指先に咲く音
春の風が、頬を撫でた。
桜の花びらが、ふわりと舞い落ちる。
僕はただ、それを見ていた。
伸ばした手の先で、花びらはひとひら宙に揺れて、指の隙間から零れ落ちる。
まるで、触れられないものに手を伸ばしているみたいに。
「……また春か」
静かに呟いた声は、風にさらわれ消えていく。
桜の木が揺れている。
枝先から舞い降りる花びらは、どこかで見た光景のようだった。
——あの日から、僕は止まったままだ。
ピアニストだった僕は……
いや、正確にはかつて「ピアニストになろうとしていた」人間だった。
幼い頃から、ピアノは僕にとって「呼吸」だった。
弾くことが当たり前で、鍵盤を叩けば音楽が生まれる。
それを「才能」だと言われたこともある。
僕もそれを信じていた。
音楽大学に進んだ時も、自分が挫折するなんて思わなかった。
でも、そこで僕は初めて知った。
才能の限界を。
周囲には、僕よりも上手い人間がいた。
正確な音、深い表現力、指先に宿る圧倒的なセンス。
何もかもが、僕より上だった。
毎日、朝から晩まで練習した。
指がかすれて、音が掠れて、それでも弾き続けた。
——でも、追いつけなかった。
「〇〇君、最近調子悪いよね」
「才能あると思ったけど……期待しすぎだったのかな」
そんな声が、耳の奥にこびりついていた。
努力しても報われない。
結果が出ない。
僕だけが、同じ場所に取り残されていた。
やがて、鍵盤に触れることが怖くなった。
音を間違えるのが怖くなった。
ある日、僕はピアノを辞めた。
教室にも行かなくなった。
先生は何も言わなかった。
だから、僕は「終わった」と思った。
——才能がないなら、弾く意味なんてない。
それが、ピアニストとしての僕の最後だった。
春になった。
季節は何も変わらずに巡ってくる。
僕だけが、あの日から止まったままだった。
何をするでもなく、ただ毎日を消費していた。
ピアノを弾くでもなく、音楽を聴くでもなく、朝起きて、食べて、夜に眠る。
――――――――――
ある日、気がついたら桜並木の下にいた。
「……綺麗だな」
誰に言うでもなく、呟いた。
桜が綺麗だと感じたのは、何年ぶりだっただろう。
ふと、耳に音が届いた。
ピアノの音だった。
どこか遠くから、風に乗って届く旋律。
知らない曲だった。
でも、その音は柔らかくて、春の風みたいだった。
僕は思わず、桜の木を見上げた。
「……弾けるかな」
小さく呟いた声は、春風に消えた。
弾けるわけがない。
だって、もうずっと弾いていなかったんだから。
——でも。
足が、勝手に動いた。
思い出したように、僕は家に帰った。
そして、埃をかぶったままのピアノの蓋を開いた。
鍵盤は、昔と変わらない。
でも、僕の指は震えていた。
「弾けるわけがない……」
そう思った。
でも、ふと耳に残っている旋律があった。
桜並木で聴いた、あの音。
そのメロディーを思い出して、鍵盤に手を置いた。
ゆっくりと、指が動く。
——音が鳴った。
ぎこちなかった。
音がかすれた。
リズムがずれた。
でも、それでも音が鳴った。
「……弾ける?」
かすれた音を無視して、僕はもう一度指を置いた。
——今度は、もっとはっきりとした音が鳴った。
体が思い出していた。
一度は捨てたはずの感覚が、指先に戻ってくる。
「弾ける……かもしれない」
——ダメでもいい。
——下手でもいい。
それでも、僕はピアノに向き合いたいと思った。
そのとき——
「春って色んなものが曖昧になる季節らしいですから」
どこからか声が聞こえた。
ふと、視線を窓の外に向けた。
桜並木の向こうに二人の姿が見えた。
茶色の髪を揺らした女性と、隣に立つ青年。
「曖昧だからこそ、思い出せることもあると思いません?」
「……そうかもしれないね」
彼女が手を伸ばした。
花びらが、指の間をするりとすり抜けた。
でも、その顔に悲しみの色はなかった。
「また、春は来るから」
青年がそう言った。
僕は彼らの後ろ姿を見ていた。
名も知らない二人。
でも、その言葉だけが胸に残った。
曖昧な季節。
曖昧だからこそ、また弾けるかもしれない。
窓から吹き込んだ春風が、僕の髪を揺らした。
指が自然に動いた。
鍵盤が鳴った。
音が響いた。
掠れていた。
でも、それでも音だった。
——また、春が来たから。
——だから、もう一度弾いてみよう。
指を動かした。
音が鳴った。
またひとつ。
そして、もうひとつ。
春風が吹いた。
花びらが舞った。
窓から吹き込んだ花びらが、指の隙間をすり抜ける。
それでも、僕は鍵盤から手を離さなかった。
鍵盤の音が、風に混じって部屋に満ちていく。
春風と、花びらと、音が。
そして、僕は——
静かに目を閉じた。
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