10 さまよう

 慎司は自分に与えられた部屋の中央で胡坐をかいた。畳から漂ってくる藺草いぐさの匂いと柔らかな感触が気分を落ち着かせてくれる。

 スマホの電波が復活していた。美里に電話をかけたが繋がらなかった。メッセージアプリを試すと、すんなり動いた。

『夕べはごめん。約束が守れなかった。外は酷い雨だ。まだ帰れそうにないよ』

 しばらくすると返事がきた。

『本当はどこにいるのですか。みんな、もう探すことは諦めました。それがあなたの選択なのですね』

『一泊しただけじゃないか。大げさだな。雨がやんだら帰るよ』

『ふざけないで。私、いつまでもは待てません。それだけは言っておきます』

 慎司が自らの意思で失踪して、かなりの日数が過ぎたかのような言われようだ。何か誤解してないか、と送ろうとしたメッセージはエラーになった。

 午前中は本を読んで過ごした。山歩きにおいて、荷物はなるべく軽くするのが基本だが、遭難した場合に備えていつも文庫本を一冊だけ持つようにしていた。それがついに役に立つ日がきたというわけだ。しかし、すぐに読み終わってしまった。けぶる雨に包まれた木造民家の畳の上、という最高の環境が、読書を捗らせたのかもしれない。

 午後になった。本を読んでしまった慎司は外に出てみることにした。あいかわらず雨は降っているが、家の周辺を回るぐらいなら危険はないだろう。傘を借りた。やはり、というか、古風な傘だった。軸は木だ。使い込まれた自然な艶が出ている。骨は竹、そこに油紙が張ってある。

 雨が降り続いているのでどこへも行けませんよ。くれぐれも家から離れないで下さいね、と彩乃に念を押された。

 家の周りを巡ってみた。どこかへ通じる道らしいものは発見できなかった。用事ででかける時はどこを通るのだろう。

 思い切って家から少し離れてみた。時々振り返って家の位置を確認した。しばらくの間、木々の隙間からなんとか家が見えていたが、ふとしたはずみに見失った。周囲を見回したが、なんの目印も見つからない。

 なんとなくスマホを取り出した。電波が立っている。新しいメッセージはなかった。

『やあ、元気かい』

 自分を落ち着かせるために、美里に宛ててちょっとふざけた書き方をしてみた。

『今さらなんの御用でしょうか。私は別の人と結婚して子供も二人います』

 凄い嫌味だな、と息をついたところで、視界の隅で何かが動いた。それは水色の浴衣だった。慎司が着ているものと似ているように思えた。立ち止まって慎司の方を見ている。近づいてきた。男だ。

「君もあの家から逃げだしてきたのか」

 疲れきったような目には力を感じない。諦めの気配が全身から匂ってくる。見た目からは慎司と同年代に思えた。だが、なぜかもっと歳上だと感じた。雨が降り続いているのに傘を差していなかった。

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