ただ、踊る。
草加奈呼
*
布団の中の老人は、もう十年も動いていなかった。
──厳密に言えば、動けなかったわけではない。
誰もがそう信じ込んでいたのだ。
病院の先生も、訪問介護のスタッフも、家族すらも。
「おじいちゃんはもう歩けない」と決めつけ、老人自身もそれを否定しなかった。
だから、彼はただ布団に包まれ、老いという名の静寂の中で息をしていた。
ある日、孫が何気なくテレビをつけた。
画面には、派手な衣装を身にまとった若者たちが奇妙なステップを踏み、音楽に合わせて跳ねている姿が映っていた。
「じいちゃん、これ、ダンスってやつ」
老人は目を閉じたまま、かすかに口元を歪めた。
──ダンス、か。ああ、懐かしい。
かつて、この身体は風だった。
舞台の上では誰よりも軽やかに、流れるように踊った。
人々は彼を「天下無双」と呼んだ。
足元が覚束なくなり、腰を痛め、やがてステージを去ったのはいつのことだったか。
記憶の中の若い自分が、ステップを刻む。
思い出す。
思い出すだけで、血が流れ、筋肉が躍動する。
老人はいきなり、布団を跳ねのけた。
「じいちゃん!?」
孫が目を見開いた。
老人は両手を横に広げ、つま先を立て、膝をわずかに曲げる。
驚くべきことに、身体は覚えていた。
リズムが脳から脊髄へ、脊髄から足先へと走る。
縮こまった筋肉が悲鳴を上げるのも聞かず、老人はステップを踏んだ。
右へ、左へ。リズムに乗り、腕を広げ、回転する。
「じいちゃん!? 何してんの!?」
老人の耳には、孫の声は聞こえていない。
孫が慌ててスマホを構え、動画を撮り始めた。
SNSに投稿すれば、バズるに違いない。
彼は踊った。まるで時計の針が逆回転し、老いた身体が過去へと巻き戻されるかのように。
足が軽い。風を切る音が聞こえる。
観客の歓声が──いや、違う、孫の悲鳴が──いや、もはやそんなものどうでもいい。
彼はただ、踊る。
長い、長い時間を超え、布団の中で眠っていた天下無双の男が、再び舞台に立ったのだ。
*
翌日、その動画はSNSで100万回再生を超え、「伝説の爺さん」として拡散された。
数日後、家の電話が鳴る。テレビ局だった。
孫が戸惑いながらも祖父に伝えると、老人は静かに頷いた。
「すまんな。ワシ、またステージに立つことにしたわ」
そして、老人が再び布団に戻ったのは、寿命を迎えた時だという。
ただ、踊る。 草加奈呼 @nakonako07
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