第2話:心をほどくカクテル
その日から、怜司はまるで自分の店かのように「Nostalgia」に通い詰めるようになった。
カウンターに座れば、何の遠慮もなく「マスター、飲ませてくれ」と言う。誠が渋々ながらもグラスを差し出すと、怜司はそれを手に取り、ゆっくりと味わう。そして、必ず言う。
「俺にも、この味を作れるように教えてくれ」
そのたびに誠は眉をひそめ、短く答える。
「技術だけなら、本でも学べる」
「違うんだよ」
怜司は食い下がる。
「俺が知りたいのは"心"の部分だ」
「そんなもの、教えられるわけがない」
誠は頑なだった。
しかし、怜司はまったく諦める様子を見せなかった。まるで何かに取り憑かれたように、毎晩のように店に現れた。閉店時間が近づいても帰ろうとせず、カウンターの奥で黙々とグラスを磨く誠をじっと見つめていた。
「今日はもう帰れ」
「マスターが閉めるまで俺はここにいる」
誠の言葉に動じることなく、怜司は微塵も席を立たない。まるで、頑固な弟子が師匠の門前に座り込むように。
「何がそこまでお前を駆り立てるんだ?」
ある夜、とうとう誠が苛立ち混じりに問いかけた。
「そこまで俺に学びたいことがあるとは思えないがな」
怜司はゆっくりとカウンターを指でなぞる。指先が、滑らかな木の質感を確かめるように動く。
「俺は確かに、カクテルコンペで何度も優勝した。どこに行っても"天才"と呼ばれる。でも――」
言葉を探すように、一度息を吐く。
「俺のカクテルには、何かが足りないんだ」
誠は少しだけ目を細めた。だが、すぐにシェイカーを手に取り、無言で動き出す。
氷がぶつかる音、リズミカルなシェイクの動き。まるで音楽のように一定のリズムを刻む。彼の手の動きには、無駄がない。力強く、そしてどこか優雅でもあった。
カクテルグラスに流し込まれる琥珀色の液体。その瞬間、ほのかに漂う甘く深い香り。
誠はグラスを怜司の前に置き、短く言った。
「なら、もう一度確かめてみろよ」
怜司は、目の前のカクテルを見つめる。
氷の表面に、カウンターの光が映り込んで揺れている。グラスを手に取ると、ほんの僅かに冷たさが指に伝わる。ゆっくりと口元へ運び、一口。
――それは、何度飲んでも同じ味だった。
シンプルな材料。派手な装飾もない。それなのに、心がじんわりと温まるような、不思議な味がする。まるで、張り詰めた神経がほどけていくような感覚。
怜司は、そっと息を吐いた。
「……この味だ」
そして、カウンターの向こうの男を見据えながら、静かに問いかけた。
「なあ、マスター。これは、一体なんなんだ?」
誠は静かに首を振る。
「俺には特別なことはしていない。お前のカクテルが"完璧"なら、俺のはただの酒だ」
「違う」
怜司は、強く否定した。
「俺の作るカクテルは"美しい"。でも、マスターのカクテルは"人を救う"んだ」
その時だった。
「……そうなんだよなぁ」
カウンターの端に座っていた常連客のひとりが、ゆるりとグラスを傾けながら言った。頬は少し赤らみ、酔いが回っているのがわかる。
「俺がこのバーに通うのはさ、マスターの作る酒が、心をほどいてくれるからなんだよ」
怜司はその言葉に、目を見開いた。
「最初はただの行きつけの店だった。でも、ここに来てマスターの酒を飲むと、不思議と気持ちが落ち着くんだ。嫌なことがあった日も、ここで一杯飲むと、明日もやってみようって思える」
そう言うと、常連客はふっと笑った。
「俺の人生を救った酒って言っても、大げさじゃないかもしれないな」
怜司は、常連客の言葉を反芻するように、ゆっくりと誠へ視線を戻す。
カウンターの向こうの男は、じっと沈黙していた。
「……ほらな」
怜司が淡々とそう言うと、誠は短く息を吐き、肩をすくめた。
「そんな大げさなこと言われるような酒じゃないんだがな」
「マスターはそう思ってるかもしれないけど」
怜司はゆっくりと口を開く。
「でも、客にとっては違うんだよ」
誠は目を伏せた。何かを思案するような表情。
「お前には分からない」
その声には、確かに迷いが混ざっていた。
だが、それは最初の頃に見せた頑なな拒絶とは、明らかに違っていた。
怜司は、それを見逃さなかった。
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