第5話 揺れる日常

 朝の校舎で、ぼくは予期せぬ出来事に遭遇した。

 特別教室棟から普通教室棟への渡り廊下で、向こうからアカリがやってくるのが見えたのだ。

 

 彼女はぼくを見つけると、迷うことなくまっすぐぼくの方に歩いてきた。


「あ、ハルト。おはよう」


 周囲には、まるで取り巻きのように付き従う彼女と同じクラスの生徒に加え、他クラスや他学年の生徒もいる。それでも、彼女は全く気にする様子もなく、自然に声をかけてきた。

 瞬間、廊下にいた生徒たちの足が止まる。


「え? 輝城さんが……」

「あのダサメガネと?」

「今『ハルト』って呼んだよね?」


 ざわめきが廊下を包む中、アカリは全く動じることなく微笑んでいた。


「昨日は付き合ってくれてありがとう。とても楽しかったわ」


 彼女の言葉に、周囲のざわめきが一層大きくなる。


「また後で。例の件もよろしくね」


 そう言って軽く手を振ると、彼女は去っていった。

 

 残されたぼくは、呆然と立ち尽くしていた。


(これって、わざと……?)


 そして教室に入ると、いつもの聞こえよがしな野次は聞こえてこなかった。代わりに、興味深そうな視線と小声での会話が続いている。


「あいつ、本当に輝城とできてるのか?」

「でも確かに『ハルト』って呼んでたよな」

「昨日カラオケ行ったって噂もマジっぽい」


 あまりの静けさに、ソラの力を借りるまでもなくささやきが聞き取れる。ぼくは違和感を抱えながらも、ガタガタと椅子を引いて自分の席に腰かけた。

 教室の最後尾では、野球部員たちがこそこそと会話を交わしている。


「放課後、校門の前で輝城の高級車にダサメガネが乗り込むの見た」

「あの地味男が〝姫〟と一緒に? 嘘だろ!?」

「マジだって。他のやつも街で見かけたって」

「街?」

「ああ、カフェでお茶してたって」

「二人っきりでカラオケしてたって」

「ウソだ! 輝城亜佳莉だぞ? あの〝姫〟がダサオと仲良くなんかするわけないじゃん」


(そうか、昨日の出来事は見られていたんだ)


 自分が噂の的になっていることを理解し、ぼくは小さくため息をついた。


「おい、ダサメガネ!」


 ため息を聞きつけたのか、何人かの男子生徒がぼくの机を取り囲んだ。普段から先頭に立ってぼくをイジってくる連中で、正直ぼくは彼らのことが嫌いだった。でも、露骨にそんな表情を向けると余計にいきり立ってくるので、いつもあいまいに笑顔を浮かべてやり過ごしている。


「おまえみたいなヤツが、なんで輝城と——」


 案の定、中の一人が絡んできた。


「バカ! 余計な手出しをして姫に知られたらどうする」


 別の一人が絡んできたクラスメイトの肩を引き、そのまま後ろの方に引きずっていった。


『ハルト、心拍数が上がっていますよ。緊張していますか?』


 ソラがメガネから小声で問いかけた。


「そりゃそうだよ! 彼女、一体何を考えているんだ?」


 転校して以来、なるべく目立たないように、目をつけられないようにとずっと地味に振る舞ってきたぼくの努力が一瞬で台無しだ。


『アカリさんは意図的にこの状況を作っているように見えます。先ほど彼女の方からハルトに声をかけたことで、誰もが二人の関係を図りかねています。ハルトに直接危害を加えることには躊躇するでしょう』


 確かに、さっきまでぼくの机を取り囲んで飛びかかろうとしていた連中は、教室の隅にかたまってコソコソ相談している。


『彼女の行動パターンと表情分析からは、あなたの学校内でのヒエラルキーを意図的に改善しようとする傾向が見られます』


 ぼくは複雑な思いで一杯だった。

 イジりやいじめがおさまるのは嬉しいけど、注目されるのは困る。アカリは一体何を考えているのだろう。

 その時、心の中で、祖父の言葉がよみがえった。


「中学になって、なにか困ったことがあったら山頂の科学館を訪ねなさい」


 まさに今がそうだ。クラスメイトのいじめは耐えられるけど、この恥ずかしさと困惑にはどう対応すればいいのかわからない。


◆◆


 午後の社会科の授業中、ぼくはぼんやり窓の外を見つめていた。歴史の年号を覚えるのは苦手だった。数学の公式とは違って、すんなり頭に入ってこない。


「架原、外ばかり見てないで黒板を見ろ」


 先生の声に我に返り、ハルトが顔を上げた瞬間だった。


『ハルト! 緊急地震速報が発令されます。震度四程度の地震が十秒後に到達の予測!』


 ソラが小声で警告した。ハルトが状況を理解する一瞬の間に、突如、教室中のシンクから一斉に鳴り響く緊急地震速報のアラート音が響き渡った。


 「ピロンポロンポロン」という不協和音の連なりが教室を支配する。


 一瞬の静寂の後、「机の下に入りなさい!」という先生の指示で生徒たちが机の下に潜り込んだ。


「でもシンク通信はそのままにして!」


 そう続ける先生。


「学校からデータ共有空間に避難情報を流します。今のうちに目を通しなさい」


 ほんのわずかなずれをともなって教室全体に響き渡る同一のアラート音に、不気味な緊張感が生まれる。


「ガーデンは大丈夫かな……」


 だれかがふとこぼしたつぶやきに、周りの生徒達がハッと顔を上げる。 


「サーバーがダウンしたら、卒業前に消えちゃう!」


 悲鳴のようなささやき声に動揺する何人ものクラスメイトを目にして、ぼくはクローズドガーデンに出入りしている人数の多さに内心驚いていた。

 あの穏やかな空間。現実ではいじめられ、イジられるばかりのぼくも、あの空間でなら誰に遠慮することもなくのびのびとしていられる。


(ぼくも〝星の子〟に会えなくなるのはイヤだな)


 ぼんやりとそう思う。

 現実世界とは違って、ガーデンには仲のいい友人がいる。〝星の子〟はそんな中でも特別に気があう。でも、どこの誰かもわからない。ガーデンがなくなれば二度と会うことはないだろう。


「どこにあるんだろうねあのサーバー」

「輝城テクノロジーの研究所じゃないの?」

「いやいや、お金持ちの家の地下だって」


 小声で憶測が飛び交う。

 間もなく校舎が揺れ始めた。最初にドンと下から突き上げるようにショックがあり、すぐに大きな横揺れが始まった。


「お、大きい!!」


 誰かが震え声でつぶやく。ミシミシとサッシがきしみ、廊下の方から何かが倒れるパターンという大きな音が響く。

 女子の誰かが「ヒッ」と短い悲鳴を上げた。

 だが、揺れは長くは続かなかった。徐々に収まる揺れと共に、教室内の会話が再開する。クラスメイトたちのシンクがピッと短いビープ音をたて、ネットワークを探索し始める。


「あれ? つながらない」

「情報が更新されない」


 困惑の声が広がった。


 だが、ぼくのシンクは安定して機能していた。


『相模湾北東部、震源の深さ約四十km、マグニチュード五.二。各地の震度は……』


 ソラが詳細な情報をアナウンスする。さらに小声で『クローズドガーデンのサーバーにも大きな影響はないようです。良かったですね』と付け加えた。


「おい、ダサメガネのシンクが動いてる」


 隣の男子が漏れ出たソラの声に気づいて声を上げた。


「うそ! どうしてあいつのだけ」

「それより架原くん、地震は大丈夫? この後津波は来るの?」


 情報を求めて、クラスメイトたちがぼくの周りに群がり始めた。


「架原、お前のシンクは動いているのか? だったらみんなに情報を共有してくれないか」


 先生に指名され、ぼくはソラのアナウンスをスピーカーモードにして震源地や規模、各地の状況などを淡々と伝えた。


「ダサいメガネも時々は役に立つ」

「ねえ、どこのメーカー?」


 そんな関心の声が上がる。


(いつもはあれだけバカにしているくせに。まったく調子のいい……)


 小さくため息をつくぼくの耳に、『技術的な質問には気をつけて下さいね』と、ソラが少し的外れな警告をした。


◆◆


 放課後、昇降口を出たぼくの背中に、これまでの罵声とは違う声がかけられた。


「おい、ダサメ……じゃなくて、架原、またなー」

「その眼鏡、すげーな」


 驚いて振り向いた時には、声の主はもう走り去っていた。


『あの地震以来、クラスの雰囲気が少し変わりましたね』


 ソラは淡々と状況を要約する。


「お待たせ、架原くん」


 アカリが手を振りながら駆け寄ってきた。校門近くに群がっている生徒たちの間に「また〝姫〟と〝ダサメガネ〟が……」というつぶやきと困惑が広がる。


「あのさ、もしかして、わざと目立つようにしているの?」


 ぼくが小声で尋ねると、アカリは少しだけ目を見開き、「気づいてた? さすがね」と小さく笑った。


「突然二人でいる所を見られでもしたら、それだけで噂になるでしょ? たとえば君が私の家を訪ねるところを見られたら、みんなはどう思うかしら?」

「大騒ぎになるだろうね」

「でも、私たちが知り合いで、普段から二人でいることが普通になれば、どこで一緒にいても不自然じゃなくなるでしょ」

「そんなものなのかな?」


 有名人にはそれなりの計算があるんだなあとぼくは感心する。


「それより準備はいい? 今日は先に君の用事を済ませましょう。科学館に行く。それからウチに来て私を手伝ってもらうわ」


 アカリが計画をおさらいする。


「ところで、今日の地震、〝ダサメガネ〟君のシンクだけ正常だったって噂、聞いたわよ」


 からかうような口調で言いながらも、目は真剣だった。彼女の関心がぼくよりソラの性能にあるあたりはブレないらしい。


 その時、校門の先に音もなく停車した黒塗りの高級車を見て、アカリの表情がわずかに曇った。


「朝、許可を取ったはずなのに……」

「あー、やっぱり今日は無理かな?」


 ぼくが諦めかけると、アカリは「ちょっと待って」と車に駆け寄った。


 運転手との短い会話の後、アカリはすぐに戻ってきた。


「プレゼン準備のために、シンクの一般ユーザーにヒアリングしていると伝えたわ。十九時まで自由時間をもらえた」

「そう」

「いい? 君は私の〝研究対象〟ということで。もし誰かに聞かれたら話を合わせてね」


 アカリは小さく笑うと右手を差し出した。


「じゃあ、行きましょう。科学館へ」

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