第2話 影の記憶
「どうぞ、お入りください」
悠子は震える女性を工房の中へと招き入れた。女性は30代前半、痩せた体に似合わない大きなコートを着ていた。髪はきちんと整えられているが、目の下には疲れの色が濃い。
「お茶をお出ししましょうか」
女性は小さく頷いた。悠子がキッチンでお茶を入れている間、女性は工房の中を落ち着かない様子で見回していた。特に、制作途中の真理の等身大蝋人形に目が釘付けになっていた。
「まだ途中なので」
悠子は言いながらお茶を差し出した。女性は両手でカップを包み込むように持ち、その温もりで手を温めた。
「私の名前は、佐伯由香里といいます」
彼女は小さな声で言った。
「天羽修一という人物から、奥様の等身大蝋人形を作るよう依頼されたと聞きました」
由香里の言葉に、悠子は眉をひそめた。
「どちらから?」
「高山刑事から」
由香里は言って、自らのハンドバッグから一枚の名刺を取り出した。弁護士事務所の名刺だ。
「私は弁護士です。3年前、天羽修一と付き合っていた女性の家族から依頼を受けました。行方不明になった娘さんのことで」
悠子は息を飲んだ。
「真理のことですか?」
由香里は首を横に振った。
「久保田里奈さんです。彼女も3年前に行方不明になりました」
悠子の頭の中で、何かが繋がり始めた。
「天羽修一は、複数の女性と…」
「はい。私が把握しているだけで、3人の女性が彼と関わったあと、行方不明になっています」
由香里はバッグから写真を取り出した。そこには、20代後半と思われる女性の笑顔があった。
「これが久保田さん。そして、これが水野絵美さん。どちらも天羽と交際し、突然姿を消しました」
3人の写真を並べてみると、ある共通点が浮かび上がった。どの女性も、細身で長い黒髪、優しげな目元をしていた。体型や雰囲気が驚くほど似ている。
「警察は?」
「それぞれ別々の管轄で捜査され、繋がりが見えていません。高山刑事は真理さんの件で天羽を疑っていましたが、証拠不足で…」
由香里は言葉を切り、深く息を吐いた。
「今回、あなたが天羽から依頼を受けたと聞いて、すぐに来ました。もしかしたら、何か手がかりが…」
悠子は考え込んだ。確かに状況は不自然だ。しかし、まだ決定的な証拠はない。
「天羽さんの家には、若い女性の蝋人形がたくさんありました」
悠子は昨日見たコレクションについて話した。
「それで、鍵のかかった部屋があって…」
由香里の表情が変わった。
「鍵のかかった部屋?」
「はい。"プライベートな部屋"と言っていました」
由香里はメモを取りながら頷いた。
「調べる必要がありますね。でも、令状なしでは…」
二人は沈黙した。工房の外では、雨が再び降り始めていた。
「私にできることは?」
悠子が尋ねると、由香里は真剣な眼差しを向けた。
「人形制作は続けてください。天羽に疑われないよう。そして、もし家に入る機会があれば…」
言外の意味を理解した悠子は小さく頷いた。
「分かりました」
その夜、悠子は眠れなかった。頭の中は真理のことでいっぱいだった。そして、他の失踪した女性たち。彼女たちは今どこに?
目を閉じても、蝋人形のガラスケースが浮かんでくる。あの奥の、鍵のかかった部屋には何があるのだろう。
***
翌朝、悠子は決意を新たに作業に取り掛かった。真理の等身大蝋人形は、徐々に形になりつつあった。骨組みができ、蝋を塗り重ねた基本的な姿勢が完成している。今は細部、特に顔の表情に集中していた。
工房のドアベルが鳴り、悠子は顔を上げた。午前中は来客の予定がない。訪ねて来たのは高山刑事だった。
「御子柴さん、お話があります」
悠子は刑事を中に招き入れた。高山刑事は50代半ば、温厚な印象だが鋭い目をしている。
「佐伯弁護士から話は聞きました」
高山刑事は頷いた。
「天羽修一の背景を調査しています。彼は裕福な芸術品コレクターで、社交界でも知られた人物です。しかし、プライベートはベールに包まれている」
高山は資料を広げた。
「彼の過去には、いくつかの不審な点があります。10年前、彼の最初の妻が事故で亡くなっています。車の事故でしたが、状況にはっきりしない点がありました」
「それで、真理たちは?」
「天羽と交際していた女性たちは、すべて彼の最初の妻に容姿が似ています」
悠子は写真を見比べた。言われてみれば、最初の妻も真理たちと同じタイプだ。細身で長い黒髪…
「彼は妻の代わりを探していたのかもしれません」
高山刑事は続けた。
「しかし、なぜ次々と…」
言葉を濁す高山刑事の目は、悠子が作っている人形に向けられていた。
「彼は完璧を求めているのかもしれません。でも、生身の人間に完璧を求めれば…」
「失望する」
悠子は呟いた。蝋人形なら、完璧な姿を永遠に保つことができる。人間の女性たちに失望した天羽は、最終的に人形に…
恐ろしい推測が頭をよぎった。
「御子柴さん、危険な橋を渡るつもりはありません。あなたに調査を頼むわけではない」
高山刑事は真剣な表情で言った。
「私たちは合法的に捜査を進めます。ただ、もし何か気になることがあれば、すぐに連絡を」
悠子は頷いた。しかし、内心では既に決意していた。真理のために、自分にできることをする。
刑事が帰った後、悠子は真理の写真を眺めながら作業を続けた。親友の笑顔を再現しながら、悠子の中に一つの計画が形成されていった。
***
3週間後、人形の形はほぼ完成していた。顔の細部から指先まで、驚くほど精巧に作り上げられている。髪の毛一本一本、皮膚の質感、瞳の輝きまで、悠子は自分の技術のすべてを注ぎ込んだ。
もう少しで完成というとき、予定より早く天羽修一から連絡があった。
「進捗を確認したい」
電話越しの声は、前回より切迫していた。悠子は冷静さを装いながら答えた。
「ほぼ完成しています。あと数日で」
「今日、見せてもらえないだろうか」
悠子は一瞬躊躇したが、これは計画通りだった。
「もちろん、どうぞ」
数時間後、天羽修一は工房を訪れた。今日も黒いコートに身を包み、どこか影のような印象の男だ。彼の目は、作業台の上の人形に釘付けになった。
「素晴らしい…」
修一は人形に近づき、その頬に触れようとした。悠子は内心で身震いしたが、表情に出さないよう努めた。
「まだ細部の調整が残っています」
「いや、既に完璧だ」
修一の目は異様な輝きを帯びていた。狂信的とも言える熱意が、その瞳に宿っている。
「今日、持ち帰りたい」
「えっ?まだ髪の植え付けも終わっていませんし…」
「残りの作業は私の家でできないか?報酬は倍額にする」
悠子は内心で喜んだ。これは予想外の展開だったが、天羽家に長時間滞在できるチャンスだ。
「…分かりました。必要な道具を揃えます」
修一は満足げに頷いた。
「車を手配する。1時間後に来てくれる」
修一が去った後、悠子はすぐに由香里に連絡した。計画の変更を伝え、万が一の場合の段取りを確認する。そして、小さなボイスレコーダーをポケットに忍ばせた。
1時間後、高級車が工房の前に停まった。運転手が人形を丁寧に車に積み込み、悠子もそれに続いた。
車内は静かで、革の高級な香りがした。修一は黙って窓の外を見ていた。悠子は緊張で手に汗をかいていたが、職業的な態度を崩さないよう努めた。
「あの…天羽さん」
「修一でいいよ」
意外な言葉に、悠子は一瞬言葉に詰まった。
「修一さん、奥様とはどのようにお知り合いに?」
しばらくの沈黙の後、修一は小さく笑った。
「画廊でだ。彼女は絵を見ていた。美しい横顔に、私は一目で恋に落ちた」
その表情は、本当に愛に満ちていた。しかし同時に、どこか不気味さも漂わせていた。
「彼女は完璧だった。私の理想そのもの」
悠子は慎重に質問を続けた。
「いつ頃ですか?」
「3年と8ヶ月前」
時期が合わない。真理が失踪したのは3年前だ。
「結婚は?」
「2ヶ月後」
ますます混乱する。真理がそんな話をしていたはずがない。
車は高級住宅街に入り、やがて天羽家の前に停まった。昼間見る屋敷は、前回よりさらに豪華に見えた。まるで時が止まったような、古き良き時代の雰囲気が漂う邸宅。
人形は慎重に書斎へと運び込まれた。悠子は必要な道具を広げ、作業の準備を始めた。
「何か飲み物を持ってきましょうか?」
修一の声に、悠子は振り返った。
「ありがとうございます。お水をいただけますか」
修一が部屋を出ると、悠子はすぐに行動に移った。まず、書斎のガラスケースを詳しく観察する。そこには確かに、真理に似た蝋人形があった。しかし、よく見ると他の女性の人形も…先日由香里から見せられた久保田里奈や水野絵美に似た人形もあった。
悠子の背筋に冷たいものが走った。そして、鍵のかかった部屋のドアに目を向けた。
鍵穴を調べようとした瞬間、足音が聞こえた。慌てて作業に戻る。
「お水です」
修一は言って、グラスを差し出した。
「ありがとうございます」
悠子はそれを受け取り、一口飲んだ。
「作業は何時間ほどかかりますか?」
「髪の植え付けだけでも5、6時間はかかります。それから仕上げの調整で…」
「一晩中かかっても構いません。客室も用意してあります」
修一の言葉に、悠子は内心で喜んだ。これは予想以上の展開だ。
「ありがとうございます。では、早速始めましょう」
悠子は人形の髪の植え付けに取り掛かった。一本一本、細い針で蝋の頭部に黒髪を刺していく。根気のいる作業だが、悠子の手は正確だった。
時折、修一が様子を見に来る。彼は黙って作業を眺め、時に微笑み、また去っていった。その度に、悠子の緊張は高まった。
夕方になり、外が暗くなり始めた頃、修一は食事を持ってきた。
「お腹が空いたでしょう」
丁寧に盛り付けられた料理を見て、悠子は驚いた。
「ありがとうございます。でも、作業中なので…」
「休憩してください。妻も、あなたがきちんと食事をとることを望むでしょう」
その言い方に、悠子は不思議な感覚を覚えた。まるで人形が本当に生きているかのような話し方だ。
食事をしながら、悠子は部屋を観察し続けた。書斎の本棚には芸術関連の書籍が並び、特に蝋人形に関する専門書が多い。壁には絵画が飾られているが、それらはすべて女性の肖像画だった。
「美術品のコレクションをされているんですね」
「ええ、美は永遠に保存されるべきものだ」
修一の言葉には確信があった。
「特に、女性の美は…儚い。だからこそ、形に残す価値がある」
悠子は会話を続けながら、少しずつ情報を引き出そうとした。
「最初の奥様も美しい方だったと聞きました」
修一の表情が一瞬曇った。
「誰から聞いた?」
「業界の噂で…」
嘘をついた悠子の心臓は早鐘を打っていた。
修一はしばらく沈黙した後、低い声で言った。
「彼女は完璧だった。だが、完璧な物は長続きしない」
その言葉の意味を考える間もなく、修一は話題を変えた。
「作業を続けてください。私は少し外出します」
修一が去った後、悠子はチャンスだと思った。鍵のかかった部屋を調べるには絶好の機会だ。しかし、本当に彼は出かけるのか、罠ではないのか、確かめる必要がある。
窓から外を見ると、確かに修一が車に乗り込み、門から出ていくのが見えた。
悠子は静かに書斎を出て、屋敷を探索し始めた。まず、他に誰かいないか確認する。1階を慎重に回ったが、人の気配はない。静寂だけが支配する館内。
2階に上がると、いくつかの寝室があった。主寝室と思われる部屋は豪華だが、誰も使っていないような印象だ。ベッドは完璧に整えられ、埃一つない。まるでモデルルームのよう。
もう一つの寝室は、明らかに使用されている。修一の私物らしきものが置かれていた。
そして、もう一つのドアがあった。これも鍵がかかっている。
悠子は書斎に戻り、鍵のかかった部屋のドアを再び調べた。普通の鍵穴だが、開ける方法はない。
書斎の机を調べると、引き出しがいくつかあった。一つずつ開けていくと、最後の引き出しに小さな鍵が見つかった。
心臓の鼓動が早まる。この鍵は…
試しに鍵穴に差し込むと、ぴったりとはまった。悠子は深呼吸し、ゆっくりと鍵を回した。
カチリ、という小さな音と共にドアが開いた。
悠子は恐る恐る中を覗いた。
そこは、小さな部屋だった。壁一面に写真が貼られている。すべて女性の写真。中央には作業台があり、その上には…
悠子は息を呑んだ。
そこには、人間の頭蓋骨があった。
しかし、それは普通の頭蓋骨ではない。蝋で覆われ、部分的に人形の顔が形作られていた。半分は骨、半分は美しい女性の顔。まるで制作途中の作品のよう。
恐怖で足がすくみそうになったが、悠子は携帯電話を取り出し、部屋の中を撮影し始めた。証拠が必要だ。
写真の中には、確かに真理の姿もあった。彼女だけでなく、由香里が見せてくれた他の行方不明女性たちの写真も。そして、天羽の最初の妻の写真も。
壁には、新聞の切り抜きもあった。「女性行方不明」「捜査続く」などの見出し。
作業台の引き出しを開けると、中には様々な道具。メスや鋏、そして…
悠子は引き出しの奥から小さな手帳を見つけた。それを開くと、几帳面な字で日付と名前が書かれていた。
「葵、完成。でも目の色が違う」
「麻衣子、失敗。皮膚の質感が出ない」
「真理、ほぼ完璧。しかし笑顔が不自然」
そして最後の記述。
「御子柴悠子に依頼。彼女なら完璧な真理を作れるはず」
悠子の手が震えた。これは、天羽が自分の"コレクション"について書いた記録だ。そして、自分もその対象になっているということ。
突然、玄関のドアが開く音がした。
修一が戻ってきた。
悠子は慌てて手帳を元の場所に戻し、写真を撮り終えると、静かに部屋を出た。鍵をかけ直し、急いで書斎の作業場に戻る。
人形の髪の植え付け作業に戻った悠子の手は、恐怖で震えていた。それでも、プロとしての技術で作業を続ける。
足音が近づいてくる。悠子は深呼吸し、冷静を装った。
「作業は順調ですか?」
修一が書斎に入ってきた。彼の手には紙袋がある。
「はい、順調です」
「これを見てください」
修一は紙袋から、長い黒髪の束を取り出した。
「本物の髪です。人形に使ってください」
悠子は凍りついた。
「これは…」
「美しいでしょう?特別なものです」
悠子は震える手で髪の束を受け取った。この髪は…まさか…
「あの、これは…」
「質問はしないでください」
修一の声が急に冷たくなった。彼の目は、先ほどまでの温かさを失っていた。
「ただ、最高の作品を作ってください」
悠子は小さく頷いた。この髪は真理のものなのか、あるいは他の女性のものなのか。考えるだけで気持ちが悪くなる。
修一は悠子の様子を観察していた。
「何か問題でも?」
「いいえ…ただ、疲れてきました」
「そうですか。では、休憩しましょう。お茶を入れます」
修一が部屋を出た隙に、悠子は急いで由香里にメッセージを送った。
「証拠あり。危険。助けて」
そして住所を添えた。
修一が戻ってくる前に、メッセージを送信し終えた。
「お茶です」
悠子はカップを受け取った。不安で胸がいっぱいだったが、疑われないよう一口飲んだ。
「ありがとうございます」
修一は黙って悠子を見つめていた。その視線に、悠子は居心地の悪さを感じた。
「あの部屋に入りましたね」
突然の言葉に、悠子の血の気が引いた。
「え?」
「鍵のかかった部屋です。入りましたね」
修一の口調は変わらないが、目は冷たく光っていた。
「私は…」
「嘘をつかないでください。私には分かります」
修一は立ち上がり、悠子に近づいた。
「あなたには失望しました。あなたなら理解してくれると思ったのに」
悠子は後ずさりしたが、足がふらついた。視界がぼやけ始める。
「お茶に…何を…」
「心配しないで。痛くはありません」
修一の声が遠くなっていく。
最後に見たのは、修一が自分の髪に触れる姿だった。
「あなたも、コレクションの一部になりますよ」
意識が遠のく中、悠子は思った。
真理、ごめんね。あなたを助けられなかった。
そして闇が訪れた。
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