【短編小説】途上の花 ―ある女性作家が描いた自分だけの物語―(約23,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第一章 行方不明の自分

 朝日が窓から差し込み、有村蓉子のアパートの白い壁に淡いオレンジ色の光を投げかけていた。彼女はキッチンテーブルに座り、冷めかけたコーヒーをすすりながら、ノートパソコンの画面を見つめていた。画面には締め切りが迫っている原稿が映し出されていたが、カーソルは何分も同じ位置で点滅し続けていた。


 二十九歳。これまで二冊のエッセイ集と一冊の小説を出版してきた蓉子だが、キャリアを築き始めているはずのこの年齢で、彼女は自分の進むべき道を見失っていた。


「何かが足りない……」


 彼女は小さく呟き、窓の外を見た。東京の街並みは既に活気づいていた。スーツ姿の会社員たちが急ぎ足で駅へと向かい、カフェは朝のコーヒーを求める人々で賑わっていた。皆が目的を持って動いているように見える。


 蓉子は昨夜のことを思い出した。恋人の健太と別れたのだ。三年間の付き合いだった。別れた理由は、彼女自身にとっても曖昧だった。「もっと何かが必要」と彼に言ったが、その「もっと」が何なのか、自分でもわからなかった。


 健太は優しい男性だった。安定した職に就き、結婚願望もある。多くの女性が求める理想的な相手だ。しかし蓉子の中には、常に埋められない空白があった。


 彼女は立ち上がり、キッチンの窓から見える空を見上げた。春の柔らかな青空が広がっていた。三十歳までに結婚するという、自分で決めた目標。今の自分はその目標からどんどん遠ざかっているように感じた。


 仕事用の携帯電話が鳴り、蓉子は我に返った。画面には出版社の名前が表示されていた。彼女は深呼吸して電話に出た。


「もしもし、有村です」


「有村さん、おはようございます。朝山です」編集者の声が聞こえてきた。「次回作の方向性について話し合いたいんですが、来週の水曜日、お時間いただけますか?」


 蓉子は一瞬黙り込んだ。次に何を書きたいのか、自分でもわからなくなっていた。これまでの作品はすべて自分の経験から生まれたもの。でも、最近の自分には、書くべき経験が何もないように思えた。


「有村さん?」編集者が確認の声を上げた。


「ごめんなさい。少し時間をいただけますか?」蓉子は髪を耳にかけながら答えた。「次の企画について、もう少し考えをまとめたいんです」


「そうですか……」朝山の声にはわずかな失望が混じっていた。「わかりました。でも、夏の刊行に間に合わせるなら、早めに決めないといけませんよ」


「はい、わかっています。すみません」


 電話を切った後、蓉子はソファに腰を下ろした。窓から差し込む光が彼女の足元に長い影を落としていた。彼女はその影を見つめながら、自分の中にある空虚感と向き合った。


 成功したと言われる若手作家。でも、彼女自身はその言葉に違和感を覚えていた。本当の「成功」とは何だろう? 本を出版すること? 結婚して家庭を持つこと? それともまったく別の何か?


 蓉子は立ち上がり、本棚から自分の著書を取り出した。『窓からの風景』というエッセイ集と、『あの日の約束』という小説。そして最新作の『海と空の間』。どれも批評家からは好評だった。しかし今、それらの本を手に取ると、まるで他人の作品を見ているような感覚に襲われた。


 彼女は本を元の場所に戻し、深く息を吐き出した。


「わたしは、何を求めているんだろう?」


 その問いに対する答えは、まだ見つからなかった。しかし、それを探す旅が始まろうとしていた。


---


 一週間後、蓉子は友人の澄香からのメールを見て驚いた。


「地域のコミュニティセンターで創作教室を開いてみない?」


 蓉子は眉をひそめた。自分が人に教えられるほど文章の書き方を理解しているとは思えなかった。しかし、澄香の説明によれば、それは専門的な指導というよりも、地域の人々が自分の言葉で表現する場を提供する試みだという。参加者は主に主婦や定年退職した高齢者たちとのこと。


「自分なんかが人に教えられるのだろうか……」


 蓉子は不安を抱えながらも、何か新しいことを始めたいという気持ちに突き動かされ、申し出を受け入れることに決めた。少なくとも、このままの状態から抜け出すきっかけになるかもしれない。


 初回の教室の日、蓉子は緊張で胃がきりきりと痛んだ。コミュニティセンターの小さな教室には、想像していたよりも多くの人が集まっていた。主婦と思われる女性たち、定年退職後の男性たち、そして数人の若い学生。全部で十五人ほどが、期待を込めた眼差しで彼女を見つめていた。


 蓉子は深呼吸して自己紹介を始めた。


「はじめまして。私は小説家の有村蓉子です。今日から皆さんと一緒に物語を作っていきたいと思います」


 緊張した声が教室に響いた。参加者たちは静かに頷き、中には熱心にメモを取り始める人もいた。


 蓉子が話し終えると、六十代と思われる女性が恐る恐る手を挙げた。


「先生、すみません。私には書くような人生なんてありません。ただの平凡な主婦です。こんな私にも、何か書けることがあるでしょうか?」


 その質問に、蓉子は一瞬言葉に詰まった。自分自身が意味を探し求めているのに、他の人に答えを提供できるのだろうか? しかし、彼女の口からは意外な言葉が溢れ出た。


「普通の日常こそ、最も美しい物語の宝庫なんですよ」


 彼女自身も自分の言葉に驚いた。しかし、それは心からの言葉だった。


「私たちは特別なことを求めがちですが、実は日々の中に多くの物語が隠れています。朝の光、買い物の道すがら出会った猫、雨の日に感じた懐かしい匂い……それらすべてが物語になり得るんです」


 参加者たちの表情が和らぎ、中にはにっこりと微笑む人もいた。


 その瞬間、蓉子は自分が見失っていたものの痕跡を見つけた気がした。単なる成功や評価ではなく、言葉を通じて人とつながること。それは彼女がずっと求めていたものなのかもしれない。


 最初の授業では、参加者たちに「今日見た風景」について短い文章を書いてもらった。蓉子は教室を歩き回りながら、時折アドバイスを与えた。予想に反して、彼女は教えることに自然と馴染んでいた。


 授業が終わると、参加者たちは次回への期待を口にして帰って行った。蓉子は空になった教室に一人残り、窓から差し込む夕日を見つめた。北川七瀬という七十歳の女性が書いた文章を思い出した。


「今朝、孫が遊びに来た。五歳の彼は窓から見える電車に夢中になり、小さな指で何度も指さした。その姿を見て、私は五十年前、父と一緒に初めて電車に乗った日のことを思い出した……」


 シンプルな言葉だが、そこには確かな「生」の輝きがあった。蓉子は自分のノートに何かを書き留めた。


「私が求めていたのは、これだったのかもしれない」

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