼んだ。
七蔵は立ち膝のまま、襖を開け、
七蔵がおもむろに・・・よろけながら入って来た。
七蔵は襖の奥で、袈裟乃の身体と産まれてくる赤ん坊の無事を祈りながら、何時間も正座のまま祈り続けていたのだ。
その為、精神的疲労と足の痺れとでふらふらになりながら、袈裟乃と赤ん坊の待つ奥座敷へと入って来た。
七蔵の風体は、いが栗坊主の褐色に日に焼けた、逞しい身体の如何にも海の男といった感じの男だ。
侍気質の残っているこの時代。七蔵にもその侍の血が熱く沸っていた。
七蔵は、このあたりでは精悍な男として有名だった。正義感が強く、悪事を働く者など見つけると、黙って見過ごせない性格だった。
いつだったか、小さな入り江で、細々と網漁で生計をたてていた年老いた男がいた。
ある日、男の元へ、俺たちにも漁をさせろと割り込んできた男共がいた。
男は気が弱くそれを承諾して漁をさせていたが、お前の網のせいで俺らの網に魚が入らないと、締め出しを食ってしまった。
男は毎日漁のために入り江に出向くのだが男共が何かと因縁をつけては漁をさせてくれない。
まだ日も暮れてないというのに、男はぽつねんと、入り江の淵に腰掛けていた。
その時、漁仲間の七蔵が顔を出した。
「なんだべ、元気ねんでねが・・・」
男は漁に行くといつも握り飯をくれる庄介だった。
庄介から訳を聞いた七蔵は、すぐさま、船をだし漁をしている男共の元へ行くと、二度と入り江に来るなと話しをつけ、ついでに獲れた魚も分捕り庄介に渡してやった。
七蔵が鬼の形相で向かって来る様を見て怖気づいてしまったのだろう。
また酒も強く、漁が終わると決まって一杯飲み屋に寄っては酒を飲んでいた。
独り身の七蔵は時間など気にすることもなく、朝方まで酔い潰れている事などよくあった。
だが前の晩にいくら飲んでも、朝は決まった時間になると、漁に出掛けていた。
そんなある晩の事、いつものように飲んでいると、女の悲鳴が聞こえてきた、表に出て見ると飲み過ぎて羞恥を無くした酔っ払いが、女の腕を掴み喚いていた。
女は母親の使いで親戚の家に行った帰りだという。
七蔵は男を殴り飛ばすと、女を連れ家まで送り届けた。
——————その時の女が袈裟乃だった。
七蔵は生まれたばかりの我が子を、初めて見る感動と無事に産まれた安堵感で、目が赤くなっていた。
七蔵は、産婆のお滝ばぁさんに向き返り、六十過ぎの皺の手を握り、何度も何度も深々と頭を下げ礼を言った。
お滝ばぁさんが、赤ん坊を抱きかかえ、産着に包んだ塊を、両手に抱え差し出すと、
「野郎っ子だ、ほれっ、重てぇぞ!」
と七蔵の胸元に手渡した。
七蔵は危ない手つきで抱き寄せ顔をクシャクシャにして、赤ん坊のおでこに自分のおデコをくっつけたり、ほっぺたを指でつついたりして、喜びを表した。
七蔵は横たわる袈裟乃の前に、正座をして身を案ずる言葉を掛けた。
頬に薄っすらと汗をかいた袈裟乃はピンク色に戻った唇を動かし、自分は大丈夫だと七蔵に伝えた。
「そうが、大丈夫が、よがったよがった」と七蔵は、また感激の涙を流しオイオイと声を出して泣いていた。
赤ん坊の名前は、初めての子である七蔵の子だから「初蔵」と名付けられた。
七蔵二十歳の時だった。
本当なら赤飯を炊いて祝うところだが、二人は身分の違いから、結婚を反対され一緒になる事は、どうしても許されず、私生児として初蔵は誕生したのである。
初蔵は産まれてすぐに父方の実家、勝田家にあずけられ、育てられる事になった。
———蝉の声が、耳に痛いくらい響き渡る、真夏の事だった。
初蔵が生まれた大正三年六月には、大正博覧会が開催され、不忍池を渡るケーブルカーが人目を引いていた。
この年、世界は第一次世界大戦へと突入していった。
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