「忘れられない白衣姿」③
それから数日後の夜、家族でのお疲れ様会で焼き肉を食べに行った。
「どうだった。6年間。」
注文を済ませ、飲み物が届いた後、父が聞いてきた。
「野球が好きになったよ。最後の試合に出られなかったのは悔しかったけど。折角見に来てくれていたのに、出られなくてごめんね。」
そう話す間に、悔しさからか涙が溢れそうになった。けれど、父の、
「男が涙を流すのは親が死んだときだけだ。」
というクサい言葉を守ろうと歯を食いしばるが、ぽろぽろと涙が流れていった。
「あと3年。中学校の3年間やり切るから。今度こそ絶対に試合に出て活躍するから!」
誰に言われたわけでもないのに、自然と出た言葉。それに内心自分でも驚きながらも、それは本心だった。
「そうか。じゃあ、頑張れよ。俺らは応援するから。じゃ、とりあえず6年間お疲れ。」
そう、静かに父は励ましてくれた。母は微笑んでくれた。絶対に二人に野球で活躍するところを見せるんだ。そう意気込んだ日だった。
少年団を卒団したその日からも、中学に向け練習は続けた。しかし、父親は年を取って体力が無くなってきたのかキャッチボールをする時間も短くなっていった。
「ごめんな。」
そう悲しそうな顔をする父親だったが、その分素振りを見てくれたり、そばにいてくれて安心した。
昔から、他の奴らとの差を埋めるため、父親に見てもらいながら、時には一人でコツコツ努力してきた。そうして気づけば、中学最初の部活動の日。
練習に参加して気づいた他の奴らとの実力の差。結局少年団時代に自分が比べていたのは、自分の所属している少年団という小さな世界の話だった。しかし、中学校になって同じ部活に入ったのは、小学校の時所属していた少年団だけではない。他の小学校区の野球少年団に所属していた知らない奴らもチームメイトに加わった。勿論地区が近いため、大会での対戦や練習試合での交流もあったがベンチをいつも温めているような人間に、その差を正確に測ることはできなかった。
また、中学の部活動にもなると先輩と合同の練習も当たり前になる。その環境の変化に、自分の実力の差が如実に表れるのは仕方のないことだった。
周りが難なくこなす練習を自分がミスをすることで全体のリズムが崩れる。同じ少年団の奴らからしたら、あいつかと思われるぐらいだが、そうではない少年団から来た奴らや俺のことを知らない先輩方からしたら、何してくれてんだあいつと思われるのも仕方なかった。だから、向けられる視線が厳しいということは分かっている。でも、そんなの今までと変わらない。
自分と周りの実力の差を埋めるため、地道な努力を重ねるだけ。それしか、運動神経が元々ない自分が唯一できる対抗手段だった。中学生にもなるとある程度自由も増え、家の門限も遅くなる。下校中に公園に寄って練習ができれば効率がいいんだが、先生にバレたときに部全体に影響が出てしまうため一度は家に帰るしかない。そのため、部活も一つ一つのメニューを手を抜かずにやり、部活終了後は一度家に帰ってから道具を持って近所の公園で素振りをする生活を繰り返した。
それでも、差は縮まらなかった。中学生にもなると、向き不向きもはっきりしてきてどちらかといえば俺は野球に向いていないことだって誰かに言われることが無くても分かっていた。けれど、試合に出ているところを両親に見せたかったから。野球が好きだから。その一心で練習に取り組んだ。
けれども、試合に出るのは他のメンバー。勿論、他の奴らだって努力していないわけでは無いから。そもそも、俺よりも才能のある奴がある程度の努力を続ければ、俺は簡単には勝つことはできないから。
それで得られた評価は努力ができる奴。それを心から褒めて言ってくる人もいれば、皮肉で言ってくる人もいるだろう。だけれど、自分の努力が周りにまで届いているのは自信にも繋がった。
そうひたむきに取り組んだ中学の野球だった。何回かは公式戦に出させてもらえることもあったが、試合展開やお情けでのみ。自分の実力でポジションを勝ち取ることはできなかった。
それでも、胸を張って努力をし続けた野球人生9年間だった。
これ以上続けても、もう無理だと自分でも分かっていた。というか、やり切った。それと共にやってきたのは、「無」だった。
今まで野球一筋で小学校も中学校もやってきた。中体連が終わり、学校の雰囲気は高校受験だというムードになりつつあるというのに自分はついていくことが出来なかった。それほどまでに、自分は野球に虜になっていたのだと気づいた。
それゆえ、今まで勉強は野球に支障がない程度にしかやって来なかった。別に高校受験のために、塾にも行っていない。まず、そもそもどこを目指せばいいのか分からない。だから、行ける距離にある偏差値の最も高い高校を志望校にした。担任は無謀だというが、泥臭く努力することだけが俺の専売特許だから。そう思い、今まで野球に打ち込んでいた時間を全て勉強に捧げた。野球と違って勉強は好きにはなれなかったが、やればやるほど結果が出る勉強に少しずつハマっていった。いや、どちらかというと受験という名の競争にハマっていった。そこに今まで野球で感じていた悔しさをぶつけるかのように。
模試を行うたびに上がっていく順位を見て手応えを感じつつ、野球の時と同様に反省点を見つけ反復的に復習を繰り返す日々。周りからはよくそんなに勉強できるなと言われるが、今まで野球に充てていた時間が勉強に変わっただけ。それに何の苦痛も感じなかった。
気づけば、高校入試当日になっていた。結局、担任には無謀に思われていた高校を受けることにしたが、特に何の緊張も無かった。ここにいる誰よりも本腰を入れて受験勉強を始める時期は遅かったかもしれないが、それまでに感じた野球での悔しさをぶつけるかのような勢いでやっていった勉強は元々向いていたのかもしれないが、スポンジのように内容を吸収していった。あとは、今日それを吐き出すだけ。
そうして数日が経ち迎えた合格発表当日、そこに自分の受験番号はあった。喜ぶ両親と、ホッとする自分。けれど、次の瞬間、今の自分にはもう何もないことに気づいた。
今までは、小学校や中学校では野球にひたすら取り組み、それが終わった後には偶々見つけた受験勉強にハマった。それがなんとか成果が出てよかったものの、これからの自分の道を見つけられないでいた。
そんな状況で始まった高校生活。野球に関しては、少年団を卒団した時のお疲れ様会で中学の3年間は頑張るといった手前、好きだったから続いたもののもうやる気力は無くなっていた。じゃあ、勉強はというと、これも高校受験に合格したという一つの目標を達成したせいかどこか手がつかなくなっていた。
本当に今の自分は「無」だな、そう思いながらも今までの野球や勉強に変わるものが見つからない日々。高校に入って新しく部活を始めてみるのも面白いと思い、いろいろ見学しに行ったがそこにあったのはありきたりな部活ばかり。生徒全員が一度は部活に所属することが義務付けられている謎校則のため、仕方なく幽霊部員になりやすい書道部に入った。
最初のミーティングのようなものには出席したがそれ以降は行くことは無くなった。
今まで、何かに取り組んでいてばっかりだったから、「無」を楽しんでも良いのではないかというよく分からない論理を展開し、高校生になってより得た自由を手に学校が終わったらいろんな所に行ってみた。
でも、結局楽しかったのは市の図書館だった。小学校と中学校の間、ほとんどの時間を野球に注ぎ込み、残りの少しを受験勉強に使った。そんな俺にとって、図書館にある多種多様な人々が描いた世界は小さな世界でしか生きてこなかった自分に大きな刺激を与えた。
その楽しみを知ってからは、学校が終わってからは親が許すまで図書館の中に入り浸りになっていた。なにか楽しみを見つけるとそれだけに熱中してしまう性格なのかもしれないが、読む本を変えれば俺に見せてくれる世界は変わる。それは、野球や受験勉強では得られなかったことだった。
だから、今日も変わらず図書館に行こうと靴箱から自分の靴を取って履く。そして、校舎の裏手の駐輪場へ向かう。そのとき、外周をもう走っている集団を見つける。その中には俺も知っている顔がいた。野球部だろうか。恨めしそうな、それとも羨ましそうな目線を向けてくるが何を言いたいんだろう。まあ、部活で走っているから話しかけてくることはないだろうが。そんなに部活が嫌ならもう少し楽な部活に入ればよかったのに。お前にもその選択肢はあったはずだ。まあ、そう思ったところで相手には伝わらないし、事情もあるかもしれない。俺の小学校入学時の野球少年団に入るよう父親から言われたように。
他人のことはどうでもいい。今日は何を読もうかと考えながら、駐輪場に置いてあるであろう自転車を探す。見つけた。さあ、図書館に行くぞ。
もう、何度来たかわからない図書館。受付のお姉さんとも顔馴染みになっている。ただ、本を借りることはほとんどないので、あまり話したことはないが。
1階には幼児や児童向けのコーナーと新聞や雑誌があるコーナーなどがある。前者は子供連れがよくいるが今は平日の夕方なのであまり人もいない。後者は、よくじいさん、ばあさんが椅子に座って新聞を読んでいるのを目にする。老眼の方が多いのだろうか。一生懸命ピントを合わせようと新聞を動かしているのを見ているとちょっと面白い。ちょっと失礼だったかな。
目的の本は大抵2階以降にあるはずなので、階段を使って行く。エレベーターもあるのだが、若者が使うのはなんだか抵抗があるんだよな。ショッピングモールとかだと何も思わず使うというのに、図書館だから発生する感情なのだろうか。そんなこんな考えていると目的のエリアに近づいてくる。
これまで、様々な小説を読んできたが、あまりにも文学的な表現が多用されていると読むのに疲れる。そもそもこの表現自体が正しいのかは分からないが。だからといっても、いろんな年代の人が書いた小説を読んできたつもりだ。でも、多くはミステリー小説が多かった。殺人などというのは、日本という平和ボケしている国に住んでいる以上非現実的な話で、そこで展開されていくストーリーに惹きこまれた。
でも、今日はなんだかそういう気分じゃなかった。そう思っても、実際今日はどんな気分かを自分の中で言語化することはできない。だから、自分の中でも分からないまま、本棚を見て回る。大抵、読みたいものが決まっていない時は、背表紙に乗っているタイトルから気になったものを手に取るスタイルだからな。けれども、今日はなかなか見つからない。いつもならもう少し早く見つかるはずなのに。帰りのショートホームルームであんなこと言われたからかな。
進路希望調査か。高校を決めるそれとは異なり、より専門的な道に進むことがほとんど決まる人生において重要な選択肢の一つ。今まで、野球と高校受験にしか熱中してこなかった人間が、今「無」の状態を楽しんでいるというのに、何になりたいかなどと思いつきもしなかった。ため息もつきたくなる。そんな時だった。本棚にある一冊の本が光っているように見えた。まるで俺に読めとでもいうように。
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