再会編2(迷い)
ペンを走らせる音が、カフェの静かな空間に溶け込んでいく。
渉はコーヒーを一口飲み、視線をノートに戻した。
「〇月×日 今日の講義は退屈だった。小沢は相変わらず皮肉屋だが、気遣ってくれているのが分かる。」
無意識のうちに、今日の出来事を書き留める。
スマホではなく、ノートに手書きで残すのが彼の習慣だった。
中学時代から続けているこの日記のようなノートには、日々の何気ない出来事や、気になったことが綴られている。
些細なことでも、書くことで整理がつく気がするのだ。
ふと、ペン先が止まる。
近くの席の学生たちの会話が、否応なく耳に入ってきた。
「高宮裕奈、最近ますます綺麗になったよな。」
「本当にな。あの映画の演技、鳥肌立ったよ。」
「でも、バラエティで見せる素の感じも可愛いよな。」
渉は無意識に指先を握る。
――また、裕奈の名前か。
この数年、彼女の名前を耳にしない日はほとんどなかった。
テレビをつければ彼女の姿が映り、街を歩けば映画のポスターが目に入る。
大学のキャンパスでも、彼女の話題が出ることは珍しくない。
だが、芸能界に興味がなく、テレビも見ずに芸能ニュースもチェックしない渉にとっては、どこか遠い世界の話だった。
彼女はもう“知り合い”ではなく、“国民的女優”として語られる存在になっていた。
――本当は、自分が一番近くにいたはずなのに。
そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
しかし、その感情を振り払うように、渉は再びノートに視線を落とし、何事もなかったかのようにペンを走らせた。
「〇月×日 明日はバイトが長引きそうだ。レポートの締め切りも近いし、効率よく進めないと。」
思考を切り替え、目の前の現実に集中する。
それが、今の自分にできる唯一のことだった。
グラウンドから聞こえる歓声と、ボールを蹴る乾いた音が、渉の耳に心地よく響く。
大学のサッカー部の練習を、彼はふとペンを止めて眺めた。
選手たちは楽しそうにボールを追い、監督が熱心に指導を送っている。
パスがつながるたびに仲間同士で声を掛け合い、ゴールが決まると歓声が上がった。
(あの頃、俺はここにいたんだよな。)
そう思った瞬間、渉の足元に一つのボールが転がってきた。
「すみません!」
グラウンドの方から、部員の一人が声をかける。
「いや、いいよ。」
渉は立ち上がり軽くボールを蹴り返そうとする。だが、その瞬間――右足に、ほんのわずかな違和感が走った。
高校時代の試合で負った怪我。
リハビリを重ねて普通に歩けるようにはなったが、無意識のうちに庇ってしまう癖は抜けなかった。
ボールは、思ったよりも軌道がずれ、部員の足元に転がった。
「あ、ありがとうございます!」
何気ないやりとりのはずなのに、渉はどこか釈然としない感覚を覚えた。
(俺は……何をしているんだ?)
教師を目指し、教育学部で学び、バイトと勉強に追われる日々。
それが、自分の進むべき道なのだと信じていた。いや、信じ込もうとしていた。
けれど――本当に、それでいいのか?
グラウンドでは、部員たちが再びボールを追い始める。
渉は踵を返し、その場を後にした。
胸の奥で、何かが引っかかったまま。
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