第九章 日々の中の永遠
育児の日々は、蓉子の想像を超えて過酷でありながら、驚くほど美しい時間だった。夜中の授乳で何度も起きなければならず、昼間も葉月の世話で休む暇がない。体力的にも精神的にも限界を感じることがあった。
夜泣きに疲れ果て、もう一歩も動けないと思う時もあった。しかし、それでも葉月の小さな顔を見ると、胸が熱くなった。授乳の間、蓉子は時々「これが人間の本質なのかもしれない」と感じた。誰かのために自分を捧げる無条件の愛。
創作の時間は激減したが、蓉子は断片的な時間を使って、新しい形の文章を書き始めた。短い言葉の中に、命の神秘を閉じ込めようとする試み。
「葉月の指先一つひとつが、この世界の奇跡」彼女はノートに書いた。「彼女の呼吸の音に、宇宙の鼓動を感じる」
啓介は育児を積極的に分担した。大学の仕事の合間に、彼は葉月の世話をし、蓉子に休息の時間を与えてくれた。彼の研究室には葉月の写真が飾られ、同僚たちに見せびらかすのが彼の密かな楽しみになっていた。
三人で過ごす日々は、何気ない瞬間に満ちていた。葉月が初めて笑った日。初めて「まんま」と言った日。一歩目を踏み出した日。蓉子はそれら全てを心に刻んだ。
葉月が一歳を迎えたとき、蓉子は創作教室を再開した。啓介が葉月の面倒を見る日に、月に二回のペースで行うことにした。久しぶりの教室は、参加者たちに温かく迎えられた。
「先生の目が変わりましたね」七瀬は微笑みながら言った。「もっと優しくなりました」
蓉子は頷いた。母親になることで、彼女の世界は確かに変わっていた。以前よりも他者に対して開かれた心を持つようになり、小さな命の尊さをより深く理解するようになった。
教室では、「日常の中の奇跡」というテーマで参加者たちに課題を出した。彼らの文章には、それぞれの人生で見出した小さな奇跡が描かれていた。北川七瀬は孫との触れ合いについて、主婦の美智子は庭に咲いた一輪の花について、若い学生は友人との偶然の再会について書いた。
「私たちの周りには、気づかないだけで無数の奇跡が起きている」蓉子は参加者たちに言った。「それを言葉にすることで、私たちは日常に隠された美しさを共有できるんです」
ある夜、泣いて目覚めた葉月をあやしながら、蓉子は窓の外の満月を見つめた。
「私もあなたも、この大きな世界の一部」彼女は葉月に語りかけた。
葉月は母の腕の中で再び眠りについた。その小さな寝顔を見つめながら、蓉子は人生の不思議な巡り合わせを考えた。かつて彼女は自分の道を見失い、迷い続けていた。その旅路の中で、彼女は啓介と出会い、葉月を授かった。
それは計画したことではなかった。しかし今、彼女はこの道を選んだことを心から幸せに思っていた。
「迷いながらも進む。それが人生なのかもしれない」彼女は思った。
次の日、蓉子は久しぶりに新しい小説の構想を練り始めた。主人公は三人の子供を持つ四十代の女性作家。彼女は日々の忙しさの中で創作と向き合い、その過程で自分自身を再発見していく。
蓉子はキーボードを叩きながら、自分の未来の姿を想像していた。葉月が成長し、自分自身も作家として、人間として成長していく未来。それは明確に見えるものではなかったが、可能性に満ちた道だった。
「私はまだ途中。これからも途中。それでいい」彼女は心の中で呟いた。
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