第八章 内なる宇宙

 妊娠中の蓉子は、自分の身体で起こっている奇跡に毎日驚いていた。


「私の中で、一つの命が形づくられている」


 そう思うと、畏怖の念に近い感情が湧き上がった。彼女はこれまで、結婚や出産を女性の当然の道筋と考えることに反発してきた。自分の価値は、そうした社会的役割に依存するものではないと信じていたのだ。


 しかし今、彼女は母親になることと作家であることが対立するものではないことを実感していた。むしろ、新たな命を育む経験は、彼女の創作に新たな次元をもたらしそうだった。


 蓉子は日記のように妊娠記録を綴り始めた。それは単なる記録ではなく、自分の内側で育まれる命への手紙だった。


「あなたはまだ見ぬ世界。でも、私の中で確かに存在している」彼女は書いた。「あなたの心臓が動き始めた今日、私は命の神秘に触れた気がした」


 啓介は蓉子の横で、彼女の変わりゆく身体を静かに見守った。彼は本棚に並ぶ育児書や発達心理学の本を熱心に読み、時には面白い発見を蓉子に教えてくれた。


「お腹の中で、赤ちゃんは母親の声を聞いているらしいよ」啓介はある晩、興奮した様子で言った。「だから、話しかけるといいんだって」


 蓉子は微笑み、お腹に手を当てた。「聞こえる? お母さんよ」


「蓉子さんの中で起きていることは、この世界の神秘そのものですね」啓介は畏敬の念を込めて言った。


 妊娠六ヶ月のある日、蓉子はお腹の中の命の存在を初めて実感する瞬間があった。午後の静かな時間、彼女はソファで休んでいた。突然、お腹の中で小さな動きを感じた。


「啓介さん!」と蓉子は興奮して叫んだ。「動いたの!」


 啓介が急いでリビングに駆けつけ、優しく手を当てると、その瞬間、小さな命が再び動いた。二人は言葉もなく見つめ合った。


 その日から、蓉子の創作にも変化が現れ始めた。彼女の文章には、これまでとは違う感覚が宿るようになった。より生命に対する畏敬の念が強くなり、日常の小さな奇跡に目を向けるようになった。


 創作教室では、妊娠が進むにつれて動くのが大変になってきたが、参加者たちは温かく彼女を支えた。七十代の七瀬は手作りの赤ちゃん用の靴下を持ってきてくれた。主婦の美智子は自家製のハーブティーを用意してくれた。


「みんな、ありがとう」蓉子は心からの感謝を言葉にした。


 ある夜、蓉子は眠れずにいた。お腹の中の赤ちゃんが活発に動き回っていたのだ。彼女はリビングに出て、窓から見える満月を眺めた。


「同じ月を見て、何世代もの母親たちが同じように感じてきたのかもしれない」彼女は思った。命のつながりを感じる瞬間だった。


 蓉子はノートを取り出し、言葉を綴り始めた。それは彼女の新しい本の構想だった。「命の手紙」――妊娠、出産を経験する女性たちの声を集めたアンソロジー。


「この経験は私だけのものではない」彼女は書いた。「多くの女性たちが同じ道を歩み、同じ感情を味わってきた。それでいて、一人一人の経験は唯一無二のもの」


 朝が近づくにつれ、蓉子の心には静かな決意が芽生えていた。この新しい命の誕生を、創作者としての彼女の新たな出発点にしたいと思った。


---


 三十六歳の春、長い陣痛の末、蓉子は一人の女の子を産んだ。


 陣痛が始まったのは、桜が満開の日だった。予定日より一週間早かったが、蓉子の身体は赤ちゃんを迎える準備ができていた。


 病院に到着してから出産までの十八時間は、蓉子がこれまで経験したことのない試練だった。痛みは波のように押し寄せ、時に彼女を飲み込みそうになった。しかし啓介の存在が、彼女の大きな支えとなった。


「あなたならできる」彼は蓉子の手を握りながら囁いた。「強い人だから」


 そして、最後の力を振り絞った時、小さな泣き声が部屋に響いた。


「おめでとうございます。元気な女の子です」助産師が笑顔で言った。


「葉月」と名付けられた小さな命は、蓉子の胸の上で静かに眠っていた。産毛の生えた小さな頭、長い睫毛、小さな拳……完璧な存在だった。


「こんなに小さいのに、こんなに完璧」と蓉子は囁いた。


 啓介は涙を流しながら二人を見つめていた。


「ありがとう、蓉子さん」彼の声は感情で震えていた。


 出産の痛みは想像を超えるものだったが、それ以上に、命を繋ぐという神秘に蓉子は圧倒されていた。


「私の身体から、一つの命が生まれる。この不思議」


 帰宅した翌日、蓉子は窓から見える桜の木を眺めながら、葉月に語りかけた。


「あなたが生まれた日、桜が満開だったのよ」


 それは当たり前の風景なのに、今日は特別に美しく見えた。すべてのものが新鮮に、そして神秘的に感じられた。


 蓉子は葉月を腕に抱きながら、新たな物語が始まることを感じていた。それは本の中の物語ではなく、彼女自身の人生の物語。しかし、その経験もいつか言葉になり、誰かの心に届くかもしれないと思った。

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