第二章 足跡を見つける

 創作教室が始まって一ヶ月が経った。蓉子は週に一度の教室の日を心待ちにするようになっていた。参加者たちとの交流は、彼女に新しい視点をもたらしていた。


 ある日、教室の後でカフェに立ち寄った蓉子は、参加者から預かった作品を読み返していた。北川七瀬の文章は、徐々に深みを増していた。戦後の混乱期の記憶、結婚生活の喜びと苦労、子育ての日々……平凡と思われる人生の中にも、豊かな物語が隠れていることに蓉子は改めて気づいた。


 他の参加者たちの作品も同様だった。主婦の橋本美智子は日常の何気ない瞬間を切り取り、そこに詩的な美しさを見出していた。定年退職した元会社員の田村修平は、サラリーマン時代の苦労話を皮肉とユーモアをまじえて描いていた。


 これらの文章には確かな「生」が宿っていた。


 蓉子はふと、自分の最新作を思い出した。『海と空の間』は若い女性作家の成長物語だったが、今思えば何か本質的なものが欠けていたように感じる。表面的な成功や評価を追い求める主人公……それは他ならぬ自分自身の姿だったのではないか。


 彼女はコーヒーをすすり、窓の外を見た。雨が降り始めていた。雨粒が窓ガラスを伝い落ちる様子を見つめながら、蓉子は何か新しいものが自分の中で芽生え始めているのを感じた。


 翌日、久しぶりに実家に電話をした。電話に出た母の声を聞くと、懐かしさと共に胸が締め付けられる思いがした。


「お母さん、私、何か大切なものを見失ってるみたい」思わず弱音を吐いてしまった。


 母は静かに答えた。


「蓉子、あなたはいつも自分の外に答えを求めすぎるのよ」


 その言葉が蓉子の心に刺さった。自分の外に答えを求める……確かに彼女は常に外部からの評価や成功を追い求めてきた。批評家の評価、売り上げ数字、結婚や家庭という社会的ステータス。それらは本当に彼女自身が望むものだったのだろうか。


「どういう意味?」蓉子は尋ねた。


「あなたが小さい頃、覚えてる? いつも庭で一人で遊んでいたわ。誰に言われるでもなく、小さな石ころや葉っぱを集めて、自分だけの世界を作っていた」


 母の言葉に、蓉子は幼い頃の記憶が蘇った。確かに彼女は想像力豊かな子供だった。一人遊びが好きで、身の回りの何気ないものから物語を紡ぎ出していた。


「その頃のあなたは、誰かに認められたいとか、何かになろうとか考えてなかったでしょう? ただ純粋に、自分の心の声に従っていたのよ」


 蓉子は黙ってその言葉を受け止めた。いつからだろう、自分の内なる声を聴くことをやめて、外の声に耳を傾け始めたのは。


「ありがとう、お母さん」蓉子は静かに言った。「考えてみる」


 電話を切った後、蓉子はノートを開き、何かを書き始めた。それは小説でもエッセイでもなく、ただの自分への手紙のようなものだった。


「わたしは何を求めているのか?」


 その問いから始まる率直な自問自答。蓉子は長い間封印していた自分の心の声に、少しずつ耳を傾け始めた。


---


 翌週の創作教室。蓉子は参加者たちに新しい課題を出した。


「今日は『失ったもの』について書いてみましょう」


 参加者たちが筆を走らせる中、蓉子も一緒に書き始めた。彼女が書いたのは、幼い頃の自分自身について。好奇心に満ちた目で世界を見つめ、何にでも挑戦する少女だった自分。いつからか、その少女を失ってしまった。


 彼女は素直な言葉で、自分の中の空虚感や迷いについて書いた。社会的成功を収めながらも、何か本質的なものを見失っている感覚。それは決して洗練された文章ではなかったが、久しぶりに彼女は心からの言葉を紙に落とした。


 教室が終わった後、一人の女性が蓉子に近づいてきた。上品な雰囲気を持つ六十代の女性、北川七瀬だった。


「先生、今日はあなたの目が輝いていましたよ」


 その言葉に、蓉子は驚いた。


「私の……目が?」


「ええ」北川は優しく微笑んだ。「文章を書いているとき、先生の目には情熱が宿っていました。それは素敵なことです」


 蓉子は恥ずかしさと共に、何か温かいものが胸の中で広がるのを感じた。


「ありがとうございます」彼女は心から言った。


 帰り道、蓉子はふと立ち止まった。夕暮れの街を見渡し、そして決心した。彼女は携帯電話を取り出し、健太の番号に電話をかけた。


「健太さん? 蓉子です。……うん、元気……あのね、もし良かったら、会えないかな」

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