氷が溶けるまで

ウニぼうず

第1話:忘れられない一杯

バーテンダー界に新たなスターが現れた。


若干二十三歳にして、国内外のカクテルコンペティションを総なめにし、名だたるホテルやバーからスカウトの声がかかる。調和の取れた完璧なシェイキング、華やかで洗練されたプレゼンテーション。誰もが彼を「天才」と呼び、さらなる活躍を疑わなかった。


しかし、たちばな怜司さとしは突如として奇妙な発言をした。


「俺には師匠がいる」


業界がざわついた。怜司の師匠とは誰なのか? どの有名バーテンダーが彼を育てたのか? 取材陣はこぞって彼の言葉を追いかけた。そして怜司本人が答えた名は、誰もが聞いたことのない、街はずれの小さなバーのマスターだった。


「本当に尊敬しているのは、『Nostalgia』のマスターです」


記者たちは面食らった。名も知られていない、コンテスト入賞歴すらないバーテンダーが、若き天才の師匠だというのか? 「誤解では?」という質問にも、怜司は微かに笑みを浮かべながら、迷いなく答えた。


「誤解じゃない。俺がバーテンダーを志したのは、あの人の作った一杯のカクテルがきっかけだから」


記事は瞬く間に拡散し、業界関係者が色めき立った。高級ホテルのバーテンダーたちが頭を抱え、有名バーのオーナーたちは「どんな男なんだ?」と興味を持った。


そして、静かな夜を過ごしていた場末のバーに、思わぬ波が押し寄せることとなった――。


「Nostalgia」は、派手な看板もなければ、華やかな装飾もない。ただ、しんとした路地裏にひっそりと佇む、常連だけが知る隠れ家のような店だった。


しかし、その夜、普段は見かけない顔が店の前に立っていた。スーツ姿の記者、業界関係者、物珍しげに覗き込む若手バーテンダーたち。


「……なんだ、これは」


カウンターの向こうでグラスを磨いていた藤崎ふじさきまことは、呆れたようにため息をついた。五十を超えた彼の顔には、長年カウンターに立ち続けた者の落ち着きがあったが、この状況にはさすがに困惑を隠せない。


「失礼します! こちらのマスターが、橘怜司さんの師匠だと伺ったのですが!」


記者がカメラを片手に詰め寄る。


「師匠?」


誠は眉をひそめる。


「俺が? そんなわけないだろ」

「しかし、橘さんが明言されています。あなたが尊敬するバーテンダーだと――」

「アイツが勝手に言っただけだ」


誠はグラスを置き、肩をすくめた。


「悪いが、俺は有名になるつもりもないし、世間に出るような立場じゃない」


記者は食い下がるが、誠は一切相手にしなかった。騒ぎを聞きつけた常連客たちも、やれやれと首を振る。


「マスター、災難だったな」

「お前がそんな大それた男なら、もうとっくに有名になってるっての」

「全くだ」


誠は苦笑しながら、カウンターの上のボトルを並べ直す。


しかし、その騒ぎの中心人物が、静かに扉を押し開けた。


「よぉ、マスター」


細身ながらもしなやかに引き締まった体、スラリとした長身に、洗練された黒のシャツがよく似合う。カウンターへと歩み寄る姿は、どこか舞台俳優のような優雅さを持っていた。


だが、誠の目にはその優雅な動きが、まるで獲物に狙いを定める猛獣のように映った。


「……また来たのか」


誠は渋い顔をするが、怜司はどこ吹く風といった様子でカウンターに座る。


「相変わらず、居心地のいい店だ」

「その口が言ったせいで、ややこしいことになったんだがな」


怜司は肩をすくめた。


「本当のことを言っただけだろ?」

「本当のこと、ねぇ……」


誠はグラスを手に取り、怜司を正面から見据えた。


「何を企んでる?」

「企んでるなんて人聞きが悪い」


怜司は少しだけ笑う。


「俺はただ、マスターにカクテルの何たるかを教えてほしいだけだ」


誠は鼻で笑った。


「笑わせるな。お前はすでに名実ともにトップのバーテンダーだろう」


「技術的にはな」


怜司はあっさりと認めた。


「でも、それだけじゃ足りないんだ。俺は、マスターが作ったあのカクテルに、どうしても届かない」


誠の表情がわずかに揺らぐ。


「だから、俺に教えてくれ。あのカクテルの本質を」


誠は短く息を吐いた。


「俺は、お前に教えられることなんてない」

「またそれか」


怜司は小さく笑う。


「毎回同じセリフだな」

「当たり前だ。俺はコンテストで優勝したこともなければ、技術的にも大したことはない」


誠はグラスを置き、怜司を見据える。


「お前のほうが、よっぽどすごいんだよ」


怜司の笑みが、少しだけ消える。


「それが違うんだよな、マスター」


カウンターの向こう側とこちら側、まるで対照的な二人のバーテンダーが向き合う。片や名声を手にした若き天才、片やひっそりと生きる場末の職人。二人の間には、埋められないはずの深い溝があった。


それでも、怜司は諦めるつもりはなかった。


「……何を飲む?」


誠が渋々と問いかけると、怜司は口元に微笑を浮かべる。


「じゃあ、あの時と同じものを」


誠は一瞬だけ目を細めると、ゆっくりとシェイカーを手に取った。

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