第5話 永遠の微笑
天羽修一の葬儀は、ひっそりと執り行われた。参列者はほとんどなく、メディアが数人、遠巻きに見守るだけだった。被害者の家族たちは参列を拒否し、天羽の親族も姿を見せなかった。
雨の降る墓地で、悠子は一人、離れた場所から式を見ていた。なぜ自分がここにいるのか、自分でも理解できなかった。憎むべき相手のはずなのに、どこか空虚な感覚があった。
「来るとは思いませんでした」
背後から声がした。振り返ると、高山刑事が立っていた。
「私もなぜここにいるのか分かりません」
悠子は小さく答えた。雨粒が彼女の頬を伝い落ちる。涙なのか雨なのか、もはや区別がつかなかった。
「彼の死で、事件は完全に終結しました」
高山刑事は言った。
「天羽の協力者として特定された2名も逮捕され、被害者全員の身元も確認されました。全部で9名…真理さんを含めて」
悠子は黙って頷いた。数字を聞くたびに胸が痛んだ。
「美咲さんは?」
「保護プログラムに入りました。しばらくは身を隠して生活することになります」
式が終わり、棺が地中に降ろされていく。天羽の「芸術」は、土の中で朽ちていくことになる。皮肉な結末だった。
「私は…まだ終わっていない気がするんです」
悠子は言葉を探りながら言った。
「あの日、工房から出てきた真理の人形…あれは私が置いた場所にはなかったんです」
高山刑事は理解のある目で彼女を見つめた。
「心の傷は、時に奇妙な形で現れることがあります」
「そうかもしれませんね」
悠子は微笑もうとしたが、どこか虚ろだった。
「今後のご予定は?」
「しばらく工房を閉めようと思います。旅に出るかもしれません」
悠子は遠くを見つめた。
「少し距離を置く必要があるんです。蝋人形から…あの記憶から」
高山刑事は静かに頷いた。
「理解できます。何かあれば、いつでも連絡を」
墓地を後にした悠子は、まっすぐ自宅に向かった。雨は強くなり、空は鉛色に沈んでいた。
家に着くと、由香里からのメッセージが残されていた。
「お元気ですか?何か必要なことがあれば連絡してください」
優しい言葉に、悠子は少し心が和らいだ。由香里とは不思議な縁で結ばれたが、今では貴重な友人だった。
しかし、まだ一人でいる時間が必要だった。返信はせず、悠子は静かに工房へと足を向けた。
工房のドアを開けると、そこには変わらぬ蝋人形たちが彼女を待っていた。棚に並ぶ小さな人形たち、作業台の上の道具たち。ここで過ごした時間の重さを感じる。
悠子は深呼吸し、真理の等身大蝋人形の前に立った。警察から返還された証拠品だ。血に染まった部分は綺麗に洗われていたが、薄いシミが残っていた。
「真理…」
彼女は蝋でできた友人の顔を見つめた。あまりにも本物そっくりで、今にも目を開けて話しかけてきそうな錯覚を覚える。
「もうすぐ旅立つわ」
悠子は人形に語りかけた。
「少し時間が必要なの。あなたとの思い出も、この技術も…全てを整理する時間が」
返事がないのは当然だが、悠子はそれでも話し続けた。
「天羽は死んだわ。もう誰も傷つけない」
彼女は人形の冷たい手に触れた。
「でも、私はまだ疑問があるの。あの日、なぜ人形が動いたの?私の幻覚?それとも…」
言葉を切った悠子の耳に、かすかな囁きが聞こえたような気がした。振り返るが、部屋には誰もいない。
「気のせいね」
彼女は首を振り、作業台に目を向けた。そこには旅行の準備リストが置かれていた。明後日には出発の予定だ。
蝋人形たちをどうするか、まだ決めかねていた。親族に預けるか、それとも鍵をかけて置いていくか。
「もう帰ってこないかもしれないのに」
彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。でも、本当にこの技術を捨てられるだろうか?祖母から受け継いだ伝統を?
悠子は棚の人形たちを一つずつ手に取った。どの作品も思い出がある。喜びの涙を流した依頼者、亡くなった愛犬の姿を再現してほしいと頼んできた老夫婦、初めて人形を抱きしめた時の子供の笑顔…
「私の技術は、本来は幸せを届けるためのものだった」
悠子は真理の人形に視線を戻した。
「あなたのためにできることは?」
そのとき、工房の電気が瞬いた。一瞬の暗闇の後、また明かりが戻る。外では雷が鳴っていた。
悠子はため息をついた。旅立ちの準備を始めよう。彼女は真理の人形に背を向け、荷造りのためのダンボール箱を取りに行った。
背後で、かすかな音がした。振り返ると…
真理の人形が、わずかに動いたように見えた。頭の角度が、少しだけ変わっている。
「まさか…」
悠子は恐る恐る近づいた。単なる照明の錯覚だろうか?それとも自分の疲れた精神が見せる幻か?
人形の顔を覗き込むと、その瞳が彼女を見つめ返しているような気がした。完全に彼女の想像だと理解しつつも、悠子は言葉をかけずにはいられなかった。
「何か言いたいの?」
沈黙。当然だ。これは蝋でできた人形に過ぎない。魂など宿っているはずがない。
悠子は首を振り、作業を続けようとした。そのとき、工房のドアベルが鳴った。
「こんな時間に誰?」
悠子は時計を見た。夜の9時を過ぎている。予約外の来客など、めったにない時間だ。
恐る恐るドアに向かい、覗き窓から外を見た。
雨に濡れた女性が立っていた。見覚えのない顔だ。
「どちら様ですか?」
ドアを少し開けて尋ねると、女性は小さく微笑んだ。
「御子柴さん?お話があって来ました」
30代前半だろうか。整った顔立ちで、長い黒髪が雨で濡れていた。
「こんな時間に申し訳ありません。でも、どうしてもお会いしたくて」
女性の声には切迫感があった。悠子は警戒しながらも、雨の中に立たせておくのは忍びなかった。
「どうぞ、お入りください」
工房ではなく、リビングに女性を案内した。悠子は警戒心から、キッチンのナイフが手の届く場所にあることを確認しておいた。天羽の一件以来、用心深くなっていた。
「お茶をお出ししましょうか」
「ありがとうございます」
女性は部屋を見回していた。特に壁に飾られた写真に目が留まる。そこには悠子と真理の笑顔が収められていた。
「ご友人ですか?」女性が尋ねた。
「ええ…亡くなった友人です」
悠子はお茶を出しながら答えた。
「それで、どのようなご用件で?」
女性は深呼吸をして言った。
「私は城之内麻耶と申します。実は…私も天羽修一と関わりがあったんです」
悠子の血の気が引いた。再び天羽の名を聞くとは。
「あなたも…被害者?」
麻耶は首を横に振った。
「いいえ、私は…彼の元婚約者の妹です」
「元婚約者?」
悠子は混乱した。警察の調査では、天羽の最初の妻・葵以外のパートナーは見つかっていなかったはずだ。
「姉の葵は、10年前に亡くなりました。公式には事故死となっていますが…」
麻耶の目に涙が浮かんだ。
「私は常に疑問を持っていました。姉は天羽との結婚を控え、幸せだったはずなのに…」
悠子は息を呑んだ。葵が天羽の最初の妻だとすれば…
「あなたのお姉さんが…天羽のコレクションの最初の…」
「そう思っています」麻耶は静かに答えた。「彼の蝋人形コレクションが始まったのは、姉の死後からです」
彼女はバッグから古い写真を取り出した。そこには、若く美しい女性の姿があった。長い黒髪、優しげな目元…真理や他の被害者たちに似ている。
「警察の調査で、天羽のコレクションの中に姉そっくりの蝋人形があったと聞きました。それを確認したくて」
悠子は深く息を吐いた。
「警察は全ての証拠を押収しています。私には見せることができません」
嘘をついた。真理の人形は今も工房にあるが、他の女性の情報を教えるのは躊躇われた。
「そうですか…」麻耶は肩を落とした。「最後に姉の面影を見たかったのですが」
悠子は麻耶の悲しみに心を動かされた。同じ喪失感を抱える者同士、どこか共感するものがあった。
「お姉さんのことを教えていただけますか?」
悠子の問いに、麻耶は少し明るい表情になった。
「葵は優しくて、芯の強い人でした。美術大学で学び、キュレーターを目指していました。天羽とは美術展で出会ったそうです」
それは真理の状況と似ていた。天羽は美術関係者の女性を好んだのだろうか。
「彼女は本当に天羽を愛していたんですか?」
「最初は」麻耶は言った。「でも、結婚直前、姉は何か不安を感じていたようでした。『修一には秘密がある』と言っていたんです」
悠子の背筋に冷たいものが走った。葵は天羽の本性に気づいていたのかもしれない。
「それから間もなく、姉は事故で…」
麻耶の声が震えた。
「私は常に疑問を持ち続け、天羽を調査していました。でも、証拠は何も見つからず…そして事件が明るみに出て、彼が逮捕された時、私は確信したんです」
悠子は沈黙のまま、麻耶の話に耳を傾けた。
「姉の遺体は火葬されましたが、彼が密かに…何かを保存したのではないかと」
「頭蓋骨を…」
悠子は思わず口にした。天羽の地下工房で見た、蝋で覆われた頭蓋骨。それが葵のものだったとしたら…
麻耶の目が見開かれた。
「あなたは見たんですね?姉の…」
悠子は言葉に詰まった。真実を告げるべきか、それとも麻耶を守るために隠すべきか。
「地下室で、いくつかの…頭蓋骨を見ました。蝋で覆われていて…」
麻耶の顔から血の気が引いた。
「やはり…」
「でも、どれがお姉さんのものか、特定することはできません」
悠子は急いで付け加えた。
「警察は全て証拠として保管しています。いずれDNA鑑定が行われるでしょう」
麻耶は小さく頷いた。その目には決意の色が浮かんでいた。
「御子柴さん、最後にお願いがあります」
「何でしょう?」
「姉の…いえ、全ての犠牲者の方々の安らかな眠りのために、何か作っていただけませんか?」
悠子は驚いた。
「作る?」
「はい。あなたの蝋人形の技術で、彼女たちの魂を鎮める何かを」
それは予想外の依頼だった。悠子は迷った。蝋人形から距離を置こうとしていた矢先に、このような依頼とは。
「私には…もう蝋人形を作る自信がありません」
「でも、あなただけができることがあるはずです」
麻耶の目には真剣な思いが宿っていた。
「犠牲者を冒涜するためではなく、彼女たちの魂を解放するために」
悠子は窓の外を見た。雨はさらに激しくなり、雷が光っている。そして、不意に工房が気になった。
「少しよろしいですか?」
悠子は立ち上がり、工房へと向かった。ドアを開けると、そこには変わらぬ風景が広がっていた。蝋人形たちは静かに棚に並び、真理の等身大人形も同じ場所に座っている。
しかし、悠子には何かが違って見えた。人形たちの表情が、わずかに変わったように感じる。まるで彼女の決断を待っているかのように。
特に真理の人形の顔。優しい微笑みを湛えているように見えた。
悠子は工房に戻り、麻耶の目をまっすぐ見つめた。
「引き受けます」
麻耶の顔に安堵の表情が広がった。
「ありがとうございます」
「ただし、私なりのやり方で」
悠子は条件を付けた。
「一つの像を作ります。全ての犠牲者の魂を象徴するものを」
麻耶は深く頷いた。
「いつ完成しますか?」
「1ヶ月後。それまでに私なりの調査をしたいんです。犠牲者一人一人のことを少しでも知りたい」
「分かりました。私も協力します」
その晩、麻耶を見送った後、悠子は工房に戻った。真理の人形の前に立ち、静かに語りかけた。
「旅は延期するわ。最後に一つ、作品を作る」
風のような音が聞こえたような気がした。悠子は微笑んだ。
「あなたたちのための作品よ」
***
1ヶ月後、小さな美術館のギャラリーで特別展示が行われた。
「失われた魂への贈り物 - 御子柴悠子作品展」
会場の中央には、一つの大きな蝋像が置かれていた。それは翼を広げた女性の姿。顔立ちは特定の誰かというわけではなく、9人の犠牲者の特徴を微妙に混ぜ合わせたものだった。
像の胸元には小さな窓があり、中には9つの小さな蝋の心臓が納められていた。それぞれには犠牲者の名前が刻まれている。
「解放」と名付けられたその作品は、訪れる人々に強い印象を与えた。特に被害者の家族たちは、涙を流しながら作品の前に立ち尽くした。
展示の最終日、閉館後の静かな会場に、悠子は一人で立っていた。
「これで終わりね」
彼女は像に語りかけた。
「あなたたちの魂が安らかに眠れますように」
背後から足音がした。振り返ると、麻耶が立っていた。
「素晴らしい作品です」
彼女は静かに言った。
「姉も喜んでいると思います」
悠子は微笑んだ。
「私もそう思います」
二人は静かに像を見つめた。窓から差し込む夕日が、翼を黄金色に染めている。
「これからどうされますか?」麻耶が尋ねた。
「予定通り、旅に出ます」
悠子は答えた。
「でも…いつか戻ってくるつもりです。蝋人形師として」
麻耶は嬉しそうに頷いた。
「お帰りをお待ちしています」
彼女が去った後、悠子は最後にもう一度作品を見つめた。蝋像の表情が、微かに変化したように見えた。微笑んでいるように。
「さようなら」
悠子は小さく呟き、会場を後にした。
***
1年後。
悠子は世界各地を旅した後、再び工房に戻ってきた。長い旅で、彼女は多くのことを学び、考え、そして決意を新たにしていた。
「ただいま」
彼女は静かに工房のドアを開けた。埃をかぶった蝋人形たちが、彼女の帰りを待っていた。
作業台に向かい、悠子は新しいスケッチブックを開いた。そこには、旅先で出会った人々の素描がびっしりと描かれていた。
彼女は深呼吸し、新たな蝋塊を手に取った。指が蝋に触れた瞬間、温かい感覚が広がった。
工房の窓から差し込む朝日が、彼女の手元を優しく照らしている。
「また始めましょうか」
悠子の指先が、再び命を吹き込むように動き始めた。蝋は徐々に形を成し、そこに新たな表情が生まれていく。
彼女の背後で、真理の蝋人形が静かに微笑んでいた。その微笑みは、もはや悠子を怖れさせるものではなく、見守るような優しさに満ちていた。
窓の外では、穏やかな風が吹き、桜の花びらが舞っていた。新しい季節の始まりだ。
悠子の工房に、再び人形たちの囁きが満ちていった。しかし今度は、恐怖ではなく、創造の喜びに満ちた音色だった。
***
御子柴工房の噂は、再び広がり始めた。
「彼女の人形は魂を持っている」と人々は囁いた。
「亡くなった人の面影を完璧に再現する」
「彼女は死者と対話できる」
様々な噂が飛び交ったが、悠子はただ黙々と作業を続けた。
時に、彼女は作業中に誰かの気配を感じることがあった。振り返っても誰もいないが、どこかで真理が見守ってくれているような安心感があった。
ある日、工房を訪れた少女が、棚の蝋人形を指さして言った。
「あの人形、動いたよ!」
悠子は微笑んだ。
「そうかもしれないね」
彼女はもう否定しなかった。蝋人形に宿る魂の存在を。
工房の外では、新たな季節の風が吹いていた。そして悠子の指先は、再び蝋に命を吹き込むために動き続けていた。
永遠の微笑みを湛えて。
(完)
『蝋人形師の告白』 ソコニ @mi33x
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