『蝋人形師の告白』
ソコニ
第1話 顔のない依頼者
雨の音が工房の屋根を叩く。リズミカルな音が、悠子の指先の動きと不思議な調和を保っていた。彼女はその小さな指で、まだ形のない蝋の塊に徐々に命を吹き込んでいく。窓からは殆ど光が差し込まず、ただ薄暗い部屋の中で悠子の手元だけが作業灯に照らされていた。
「あと少し…」
悠子は目を細め、ピンセットで蝋人形の唇の輪郭を微調整する。彼女の技術は完璧だった。蝋人形師として三代目となる彼女は、祖母から受け継いだ技術を更に昇華させていた。特に人の表情を捉える力は、祖母すら超えていると業界では評判だった。
完成した蝋人形は、手のひらに乗るサイズながら、依頼主の娘そっくりの笑顔を浮かべていた。幼い女の子の、あどけなさと無邪気さを完璧に再現している。悠子は満足げに微笑み、小さな箱に人形を収めた。
明日、依頼主が取りに来る。死産で失った娘の記念に、と依頼された人形だった。悠子は自分の作品が、誰かの心の傷を癒す助けになることを密かに誇りに思っていた。
鐘の音が静かな工房に響き、悠子は顔を上げた。午後8時を過ぎている。予約外の来客はめったにない時間だ。悠子は身支度を整え、工房の奥から玄関へと向かった。
古びた木戸を開けると、黒いコートを着た男性が立っていた。背が高く、黒い傘で顔が見えない。雨粒が傘から流れ落ち、玄関先の石畳に水溜りを作っている。
「御子柴工房ですね」
低く、しかし穏やかな声だった。悠子は目を細めて相手を見ようとするが、男は傘を斜めに傾けたままだ。
「はい、そうですが…どちらさま?」
「依頼があります」
男は言葉少なに続けた。
「妻の人形を作ってほしい」
通常、悠子の工房では予約制で依頼を受け付けている。しかし、この男の声には何か切迫したものを感じた。彼女は少し躊躇したが、男を中へ招き入れることにした。
「お入りください。詳しくお聞かせいただけますか」
男は傘を閉じ、しずしずと中へ入ってきた。部屋の明かりで初めて、その顔が見えた。
端正な顔立ち、しかし異様に青白い。年齢は40代前半だろうか。黒い髪は雨に濡れて額に張り付いている。しかし何より異様だったのは、その目だった。余りにも暗く、光を吸い込むような瞳。悠子は思わず身震いした。
「どのようなサイズの人形をご希望ですか?」
「等身大で」
悠子は一瞬、聞き間違えたかと思った。
「等身大…ですか?」
「はい。最愛の妻の等身大の人形を作ってほしい」
悠子は困惑した。彼女の工房では、通常手のひらサイズから人間の頭部くらいまでの蝋人形を制作している。等身大となると、技術的には可能だが、費用も労力も桁違いだ。
「かなりの費用がかかりますが…」
「構いません」
男は言って、内ポケットから封筒を取り出した。中には、想像を絶する額の現金が入っていた。悠子は息を呑んだ。
「これは前金です。残りは完成時にお支払いします」
悠子は圧倒された。しかし、職業的な好奇心も湧いてきた。ここまでして作りたい「最愛の妻」とはどんな人なのだろう。
「お写真はありますか?モデルになっていただければ理想的ですが…」
「妻は…もういません」
男の声は低く沈んだ。
「彼女の写真はこちらです」
差し出された写真を見た瞬間、悠子の血の気が引いた。
写真に写っていたのは、3年前に失踪した親友・真理だった。
「彼女は…」
「私の妻です。天羽真理」
悠子は動揺を隠そうと必死だった。真理が結婚していたなんて聞いていない。彼女が最後に連絡をくれたのは3年前、「ちょっと旅に出る」というメッセージだけだった。それきり音信不通で、警察にも捜索願を出したが、結局見つからなかった。
「旦那様は…お名前は?」
「天羽修一です」
天羽。確かに真理の姓だ。しかし、真理が結婚していたとは…
「写真だけで大丈夫ですか?もっと詳細な…」
「こちらにアルバムがあります」
修一は黒いバッグからアルバムを取り出した。そこには真理の様々な表情が収められていた。笑顔、困った顔、寝顔まで。あまりにもプライベートな写真の数々に、悠子は不快感を覚えた。
「これだけあれば十分です」
悠子は冷静を装いながら言った。頭の中は混乱していたが、プロとしての顔を保つのが精一杯だった。
「いつまでに必要ですか?」
「急ぎません。完璧な仕上がりを望みます」
修一は言って立ち上がった。
「連絡先です。何かあればここへ」
名刺を受け取った悠子は、そこに印刷された住所を見て更に驚いた。それは市内でも指折りの高級住宅街だった。
「3ヶ月後、様子を見に来ます」
そう言って修一は去っていった。雨はさらに強く降り始めていた。
***
その夜、悠子は眠れなかった。
真理の写真を眺めながら、記憶を辿る。大学の美術学部で出会った親友。明るく活発で、悠子とは正反対の性格だった。卒業後も親交を続け、悠子が家業を継いだ時も一番に祝福してくれた真理。
そんな彼女が、突然姿を消した。最後のメッセージには「素敵な人に出会ったの」というフレーズもあった。まさか、それが天羽修一だったのか。
悠子は天羽修一の名刺を見つめた。明日にでも、この住所を訪ねてみよう。真理がそこにいるのなら…いや、もういないと言っていた。では、失踪と死亡は関係しているのか?
翌朝、悠子は天羽家を訪ねる準備をした。表向きは、等身大の人形制作のための下調べという名目だ。実際、そのような大型の人形を作るのは初めての経験で、住居の雰囲気や置き場所の確認は必要だった。
電話をすると、修一はすぐに訪問を了承した。
天羽家は、古い西洋式の邸宅だった。赤レンガの外壁に、つた植物が絡まっている。庭は手入れが行き届いており、噴水まであった。
インターホンを押すと、すぐに応答があり、自動で門が開いた。長い石畳の小道を進むと、重厚な扉の前に修一が立っていた。昨日と同じく黒い服だが、雨に濡れていない分、より整った印象だ。
「御子柴さん、お越しいただきありがとうございます」
家の中に案内された悠子は、その豪華さに圧倒された。天井が高く、アンティーク家具が並ぶ応接間。壁には西洋の絵画が飾られている。
「お茶をどうぞ」
修一が差し出した紅茶を受け取りながら、悠子は部屋を観察した。どこか生活感に欠ける、まるでショールームのような空間。
「人形はどちらに飾られる予定ですか?」
「書斎です。こちらへ」
案内された書斎は、さらに異様な空間だった。壁一面が本棚で、中央には大きな机。しかし、悠子の目を引いたのは、部屋の隅に置かれたガラスケースだった。
その中には、小さな蝋人形がいくつも並んでいた。
「コレクションですか?」
「ええ、私は蝋人形の収集が趣味でして」
修一は誇らしげに言った。
悠子が近づいてみると、それらはどれも若い女性の姿をしていた。そして、最も大きなケースの中には…
真理そっくりの小さな蝋人形があった。
「これは…」
「ええ、妻です。様々な作家に依頼して作りました。しかし、どれも納得のいくものではなくて」
悠子は気づかれないよう、深呼吸した。この男は、真理の蝋人形をコレクションしているのか。そして今度は等身大を…
「御子柴さんの技術なら、完璧な妻を再現してくれると期待しています」
修一の言葉に、悠子は背筋が凍るのを感じた。
「できる限り頑張ります」
そう答えながら、悠子は部屋の隅にある扉に気がついた。
「あちらは?」
「プライベートな部屋です」
修一の声が急に冷たくなった。
「すみません。失礼しました」
悠子は慌てて話題を変えた。
「等身大の人形は、どのようなポーズがよろしいですか?」
「座っている姿が良いですね。窓際の椅子に座り、外を眺めている…そんな自然な姿を望みます」
修一の表情が柔らかくなった。まるで、本当に妻がそこに座っているのを想像しているかのように。
その後、悠子は家の雰囲気や光の入り方などを確認し、必要なメモを取った。帰り際、修一は玄関先まで見送ってくれた。
「よろしくお願いします。妻を…取り戻してください」
その言葉に、悠子は言いようのない不安を覚えた。
帰宅した悠子は、すぐに電話を手に取った。3年前、真理の捜索を担当していた刑事の番号を探し出す。とうに捜査は終了しているが、新たな情報があれば…
「もしもし、高山です」
「高山刑事、御子柴悠子と申します。3年前に失踪した天羽真理の友人です」
「ああ、覚えています。何か情報が?」
「真理の…夫を名乗る人物から接触がありました」
電話の向こうで、高山刑事が息を呑む音が聞こえた。
「夫?天羽真理に夫がいたという情報はありませんでしたが」
「私もそう思っていました。でも、天羽修一という人物が…」
高山刑事は沈黙した後、低い声で言った。
「明日、お話を聞かせてください」
翌日、警察署で高山刑事と会った悠子は、昨日のことを詳細に話した。天羽修一の様子、家の中の蝋人形コレクション、そして真理の写真の数々。
「天羽修一という人物の背景を調べてみます」
高山刑事は言ったが、あまり期待を持たせるような表情ではなかった。
「失踪から3年経過しています。もし新たな犯罪性が見つからなければ…」
「わかっています」
悠子は頷いた。しかし、諦めるつもりはなかった。
「私は人形制作を通じて、真理の行方を探ります」
高山刑事は難しい表情をしたが、止めはしなかった。
「無理はしないでください。何か危険を感じたら、すぐに連絡を」
悠子は工房に戻り、真理の等身大蝋人形の制作を始めた。骨組みを作り、その上に特殊な蝋を塗り重ねていく。普段の小さな人形とは比較にならない労力だが、悠子の手は確かだった。
そして何より、真理の顔を形作ることは、悠子にとって特別な意味があった。親友の面影を蘇らせながら、彼女の失踪の真相に近づいているような感覚。
作業の合間に、悠子は天羽修一について調べた。インターネット上には、美術品コレクターとしての記事がいくつか見つかった。写真は少なく、表舞台に出ることの少ない人物のようだ。
そして、一つの記事が目に留まった。
「著名な蝋人形コレクター、天羽修一氏の展示会」
3年前の記事だった。真理が失踪した時期と重なる。
記事には、天羽が所有する蝋人形コレクションの写真が数枚掲載されていた。その中に、真理に似た女性の蝋人形は見当たらなかったが、どれも若く美しい女性の姿をしていた。
悠子は記事を保存し、作業に戻った。
人形の顔が形になり始めると、悠子は不思議な感覚に襲われた。まるで真理が目の前にいるかのような錯覚。細部まで完璧に再現していくうちに、悠子は真理の最後の日々について考えていた。
彼女は本当に天羽修一と結婚したのか?そして何が彼女を失踪させたのか?
工房のドアベルが鳴り、悠子は我に返った。時計を見ると、午後9時を過ぎている。こんな時間に…
玄関に向かうと、そこには見知らぬ女性が立っていた。
「御子柴さんですか?お話があります…天羽修一について」
女性の顔は青ざめ、震える声で言った。
「彼の妻になるはずだった女性のことを知っています」
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