暮らしと俳句

紙の妖精さん

暮らしと俳句

夏の終わり、まだ暑さが残る中、学校の廊下は湿気を帯びた空気が漂っていた。窓から入る光は、まぶしいほど強い。校舎の壁がやけに白く、照り返しで足元の黒いタイルがじりじりと熱を持っている。その廊下を歩く城菱は、制服を少し引き寄せるようにして、暑さに耐えながら歩いていた。膝丈のスカートが少しめくれ、日陰の下ではタイルが冷たく感じるかもしれないが……。制服の襟元に溜まった汗を拭いながら、彼女は何気なく目を落とした。


その時、何かが視界の隅にちらりと映った。足元に、無造作に置かれている小さな物体があるのを見つけた。


「…ん」


足を止め、軽く足元に視線を落とすと、それは白い表紙の小さなノートだった。まるで誰かが無理やり放り捨てたように、半開きで落ちている。かすかな土の匂いが漂う、そのノートは、まるで廊下の一部として存在しているかのように、ひときわ目立っていた。


「…」


城菱は思わず立ち止まり、ノートを拾い上げる。表面は少し埃をかぶっていたが、丁寧に手に取ると、そこに書かれた文字に気づいた。手帳の中に挟まれていた小さなメモのようなものが一枚、わずかに見え隠れしていた。それを少し引き出して見ると、そこには何かが書かれているようだった。手帳の表紙には特に目立った名前などは書かれていない。ただし、手帳の裏表紙には微かに赤色のインクがにじんでいる部分があり、心なしか、何かしらの言葉がそこに潜んでいるように思えた。


「誰かが落としたのかな…」


彼女はその手帳を軽く捲ってみる。初めの数ページには、普通のノートと変わらない文字が並んでいた。しかし、少し進んだところで、急に雰囲気が変わる。小さな文字が、ほとんど読めないように細かく書かれている。


城菱は何度もページをめくり、しばらくその手帖を見つめていた。手帳の隅々には、聡茜の名前らしきものが書かれているが、全体的には非常に難解で、まるで目の前の世界をどこか遠くから見ているかのような言葉が綴られていた。手帳の中に書かれた句は、まるでその時の心情を映し出すように重苦しい。


「…うわわあ、悲しすぎ。」


城菱はその俳句を見つめながら、胸の中にふわりとした不安を感じた。聡茜という名前は、クラスでもあまり目立たない存在だった。いつも一人で静かに過ごしている彼女が、なぜこんな悲しい俳句を書いているのか?城菱にはその理由がわからなかった。だが、何か引き寄せられるような感覚が、彼女の中で寄せては返した。


その手帳を持ち、城菱は再び足を進める。手帳を少し開き、文字の一つ一つが、彼女の心のどこかがざわつかせた。なんだかわからない暗さと、ほとんど見えない明るさが同居している。手帳を持ち歩きながら、城菱はこれからどうするべきかを考え始めた。


「…聡茜に返さなきゃ。」


そう心の中でつぶやき、彼女はその手帳を大切に胸元に抱えた。聡茜がこの手帳を落としたのだろう。城菱の中で聡茜に対する興味が静かに広がっていった。


城菱は聡茜が時々学校に来ないことを、これまで気にしたことがなかった。聡茜が登校していない日も、いつも通りの一日が過ぎていく。どこか無関心のように、日常の中で聡茜の不在をあまり意識せずに過ごしていた。しかし、ある日、ふと気づいた。聡茜がいない日が、思ったよりも多いことに。


その日、城菱はまた一人で歩いているときに、あの俳句手帳を手に取っていた。最初に拾ったときは、ただ単に「誰かの落とし物」として何気なく受け入れていた。それが今や、手に取るたびに何か不思議なものを感じさせ、彼女の心の中に次第に引き寄せられていった。


手帳を開くたびに、彼女はその俳句の内容に驚き、また不安を覚えていた。聡茜の言葉には、どこか極端で危ういものが含まれていた。暗い言葉と、急に輝くような明るい言葉が交互に現れる。それがあまりにも強烈で、城菱の胸に引っかかって離れなかった。


例えば、こんな句があった。


「絶望は幸福 その光に捧げる 夏服の私影」


その句からは、彼女の孤独が城菱の心に重くのしかかってくるようだった。


だが、次にめくったページには、まるで違う世界が広がっていた。


「桜酔う陽風 早花びらの濡縁 溶け満ちる」


その句は、突如として明るく、希望に満ちていた。あまりにも、先ほどの句と違いすぎる。極端。聡茜が持っている感情の振れ幅の違和感。


「どうして、こんなにも…」


彼女は手帳を握りしめた。聡茜がこのように極端な感情を表現するのは、何か?な理由があるのだろうか。


城菱は、急に心の中で一つの気持ちを強く抱くようになった。自分が知らない聡茜の内面に、どこか引き寄せられるような感情を感じていた。




聡茜が久しぶりに学校に姿を見せたのは、夏休み前の静かな朝だった。教室の窓から差し込む柔らかな光が、彼女の夏服を淡く輝かせていた。白い制服の襟元は清潔感に満ちていて、青いラインがほんの少しの涼しさを添えている。短めの袖口からは細くて白い腕がのぞき、夏の陽射しを受けてほんのり赤みを帯びている。スカートは深い紺色で、静かに揺れるたびに空気に優しく波紋を広げていた。


髪は肩より少し長く、光に透けるような柔らかな茶色が、夏の日差しに映えていた。うなじには、うっすらと汗が滲んでいたが、それすらも彼女の儚い美しさを引き立てていた。細い首筋からは、ふわりと甘い石鹸の香りが漂い、近くにいるだけで城菱の心が少しだけざわついた。


「……聡茜。」


思わず、城菱はその名を口にした。


城菱自身もまた、夏の制服がよく似合っていた。真っ白なブラウスの生地は柔らかく、風が吹くたびにさらりと揺れて、首元のリボンが可憐に揺れる。スカートの紺色は深く、彼女の清楚な雰囲気を引き立てていた。長い黒髪はすっきりとまとめられ、耳元で揺れる小さな銀のイヤリングが、太陽の光を受けてかすかに輝いていた。


二人とも、同じ制服を着ているはずなのに、どこか違って見えた。聡茜の制服は、儚くも美しい物語の一節のようで、城菱の制服は、その物語を静かに見守る存在のようだった。


城菱は、そっと鞄からあの俳句手帖を取り出した。表紙は、ほんの少しだけ角が擦れていたが、それがこの手帖が大切にされていた証のように感じられた。


「これ……拾ったの。」


城菱は、少し迷いながらも、丁寧に聡茜の手にそれを差し出した。


聡茜は驚いたように手帖を見つめ、そっとそれを受け取った。彼女の指先が手帖に触れた瞬間、城菱は心臓が跳ねるような感覚に襲われた。


「もしかして……見た?」


聡茜の声は、かすかに震えていた。その目は、不安と少しの期待が入り混じったような色をしていた。


「……ごめん、少しだけ。」


城菱は正直に答えた。俳句の中に秘められた彼女の感情を知ってしまったこと、それがどこか聡茜を傷つけるのではないかと不安だった。


聡茜はほんの一瞬、目を伏せた。だが、その次の瞬間には、ふっと柔らかな微笑みを浮かべた。


「そう……拾ってくれて、ありがとう。」


その言葉には、少しだけ安堵の色が混じっていた。彼女はそっと俳句手帖を鞄の中にしまい、その手の動きはどこか愛おしさを感じさせた。


城菱は、その様子を黙って見守っていた。


聡茜と城菱は、いつの間にか自然に話すようになっていた。特に約束をしたわけでもないのに、休み時間や放課後、気づけば二人は同じ空間にいた。城菱は聡茜のそばにいることが心地よかった。聡茜も、何も言わずに隣にいてくれる城菱を拒まなかった。


ある日、放課後の教室。夕方の光が窓から差し込み、床に長い影を落としていた。教室には、帰り支度をする生徒のざわめきが少しだけ残っていた。


「……ねえ、聡茜。」


城菱は、机に頬杖をつきながら、ふと口を開いた。教室の静けさに紛れるような、静かな声だった。


「俳句、まだ書いてるの?」


聡茜は、一瞬だけ手を止めた。鞄の中に教科書をしまおうとしていた手が、ほんのわずかに固まった。


「うん……、時々ね。」


彼女の声は、どこか曖昧だった。城菱はその答えに、少しだけ物足りなさを感じた。


「どんなの書いてるの?」


「……たいしたものじゃないよ。」


聡茜はそう言って、俯いたまま微笑んだ。その微笑みは、どこか寂しげだった。


「私の句なんて、つまらないから。」


その言葉に、城菱の胸が少しだけ痛んだ。


「つまらない、って……そんなことないと思う。」


城菱は、そっと机から身を乗り出した。聡茜の横顔に、柔らかな夕陽の光が差し込み、彼女の睫毛を長く影に落としていた。


「見せてくれない?」


聡茜は、ゆっくりと城菱の方を振り向いた。驚いたような、困ったような、そんな曖昧な表情だった。


「……なぜ?」


その問いには、少し戸惑いが混じっていた。まるで、城菱が自分の秘密に踏み込もうとしているのではないかと、警戒しているようだった。



城菱は、ほんの少しだけ考えてから、静かに答えた。


「聡茜の世界が、もっと知りたいから。」


その言葉は、嘘ではなかった。


俳句の中にある聡茜の感情の揺らぎ——その暗さと、時折垣間見える眩しいほどの明るさ。そのコントラストに、城菱は不思議な魅力を感じていた。それは、聡茜の心の奥に触れるような感覚だった。


「……私の世界?」


聡茜は、かすかに首を傾げた。その瞳は、まるで答えを探すかのように、城菱の目をじっと見つめていた。


「うん。」


城菱は、静かに頷いた。


「聡茜の言葉で、世界がどう見えているのか、もっと知りたいの。」


聡茜は、その言葉にほんの少しだけ唇を噛んだ。何かを迷っているようだった。でも、その迷いは、次第にゆっくりと溶けていくように見えた。


「……そんなふうに、言われたのは初めて。」


聡茜は、小さく呟いた。


「私の句を、見たいなんて。」


その声には、驚きと——ほんのわずかな喜びが混じっていた。


聡茜は、いつの間にか城菱の家に通うようになった。特別な約束をしたわけでもないのに、放課後になると自然に二人は同じ道を歩き、城菱の家へ向かっていた。


城菱の部屋は、柔らかな光に包まれていた。カーテンは淡いクリーム色で、窓際には小さな観葉植物が並んでいた。壁にはお気に入りのイラストやポストカードが飾られ、木目調の本棚には、ぎっしりと本や漫画が並んでいた。少女漫画やミステリー小説、そして詩集や俳句の本まで——その雑多さが、城菱の世界を映しているようだった。


「好きなの読んでいいよ。」


そう言って城菱は、聡茜にクッションを差し出した。聡茜は「うん」とだけ答えて、そのまま床に座り、本棚の中から手に取った漫画をめくり始めた。物語の中に入り込むと、聡茜の世界は少しだけ静かになった。


——でも、ふとした瞬間、彼女の指は止まる。


物語の余韻に包まれたまま、聡茜の視線は窓の外へと向かう。夕方の空は、少しだけ茜色に染まり始めていた。その色を見るたびに、心の奥底で言葉が芽生えるのを感じた。静かに胸の中で響く、そのささやかな声を聴くように——聡茜はそっと俳句手帖を取り出し、膝の上に開いた。


「作ってるの?」


城菱が気づいたのは、いつものことだった。彼女はベッドの上に寝転がりながら、聡茜の小さな手の動きをぼんやりと見ていた。


「うん……少しだけ。」


聡茜は、照れくさそうに頷いた。鉛筆の先で、言葉を探すようにゆっくりと紙の上をなぞる。その動きは、まるで自分の心と向き合う儀式のようだった。


「何か、浮かんだ?」


「……うん。」


聡茜は、ほんの少しだけ唇を噛んだ後、静かに呟いた。


緑夏は木陰 麦帽を押さえる 

手は待つ瞳


 

どこか遠くに響く心のさざめき——それが、俳句の中にそっと閉じ込められていた。


「……きれい。」


城菱は、ぽつりと呟いた。その声には、少しだけ憧れと、そしてほんのわずかな寂しさが混じっていた。


「ねえ、聡茜。」


城菱は、上体を起こして聡茜の横顔を見つめた。


「私、もっと聡茜の俳句、聞きたい。」


聡茜は、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。でも、その瞳の奥には、どこか安心したような、柔らかな光が浮かんでいた。


「……いいよ。」


それから、聡茜はまた静かに俳句手帖に目を落とした。彼女の指は、丁寧にページをめくり、過ぎた時間の断片をそっと拾い上げる。


城菱の部屋の中で、二人だけの静かな時間がゆっくりと流れていった。聡茜の言葉は、少しずつ、城菱の心の中にも根を下ろしていった。


「悲しすぎるね、生きていくのは。人はひとり、いつもひとり、俳句は美でも理想でもない。人の影、闇と光、そして死。」


聡茜は城菱に言うと、さっき作った俳句を手帖から切り離し、破り切るとゴミ箱に捨てた。


城菱は、聡茜の言葉を聞いて、何も言えなかった。


彼女の声は静かで淡々としていたけれど、その奥にはどうしようもない孤独と諦めが滲んでいた。聡茜は、俳句を語るときだけは少しだけ饒舌になる——でも、その言葉の端々には、どうしても消えない冷たい影があった。


「人の影、闇と光、そして死——」


その言葉が、城菱の胸に重く響いた。


「……聡茜。」


城菱は、彼女の名前を呼んだ。でも、その先の言葉が出てこなかった。


聡茜は俳句手帖を膝の上に置いたまま、じっと窓の外を見つめていた。夏の夕暮れがゆっくりと沈んでいく。空は淡い茜色に染まり、静かに夜へと移ろっていた。


「ね……」


城菱は、そっと聡茜の手に触れた。ほんの少しだけ、指先が震えた。


「……私には、よくわからない。でも、聡茜の言葉は……悲しいけど、きれいだよ。」


聡茜は、ゆっくりと目を伏せた。


「きれいじゃないよ。私の俳句は、ただの……」


「違う。」


城菱は、強く首を振った。


「きれいなんだよ、聡茜の言葉は。光と影、どっちもあるから、きれいなんだよ。」


城菱の声は、少し震えていた。でも、その言葉は真っ直ぐだった。


「私は……」


城菱は、自分の胸の奥を探るように、そっと言葉を紡いだ。


「私は、聡茜の俳句が好き。」


その言葉に、聡茜はゆっくりと顔を上げた。彼女の瞳には、わずかに驚きと、戸惑いが浮かんでいた。


「……どうして?」


「わからない。……でもね、聡茜の俳句を読むと、胸がぎゅっとなるの。寂しいのに、なんでか温かくて……」


城菱は、ぎゅっと聡茜の手を握った。


「私、聡茜のことが知りたい。もっと……俳句だけじゃなくて、聡茜自身のことも。」


聡茜の目が、少しだけ揺れた。


「……私のことなんて、知っても……」


「知りたいよ。」


城菱の声は、静かで優しかった。でも、その瞳はまっすぐに聡茜を見つめていた。


「私は、聡茜がひとりだなんて、思いたくない。」


その言葉が、聡茜の心の奥深くにそっと触れた。


夕暮れの光が、二人の間に静かに降り注いでいた。聡茜の頬に、ほんのわずかに赤みが差していた。


「……ありがとう。」


聡茜は、消え入りそうな声で呟いた。


その瞬間、城菱は微かに微笑んだ。


——その笑顔は、薄闇の中に差し込む、小さな星光のようだった。


聡茜の俳句は、まるで夜明け前の薄闇の中を歩くようだった。絶望の影と、かすかな希望の光が、交互に絡み合いながら長い道を作り出していた。時にはその道があまりにも暗く、城菱の胸が締め付けられることもあった。それでも——城菱は、聡茜の俳句を愛した。


言葉の端々に滲む、孤独の余韻も、わずかに差し込む光の気配も。城菱は、そのすべてを抱きしめるように、静かに聡茜のそばにいた。


「……私、変われるかな?」


ある日、放課後の教室で聡茜はぽつりと呟いた。


窓の外には、夏の終わりの淡い光が差し込んでいた。蝉の声も遠くなり、秋の気配がほんの少し混じり始めていた。


「変わらなくても、聡茜は聡茜だよ。」


城菱はそっと微笑んで、聡茜の手を握った。


それでも——聡茜は、自分を立て直そうと努力した。


小学校には、もう休まず通うようになった。

苦しい時も、涙が出そうな時も、俳句の手帖を抱えて教室に来た。最初は、ただ城菱に会いたかったから。でも、いつしかその習慣は、聡茜の心の奥に小さな光を灯すようになっていた。


暗い思考を避けるために、優しい俳句を無理に書いたりもした。

でも、それはぎこちなくて、どこか彼女らしくなかった。城菱は、そんな俳句でも、ただ静かに受け止めた。


「無理しなくていいよ。」


そう言った城菱の言葉が、聡茜の胸にゆっくりと沁み込んでいった。


二人は、寄り添うように、同じ空気を分け合いながら日々を重ねていった。


「聡茜。」


ある日、放課後の帰り道。夕暮れの空の下、城菱がふと呟いた。


「私、聡茜の暗いところも明るいところも好き。」


聡茜は足を止めて、少し戸惑ったように城菱を見つめた。


「……ほんと?」


「ほんとだよ。」


城菱は、にっこりと笑った。


その笑顔が、温かった。


——ひとりじゃない。

寄り添う誰かがいるだけで、言葉はやわらかくなる。


聡茜の俳句は、少しずつ変わり始めていた。絶望と希望が絡み合うその道の先に、微かな光が差し込み始めていた。


秋が深まるにつれて、聡茜の俳句は少しずつ柔らかさを帯びていった。

それでも、彼女の言葉にはいつも影が宿っていた。

「誰かに寄り添っても、やっぱり心の奥底には孤独があるんだよ。」

ある日、城菱の部屋で本を読んでいた聡茜がぽつりと呟いた。


「孤独?」


城菱は聡茜の隣に座って、彼女の手帖に目を落とした。

そこには、こんな俳句が綴られていた。


夜の果て ひとりがひとり 呼ぶ声


「……これ、最近作ったの?」


聡茜はうなずいた。


「でもね、今は……少し違うの。」


そう言って、彼女はペンを取り、もう一度新しいページに俳句を書いた。


夜明け前 ふたりの影が 混ざり合う


「……これが今の私。」


城菱は、その句を見つめながら、静かに微笑んだ。


「少しずつ、変わってるんだね。」


「うん……でも、まだ怖いよ。」


聡茜は小さく呟いた。


「また暗い場所に戻るんじゃないかって。」


城菱はそっと聡茜の手を握った。


「戻らないよ。」

「だって、私はここにいるから。」


それからの日々、聡茜は少しずつ、少しずつ前に進んでいった。

城菱の家に通う時間が増えるたびに、聡茜の俳句も変わっていった。


冬の気配が漂い始めたある日、聡茜は城菱に一冊の手帖を差し出した。


「これ、あげる。」


「え?」


「今まで作った俳句。……全部、城菱がいたからできた句だよ。」


城菱は、そっと手帖を受け取った。


「ありがとう、聡茜。」


その手帖の最後のページには、こんな俳句が書かれていた。


冬の星 笑う君へと 光落ち


城菱は、思わず微笑んだ。

その瞬間、聡茜の心の中で、小さな何かが音を立てて溶けていくのを感じた。


——孤独じゃない。

寄り添う誰かがいる。

そう信じられることが、こんなにも暖かいなんて——。


冬の夜空の下、聡茜と城菱の影は、そっと寄り添っていた。

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