第二十二話:魂の記憶と妖精の囁き

 ルーネの広場の火刑台はドラズを中心とした亜人たちが取り壊し、人間たちが花やガーランドで飾り付け、聖女誕生のお立ち台に変えた。

「聖女様! みんなに言葉をかけてくれ!」

 ニャルティの戦士がクララに声をかける。

「……女神の真の信仰に」

 レオがクララの腕を掴み、高く掲げた。彼女は赤面している。

 そしてリリスの歌とガイルンの歌が広場を祭りの喧騒に変えた。クララはアイリーンの無事を祈る。リアン殿下の別邸で安静にしているであろう友人に思いを馳せた。



「クララ……あたしの知らない内に遠くに行っちゃたな」

 リアンの別邸のベッドで誰に言うでもなく呟くアイリーン。そばに座っていたラッセルは微笑みかけた。

「いいえ。アイリーンさんとの時間も絆も、彼女には必要なのですよ」

 お盆に乗せた野菜たっぷりのスープを彼女に渡すと、アイリーンはゆっくりと口に運んだ。地下牢の固くなったパンや水同然のスープしか口にできなかった彼女にとって、このスープは生きてきた中で最高のごちそうに思えた。

「……美味しい。こんな美味しいの、初めて」

「辛い思いをさせてしまいましたね。よく噛んでゆっくり嚥下えんげしてください」

 二人は無言のまま、スープをすする音だけが部屋に響く。外の喧騒が小さく耳に入る。やがてスープを飲み干すと、アイリーンは決意したように言い放った。

「あたし、クララと一緒に祈りたい。それが友達にできることでしょ」

 ラッセルは席を立ち、扉に向かう。

「まずはゆっくり休んでください。笑顔のあなたでいることがわたしたちの望みです」

 部屋を後にしたラッセルを見送ったアイリーンはベッドに横になり、夢の中へと落ちていった。



 聖堂に戻ったクレメンスは今日の出来事を教皇へ報告するため、執務室にいた。

「すこし休憩にしよう。これから忙しくなるな……」

 女神の顕現、聖女の誕生、教会改革……やることは山積みだ。しかし、この忙しさは心地良い。

 外が騒がしい。今はこのお祭り騒ぎに目をつぶろうではないか。交易都市ルーネは今日から聖都ルーネになる。

 しかし、冷静沈着で理性的なレナトが暴走するとは。カルロスならともかく、意外な一面だ。両者の沙汰は……いや、決まっているか。

 クララには禁書ことエリウスの書の写本を頼もう。今はゆっくり楽しんでほしい。

 窓から外を覗くと、火刑台は様変わりしている。聖女は恥ずかしそうに顔を伏せている。もっと誇らしくしていいんだ。あなたは教会を変えた歴史に残る聖女なのだから。



酔狼亭すいろうていに!」

 広場で酒を酌み交わす風詠みたちは、ラッセルの不在を少し寂しんだ。

「せっかくのタダ酒なのに、可哀想だね。まぁ、ラッセルくんの分も呑もうじゃないか」

 リアンが優雅に葡萄酒を煽る。レオはエールを、ガルドは火酒。リリスはミードを呑んでいた。クララはハーブジュースをちびちび飲んでいる。

「あれ? セルゲイ様は……?」

「人に酔ったとかであっちにおるぞ」

 ガルドが広場の外を指差した。ハーフエルフの青年が夜風に当たっている。その姿にクララの顔に熱が帯びた。

「ちょっと様子を見てきます」



 広場ではウサギ耳の少女が祈りの言葉で光を灯している。その光に隠れるセルゲイの背中をクララは追った。

「セルゲイ様! お水、持ってきました」

「ありがとう。都会は人が多くて、酔ってしまいまして……」

 芝生の上に座るこむ彼の隣に腰掛けた。

「……それだけではない気がします。マリテ様を見てなにやら深刻そうな顔をなさってましたから」

「バレてました? 実は――」

 クシャッと笑う彼の笑顔、初めて見る。彼は冷静で、でも冷たくなくて。感情がこんなに出るところを見るなんて初めてだ。

「前世の名前を唐突に思い出しまして。マリテ様の奇跡のおかげかもしれませんね」

 そうだ、マリテ様は『地球』なる異界の信徒。その信仰を広めてくださった方で、殉教後に天界に召されたのだ。

「……お聞きしても?」

 彼は目を逸らし、長い髪が表情を隠した。

「『冬木悠真』。これが僕の名前です。今の今まで忘れてたんです。多分、妖精女王のせいでしょう」

 いつか話してくださった灰色の巨大な建物のある世界。

 貴族の邸宅や教会で使われているような上質なガラスがふんだんに使われていて、『科学』という概念がある世界。

 魔法がない世界。……想像すらできない異界の話の中には『冬木悠真』という不思議な語感の名前はなかった。

「不思議な響きの名前……。でもセルゲイ様の雰囲気にぴったり合うと言いますか、すとんと胸に落ちます」

 苦笑するセルゲイにクララは首を傾げる。振り向いた彼は真剣な目をしていた。

「この『セルゲイ』という身体の魂が、僕を呼んでる気がします。気のせいでも僕は確かめに行かないとならない。女王に会いに行かないと」

 クララは胸に手を当てる。

「マリテ様が導いてくれます。良ければ私も――」

「これは僕の問題です。誰にも巻き込みたくはありません」



――――これは僕にしか解決できない問題だろう。

 シスター、いや聖女クララは勿論、風詠みのやいばやリアン殿下を妖精界には連れていけない。あの世界は危険だ。妖精の気まぐれで人の命がなくなる、そんな世界だ。

 大学に進学できなかった悔しさ、誰からも期待されない喪失感、首にかける縄の触感を鮮明に思い出す。前世の人生を今まで思い出せなかったことを、なぜ疑問に思わなかったのだろう。

 空には星空がまたたいている。ユルゲンほどではないけれど、ルーネの空も前世の空より輝いていた。日本の空は一等星くらいしか見えなかった。余白の多い空を少し懐かしんだ。

 隣に座る彼女は甘やかな声でセルゲイに話しかけている。タレ目に翡翠の瞳、ぷっくり膨らんだ桃色の吐息。その唇を奪って、スズランの香りに溺れたくなるのを必死にこらえた。


『彼女の処女性を奪ってしまうの? 魂は森の奥で待つわ』


 頭の中にティターニアの声が響いた。その声の在処を探すように、辺りを見渡す。

「? どうされました?」

「……いえ、なんでもないです」

 街の喧騒はあの時よりも壮大で、多くの人の心が動いた。クララはすごいな。

 もし、この思いが〝本当〟だったら、彼女をいつまでも待つ。

 やがて喧騒が静まり、日常が戻っていった。ルーネの夜はもうすぐ明ける。



「本当に一人で行くのカ? さみしくなるナ」

 朝霧に包まれたルーネの門に、風詠みたちがセルゲイを見送っていた。

「妖精界の扉はもうすぐ開かれるわ。十五年に一度、二つの月が満月になる時、オークの古木の根本に扉があるの。妖精女王に愛されてるなら、隣人の国に行けると思う」

 リリスはエルフなだけあって、妖精界に詳しいらしい。

「妖精の気まぐれさに惑わされるなよ、半妖の」

 ガルドもセルゲイを心配していた。彼らの気まぐれさは、人間には理解が及ばないものだと分かるのだ。

「クララさんはわたしにお任せください」

「いえ、任せませんよ」

 ラッセルが胸を叩いて軽口を言う。それにツッコむセルゲイ。前かがみになり小さく笑うクララに、一行はつられて笑い出す。

「殿下、聖女クララを守ってもらえますか?」

「ああ。ボクには権力があるからね。教会がクララを利用しようとするなら、ボクが全力で守るよ」

 リアンとセルゲイが握手を交わした。

「……守られるだけの私ではありませんよ。セルゲイ様のように私も成長しますから!」

 クララの決意にセルゲイの身が引き締まった。

「じゃあ、僕はこれで」

 風詠みの一行に別れを告げ、ルーネを旅立った。朝霧煙る門を振り返ると、一行が手を振っている。彼も応えるように手を振り返す。


(あるじ、さみしいのか?)

「そうだね。短い旅だったけど、濃い内容だったからね。後ろ髪を引かれるってこういう感じなんだね」

 影から飛び出したフェイガードに彼は感じたままを呟く。ユルゲンの事件から村人の彼への接し方はガラリと変わった。つっけんどんな態度から、友好的に。

 でもこうして仲間と旅をして絆を深めるという経験は前世でもなかった。風が強く吹いている。もう少し髪が伸びたら髪留めを見繕わねば。

 

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