7 秋葉原・ハンバーガー屋 ❸
凛が静かに席を立った。
前屈みになった凛から細かい表情までは見えなかったが、真姫には怒っているように感じた。
このまま帰ってしまうのだろうか、と一瞬考えたが、凛が鞄から黄色いフェイスタオルを取り出したので杞憂であると思った。
「トイレ」と一言だけ言って、奥の方へ消えていく凛の後ろ姿を目で追いながら、言い過ぎたかもしれない、と真姫は自責の念に駆られた。
四月、始業式の日に真姫は「一学期は勉強に専念させて欲しい」と部長の凛に伝えていた。
真姫は自分で目標を定め、そこに集中して向かっていくことは得意であった。逆に複数のタスクを同時に進めることは苦手だった。したがって「一学期は勉強」と一度決めてしまった後は、アイ研のことは一切忘れて勉学に集中した。
真姫は一学期のアイ研における自分の役割は勉学に集中することだと考えていた。ここで結果を出さなければ今後アイ研に自分が関われなくなるからである。
自分の為、と同時にアイ研の為でもあると考えていた。しかし、だからといってアイ研に全く関与しないやり方はまずかったと思った。
今更ながら、凛や花陽に全てを押し付けた自分が傲慢に思えてきた。
いや……そうじゃない。
自分には考えが浅いところが確かにあった。しかし何か胸につかえる小骨のような違和感がある。
自分は悪くない、という己を庇う心理が働いていないと言えば嘘になる。ただ、いくら自分が一極集中型だからといって、頼れる者が二年生の凛と花陽しかいないと初めから分かっていたならば、ここまでの丸投げという選択を果たしてしただろうか。
真姫は春休み前後のアイ研の空気感を思い出そうと試みた。
確か春休みの前までは、新学期のアイ研を牽引するのは穂乃果や海未達上級生だった。そう認識していたし、それは真姫だけでなく凛や花陽も同じ思いであったはずだ。
どこかで……、たぶん春休み以降に……、凛が言っていたゴールデンウィーク明けに、上級生組のスタンスが大きく変わったのではないか。あとは二年生に任せる、といった具合に、突然責任の大部分が三年生から二年生に覆い被さったのではないか。
花陽と凛はそれに翻弄され、責任の所在が曖昧なままただ時間だけが過ぎてしまったのではないだろうか。
「真姫ちゃん、聞いて」
凛が目を丸くしながらトイレから戻ってきた。
「今トイレにいた人がねぇ……」
きゃっきゃっと笑いながら、凛は洗面所で遭遇した風変わりな化粧をしている女性についての話を始めた。
真姫は凛を怒らせてしまったことに申し訳なさを感じていたが、目の前の凛はいつもの屈託のない笑顔である。
「絶対失敗にゃ。あれが正解なはずにゃいにゃ!」
世の男子はきっと凛みたいな娘を好きになるのだろうな、と真姫は思った。
明るくマイペースで自分の気持ちに素直な凛のこの清々しさは真姫には無いものであった。
喜怒哀楽の感情をストレートに表し、それでいて嫌味がない。周りは翻弄されつつも、振り回されていることが逆に心地よい。
凛ならではの可愛らしさだと真姫は感じた。そして、どこか穂乃果に似た雰囲気もあるように思えた。
「ねぇ凛、教えて。穂乃果はもうアイ研には一切関わらないつもりなの?」
真姫は単刀直入に聞いた。そこが今後のアイ研にとって肝心要と考えていた。
「そうだよ、真姫ちゃん」
凛は少し寂しそうな目をした。しかし真っ直ぐに真姫を見つめている。
「穂乃果がスクールアイドルをすることは、今後多分無いと思う」
思いのほかはっきりとした答えが帰ってきた。
「やっぱり、そうなのね」
真姫は髪の毛をくるくると弄りながら、穂乃果はもう戻らない、と胸の中で繰り返した。
「ということは、海未やことりも……、というか三年生はみんなスクールアイドルを続けることはない——」
「あの二人はさぁ!」
凛が語気を強めた。
「結局いつも二言目には穂乃果ちゃん、穂乃果ちゃん」
真姫はうつむいて聞いていたが、驚いて顔を上げた。
「穂乃果ちゃんがやるって言えばついていくし、やらないって言えばやらないんだよ」
真姫は凛のあまりの怒りっぷりにクスっと笑った。
「確かにそうね」
「そりゃ三年生だから進路のこととか、将来のこととか色々考えなきゃならないのはわかるよ。わかるけど、三人が同時に雁首を揃えて居なくなることないじゃんか!」
真姫は堪えきれずに笑ってしまった。
「そこ!何がおかしい!」
「凛、あなたは怒ると語尾設定を忘れるのよ」
えっ、と言って凛は手のひらで口を覆った。
「やっぱり気づいてなかったか」
「そんなはずは無いにゃ」
「今更取り繕っても遅いわよ」
凛は小声でぶつぶつと呟き始めた。語尾設定で怒る練習をしているようだ。
「ねぇ凛。さっきゴールデンウィーク明けのアイ研は大変だった、と言っていたけれど、それってつまりは穂乃果絡みのゴタゴタが原因なんでしょう?」
「その通りにゃ」
「凜はもしかしたら私に気を遣ってくれているのかもしれないけれど、テストはとっくに終わっているし、成績も上位回復したわ。アイ研の一学期の話をそろそろ聞かせてくれてもいいんじゃない?」
凜が真姫を見つめる。その目は先ほどの寂しい目とは違った強い眼差しだ。
「長くなるよ?」
「構わない、と言いたいところだけれど——」
真姫はスマートフォンに目をやる。あと五分で七時になるところだ。
「ごめん、パパにメールだけ送らせてちょうだい」
真姫が席を立った。
「ついでにコーヒー頼むけど、凛あなたは?」
「コーヒーなんて真姫ちゃん、大人だにゃ」
「別に。なんだかシリアスな話がたくさん飛び出してきそうだし」
気合いを入れるのよ、と真姫は笑った。
それなら、と凛も同意した。
紅く鬱勃とした彼女の音 切葉 @kill-her
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