備忘録 障害者から学べる事柄

島尾

第1話 言葉遣い

 身近に、とある知的障害者と時間を共にすることがある。

 

 本日、彼は言葉遣いについて注意を受け、やや怒られていた。

 私は正直こう思う。この社会で当たり前とされる多数のルールが、私を含むかなり大多数の大人を束縛しすぎている。例えば丁寧な言葉遣いは現代において形骸化しており、「言えばえーんやろ」という投げやりな意思を持ったままそれを使用している。特に相手に丁寧に接したいと思っていないのに、社会のルールとしてそれを強制されるのは、人々の間にスカスカな関係しか築きえない。納屋で豆の皮をはいでいるひばあさんを見つけて、手伝いに行って、「ありがとう」と言われた子供時代、私は当時何とも思わなかった。しかし時を経て大人なるものに酸化された現代の私は、あれがかなり大切な対人関係であったと思う。大人の間では対人ではない対Xのほうが重視され重宝されている(Xの代表格はカネだろう)。私は、当然存在する社会のルールそのものが現代におけるよそよそしさの大元だと思う。


 そう思った上でも、やはり上の知的障害者の言葉遣いを学習している姿勢に一つの可能性を見た。私は形骸化した社会ルールを抑圧と感じて、ルールを守りつつルール外の意味を内包させた態度を意図して取っている。対して彼は言葉遣いという形を、まるで流体力学の法則にしたがうなめらかな液体を壺(=脳)に入れるだけの単純作業をやっているという見方をした。これは、形骸化より2つ前の段階だろう。かつて意味を内包していたものは、さらに前には建造の途中であったことは疑いようもない。人々がおのおのの感情に関わらず表面的には円滑に事が運ぶようにするには、どのような言葉を開発したらいいか、苦心していたのではないか。その知的障害者はまさにその建造現場を視認していると思う。なにせ彼は多くの記憶が極めて短時間に消え、正確な意味さえつかめていないからだ。実際に7ヶ月も彼を見ていて、それは99.9%正しい推測だ。


 物をモノとして扱うことが嫌である。それと似て、丁寧な言葉をテイネイナコトバとして何も考えずに使うのは、やはり嫌である。ところが、ネットのサイトで丁寧語をわざわざ調べて記憶する作業に没入している彼を見ていると、ふと、彼の丁寧語にはきちんと感情が乗っていて、この丁寧語には反感が抱けないだろうと思った。本当はタメ語で話したい(あるいはそれが当然)という彼の中の既存の意思を、私は既に知っているからだ。

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