第五章 おばあちゃんのキャンディ

 女性が来たその日から、おばあちゃんの顔色はずっと悪いままだった。おばあちゃんは、今何を悩んでいるのだろう。

 気づくと、そろそろ閉店の時間だ。今日もたくさんのお客さんがきた。

 「あかり、店を閉めよう」

 「うん。わかった!」

 「あかり、今日は晩御飯のあと、昔話をしよう。私の部屋に来なさい。大切な、大切なお話や」

 おばあちゃんは、何かを決心したかのように、真っ直ぐに私を見ていた。そうか。今日、キャンディの秘密がわかるんだ。不思議とおばあちゃんが何を話すかわかった。私は目を閉じて、大きく息をする。そして、おばあちゃんの決意に応えるように、大きく頷いた。

 おばあちゃんの部屋へ向かう。ドアをノックする。

 「……おばあちゃん、入るよ?」

 おばあちゃんはベットに腰掛けていた。

「あかりもここに座んなさい」

 おばあちゃんの横に腰掛ける。しばらく重い沈黙が続いた。おばあちゃんは、何から話そうか迷っているようだった。やがて、大きなため息をついたあと、おばあちゃんは私に目線を向けた。

「なにから知りたいかね?」

 私は、知らなければいけない。今日、私の中で渦巻いていたモヤモヤの、結論を出す。だから――。

 「全部。全部教えて」

 私は、どんな話をされようとも、目を背けない。考えたい。おじいちゃんが、なぜ遺書を残したのか。おばあちゃんが、なぜりんごを育てるのかを。

 そして、おばあちゃんは話し始める。

「私は昔精神病院に入っていたんだよ。なんで入っていたかはわからない。おじいちゃんに記憶を渡したからさ。ただ、精神病院に入るぐらいだ。相当なことがあったんだろうよ」

 おばあちゃんはおじいちゃんに記憶を渡したんだ。過去おばあちゃんに何があったのかおばあちゃんは本当に覚えていないようだ。

「おじいちゃんは精神病院の看護師をしていてね、昔の男の看護師なんて珍しいだろう? でもきっとその時代だ。精神病院にしか勤め先がなかったんだろう。大変だっただろうよ。いろんな患者がいたからね」

「私はおじいちゃんに一目惚れしたよ。なんたって優しくしてくれるからね。今思えば仕事だったから当たり前かもしれないが」

 どうだろう。おじいちゃんも一目惚れかもしれない。今となっては知ることはできないが。

 おばあちゃんのことを本当に好きじゃないと精神病院に入るほどの辛い記憶をもらうことなど、できないのではないだろうか。

「その精神病院はね、土地が広かったんだ。りんごを植えたらどうかと提案したのは、おじいちゃんだったらしい。患者それぞれが一粒ずつ種を植えて、私も一本のりんごの木を育て始めた」

 「食べてみたんだが、私のりんごは失敗したのか案外酸っぱくてね、食べれたもんじゃなかった。そこでおじいちゃんは、果汁を絞って、キャンディにしてみるのはどうだろう。そういったんだ」

「砂糖と水飴を煮詰めて、りんごの果汁を入れる、その時に、おじいちゃんがこう言ったんだ。『この果汁を入れる時、あなたの嫌な記憶も一緒に入れてみよう。そしてキャンディは僕が食べるんだ。そしたら嫌な記憶は僕のものだろう?』そう言って笑った。最初は比喩だったんだよ」

 「……でも本当になった」

 「そうだ。心の底で、私はこの記憶を手放したい、そう思ったのかもしれない。おじいちゃんは最後まで私にどんな記憶だったか言わずに死んでいった」

 おじいちゃんは、本当におばあちゃんのことを愛していたんだ。

「おじいちゃんは、『この記憶のキャンディが人々を救うことができるのではないか』そう言っていたよ。一生懸命記憶が渡る条件を調べていた。時には他の患者の記憶も自分がもらっていたよ。その成果があの遺書だ」

 あの遺書はおじいちゃんの努力の結晶だったのだ。

「私は今でも後悔しているよ。私が持っているべき記憶をおじいちゃんに押し付けた。記憶は自分自身で持っているべきなんだ」

 私は何も言えなかった。おばあちゃんの気持ちもわかる。おばあちゃんはおじいちゃんへの罪悪感があるのだ。

 でも、きっとおじいちゃんは、おばあちゃんから記憶が無くなったことで、おばあちゃんが元気になっていくのを目の当たりにしたんだ。でなければここまで詳細に条件を調べることなどできやしない。りんごを育てるだけで最低6年かかるのだ。何年もかかる相当な作業だっただろう。おじいちゃんは本気でキャンディが人々の救いになると信じていた。

 私は出会った2人のことを思い出す。少なくとも、彼らはキャンディに希望を見出していた。

 

 わたしとおばあちゃんは沈黙して、相当な時間が経った。5分だったかもしれないし、30分なような気もする。私は口を開く。

 「……ねえ、記憶だけじゃなくて、感情を渡すことってできるのかな?」

 おばあちゃんは考え込む。

 「……どうかな。わからない。やったことないから。どうして?」

 「私、りんご育てようかな。それでキャンディつくる。お母さんへの感謝の気持ちをキャンディに込める」

 おばあちゃんは目からこぼれ落ちそうなほど驚いた顔をした。

 「そうしたらおかあさんへの感謝の気持ちが消えちまうんだよ?」

 「確かに、今までの気持ちは消えちゃうかもしれないけど、りんごが育つまでの間、また感謝の気持ちって生まれてくるものでしょう? だからいいんだよ! りんごを育てて、気持ちもまた育めばいい」

 「……そうか、それがあかりの答えなんだね。あかり、本当にありがとう。なんだか今すごく晴れやかな気分だよ」

 おばあちゃんは、とても安心したような、見たことのない笑みで私を見ていた。

「今日は疲れただろう。もう寝よう」

「うん。おばあちゃんもお疲れ様。おやすみなさい」

 そう言って私はおばあちゃんの部屋を後にした。

 

 これがおばあちゃんと交わした最後の会話となった。

 朝、おばあちゃんは起きてこなかった。おばあちゃんはつきものがおちたかのように笑顔で寝ていた。おばあちゃんの手は、もう体温を感じない。私の涙がおばあちゃんの頬にポツッと落ちていく。

「おばあちゃん、お疲れ様。今までよく頑張ったね。そして、ありがとう。最後に大切なお話をしてくれて。天国で、おじいちゃんと仲良くね」

 初めて触れた、人の死だった。お医者様は、「老衰だ。最後にお孫さんと話せて幸せだっただろう」そう言った。

 

 おばあちゃんが亡くなって、またお母さんとの生活が始まった。おばあちゃんの駄菓子屋を潰したくなかったから、お母さんに無理をいって駄菓子屋を継いでもらった。引越しして、学校も転校した。りんとは今後も連絡を取り合うつもりだ。

 これから、新生活が始まる。私は、リンゴの種を駄菓子屋の裏庭に埋めた。

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