春にまた会おう
東本西創
微睡みの花びら
春の風が、そっと頬を撫でる。
桜の花びらがふわりと舞い落ちる。
その淡く霞んだ景色の中に、彼女の姿があった。
「……誰?」
声に出した瞬間、その人が振り返った。
「また、会えたね」
僕は息を呑んだ。
——そこに立っていたのは、かつて隣にいたはずの君だった。
「……どうして、ここに?」
「春だから、かな」
君は笑った。
柔らかい声が春風に溶けていく。
「春だから?」
「うん。春ってね、色んなものが曖昧になる季節なんだよ」
「曖昧?」
「生と死とか、現実と夢とか……そういうの。だから……ほんの少しだけ、こうして戻ってこられる」
君の声は、ひどく懐かしかった。
「じゃあ、今ここにいる君は……」
「……夢かもね」
君は桜の枝を見上げた。
淡い花びらが君の髪に触れては消えていく。
「でも……触れられるよ?」
僕は君の手にそっと触れた。
君の手は温かかった。
確かに君はそこにいた。
「……ねえ、最後に一緒に歩かない?」
「最後?」
「うん。桜が散るまで……」
君は僕の手を引いた。
僕たちは、桜並木を並んで歩いた。
風が吹くたびに、花びらが空に舞う。
世界が柔らかく揺れているような気がした。
「春って、どうしてこんなに切ないんだろうね」
君が呟いた。
「きっと、儚いからだよ」
「じゃあ、私たちも儚いのかな?」
……僕は答えられなかった。
「でもね」
君はふと立ち止まって、僕を振り返った。
「もし、桜が散っても、私のこと忘れないでくれる?」
「忘れるわけないだろ」
「嘘つき……きっと忘れちゃう」
「そんな事ない、絶対覚えてる」
「そっか……なら、よかった」
君は静かに微笑んだ。
その時、風が吹いた。
桜の花びらが舞い散り、僕の目を覆った。
「……ねえ」
君の声が遠のいていく。
「待って……」
僕は手を伸ばす。
でも、君の姿は春風に溶けるように、次第に薄れていく。
「……行かないで」
「大丈夫。春が来れば、また会えるから」
君はもうそこにいない。
「……ねえ」
君はもうここにいない。
「……ありがとう」
君はもうどこにもいない。
「大好きだったよ……」
最後に君はそう言った。
けれど、その声も、もう風に消えていた。
——桜が散った。
僕の手には、何も残っていなかった。
――――――――――
あれから僕は何度目かの春を迎えた。
春になるたびに、あの桜並木を歩く。
あの日と同じように、桜の花びらが舞い落ちる道を、ひとりで。
けれど、そこに君の姿はもうない。
でも、春風が吹くたびに、微かに君の声が聞こえる気がする。
桜の花びらが頬をかすめると、まるで君がそばにいるような、そんな感覚に襲われる。
——でも、なぜだろう。
大切な人のはずなのに、忘れたくないはずなのに、君の顔を思い出せない。
声の調子も、瞳の色も、髪の長さも。
君がいたことは確かだったのに、君がどんな姿をしていたのかを、僕はもう思い出せなかった。
そうして僕はまた桜並木を歩く。
満開の桜が、空を覆うように咲いている。
花びらが風に舞って、僕の肩にそっと落ちた。
……その時、遠くで誰かの影を見た気がした。
「……君?」
でも、振り返ってもそこには誰もいなかった。
静かに桜の木が揺れているだけだった。
「誰だったんだろう……」
桜の花びらが足元に積もっていく。
ふと、手のひらに残る微かな温もりを感じた。
——君が僕の手を握ったあの日の感触。
それだけは、まだ残っていた。
でも、それが本当に君のものだったのか、僕にはもうわからない。
君の名前も、顔も、声も、思い出せないのに。
それでも、春風が吹くたびに、胸が苦しくなる。
それはきっと、君がここにいたという証拠なのだろう。
僕は桜の木を見上げた。
桜の花が静かに揺れていた。
——誰かを待っているように。
「春が来れば、また会えるのかな」
僕は呟いた。
そして、そっと目を閉じた。
その時、ふと誰かの気配を感じた。
「……桜、綺麗ですね」
隣で誰かが立っていた。
明るい茶色の髪を揺らしながら、柔らかく微笑んでいる。
「え……?」
「毎年、この桜を見るのが好きなんです」
彼女はそう言った。
僕は彼女の顔を見た。
初めて見る顔なのに、なぜか懐かしさを感じた。
「……あの、良かったら一緒に歩きませんか?」
不思議と、断る理由が見つからなかった。
「……うん」
彼女の隣に並んで歩く。
桜の花びらが、風に乗って舞い落ちる。
「……きっと、また会えますよ」
暖かい風が頬を撫でる。
「春って色んなものが曖昧になる季節らしいですから」
手のひらに、一片の花びらが静かに舞い降りた。
それを見つめていると、胸の奥に微かな温もりが広がった。
まるで、君がそっと触れてくれたような——
桜が散っても、春風が吹く限り、またここに戻ってこようと……そう思った。
——たとえ、あの日の君が消えてしまっても。
新しい春が、また始まろうとしていた。
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