特事課業務記録書
銀闘狼
第1話 異動
ある日の正午前、黒豹の耳と尻尾を持つスーツ姿の黒髪の女性――【豹ヶ崎 れい】は、異動先である【特殊事案対処課】と名付けられた部署のある、と云うか其の部署の為に存在する建物の敷地前の門の前に立っていた。
人事異動が行われると云う話自体は知ってはいたものの、自身が、
「……そう考えると、私は何故、今の今迄に其れについて人事に問い合わせたりしなかったんでしょうね?」
そう。今、此処に来ている状況も不自然なのだ。普通は、こんな明らかに可怪しい異動は辞退を試みるか、しないにしても詳しく情報を問い合わせたりする物だ。
少なくとも、異動と聞いて、調べた結果良く分かっていないにも関わらず、まぁ、良いか、了解!!で終わって当日を迎えるなんて事はありえないだろう。
最近、配信のコメントで見たSC……何だったかに出て来た【認識災害】と云う単語が頭に浮かんだが、直ぐに『何を馬鹿な』と其の考えを振り払う。アレは飽く迄もフィクションで、此処は現実だ。そんな物があるなんて思うのは、余りにも馬鹿げているだろう。
そんな事を考えて思わず自嘲した笑みを浮かべた彼女は、こちらに向かって小走りをする眼鏡を掛けて髪をオールバックにした、スーツを着た細身の中年の男性の足音に気付いて視線を向けた。
「済みません。お待たせしました。【豹ヶ崎れい】さん、でしたよね?」
「いえ、大丈夫ですよ。はい、【豹ヶ崎れい】と申します」
「良かった。私は【五十嵐】と申します。
業務については一応説明されていたかと思いますが、何処まで聞いていますかね?」
「確か、【事務】と……」
「?待って下さい。【
「え?えぇ……」
【五十嵐】は何か伝達ミスでもあったのか、事務と聞いて怪訝な表情を浮かべる。顔を僅かに強張らせると、直ぐにスマホを取り出して何処かへと電話を掛けた。
「ちょっと失礼。
もしもし、【
……矢張り……そうですよね……。此れは、早急に【定査】を人事部とシステムに行う必要がありそうですね。其れと今回の担当者を至急調べて下さい」
「あ、あの……?」
単なる確認にしては異様に緊張感のある雰囲気を纏い電話の相手と会話する【五十嵐】に、【豹ヶ崎】は戸惑いがちに声を掛ける。
「……あぁ、いや、済みません。少し手違いがあったようで。
こちらが募集していたのは、【事務】では無く、所謂【現場】の者でしてね。もし、辞退なさるなら、こちらも協力して異動を撤回させますよ」
「【現場】、ですか?」
申し訳なさそうに頭を下げる【五十嵐】に、【豹ヶ崎】は気になった単語を尋ねる。
「……まぁ、こんな離れた所に態々、部署専用の
其れ故に、部外者には情報を漏らす訳にはいかないって事で許して下さい。今回、保険とは云え、中にある部屋を使わずに、こんな場所で立ち話をしているのにも理由って奴があるんですよ。
尤も、今回は其の保険が生きた訳ですが……」
苦笑する【五十嵐】にそう困った様に言われた【豹ヶ崎】は、確かにこんな明らかに独立させられている部署の案件は、同じ会社とは云え部外者には漏らす事は出来ないよな、と其れ以上聞こうとはしなかった。
「……そう云う事なら、分かりました。後程、人事にも確認してみます」
「ご足労戴いたのに、申し訳ない。最寄り迄、送りますよ」
一先ず、どうやら異動の手続きか何かに不備があった様なので会社の人事部に向かって確認するか、と思っていた時、
『緊急事態発生!!緊急事態発生!!【管理番号:087【嗤うデスマスク】】の脱走を確認!!至急、対応せよ!!
繰り返す!!【管理番号:087【嗤うデスマスク】】の脱走を確認!!至急、対応せよ!!』
アラートがけたたましく鳴り響く。明確に異常事態を告げる音と放送が少なくとも、此の問題が小さくない物である事を示していた。
「な!?今のは――」
「おい、何で外にまで放送が漏れていやがる!?
クソッ、此れも仕組んでいやがったな!?」
【豹ヶ崎】が【五十嵐】に何が起きたのか尋ねる前に、【五十嵐】は顔を憤怒で歪めて、先程までとは同一人物とは思えない荒々しい口調で吐き捨てる。
「……申し訳ない。【豹ヶ崎】さん。貴女の異動を取り消す事が出来なくなってしまいました」
「……えっと、其れはどういう……」
「ようこそ、【豹ヶ崎】さん。此の世ならざる異常犇めく不条理に抗う秘匿された部署の一つ、【特事課】へ。
我々は不本意ながらも、貴女の異動を正式に受理し、速やかに貴女を歓迎しましょう」
厳しく顔を強張らせ、纏う気配を剣呑な物へと変えた【五十嵐】が【豹ヶ崎】へと手を差し出す。
眼鏡の奥から鋭く向けられる眼差しは、何処か覚悟と拒否する事を許さない雰囲気を感じさせ、真っ直ぐに【豹ヶ崎】の眼を見据えていた。
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