第2話

二年の月日が流れた。

ヤラマナ王国の象徴とも言える、白亜の巨塔。アルトール騎士学校の校門を、一人の少年がくぐった。背は伸び、少年の幼さを残しながらも、その身のこなしには野良犬のようなしなやかさが宿っている。かつてゴミの山で炎を操っていたトランは、約束通り十二歳になり、懐に忍ばせていたあの手紙一枚を頼りに、この「別世界」へと足を踏み入れた。

アルトール騎士学校。

そこは、王国騎士団という最高の名誉へと続く唯一の登竜門である。騎士団には四つの精鋭部隊――最前線で刃を交える「攻撃部隊」、王都の盾となる「王国守護部隊」、市民の安寧を守る「治安維持部隊」。そして、選ばれし者のみが許される究極の栄誉「王族守護部隊」。この最上位部隊への道が開かれているのは、国内に数ある教育機関の中でもこの学校をおいて他にない。

さらには「騎士学校」と銘打ちながらも、その教育課程は武術のみに留まらない。高度な魔法学の講義も行われ、卒業生の中には王宮魔術師団の中枢を担う者も少なくない。文武両道、そして魔武併進。

ゆえに、入学の壁は絶望的なまでに高い。入試倍率は二十倍。試験内容は、剣・槍・弓・魔法を網羅する過酷な「実技」、魔法理論から数学、王国史、複雑な語学に至る「筆記」、そして個人の資質を問う「面接」。

学力以上に実戦能力が重視される傾向にあるとはいえ、それは「天才の中の天才」を選ぶための篩(ふるい)に過ぎなかった。

だが、そんな厳格なはずの教室で、異様な光景が広がっていた。

朝日が差し込む清潔な教室内。磨き上げられた机に突っ伏してすやすやと寝ている者がいた。トランだ。

「……スー……スー……」

周囲の生徒たちの視線は、鋭い礫(つぶて)のように彼に突き刺さっていた。

無理もない。アルトールに平民が入学するなど、実に二十年ぶりの珍事なのだ。ましてや、生徒の大半は由緒正しき貴族の家系。幼少期から家庭教師をつけられ、英才教育を叩き込まれてきた自負がある。彼らにとって、平民と同じ空気を吸うこと自体が、ある種の屈辱ですらあった。

「おい、見ろよ。あれが噂の『平民枠』か」

一人の男子生徒が、扇をあおぐような仕草で鼻をつまみ、周囲に囁いた。

「あいつ、あの『箱』の出身らしいぞ。不潔極まりない」

「マジかよ! 誰が許可したんだ。選考基準を疑うぜ」

「そもそも『箱』の人間が外に出るなんて、実質的な犯罪だろ。野放しにしていいのか?」

「ははは、それは貴族が勝手に決めたルールだろ? だが、騎士学校の品位が下がるのは勘弁してほしいな」

「いっそ、寝ている間にオレが騎士に代わって成敗してやろうか?」

「はっはっはっ、それはいい。ゴミはゴミ捨て場に帰してやるべきだ」

悪意に満ちた嘲笑が、さざ波のように教室中に広がる。

しかし、トランは起きない。ゴミ捨て場の騒音と悪臭の中で育った彼にとって、この静かで清潔な教室は、皮肉にも最高の寝床だった。

そんな罵声の嵐を、別の方向からの熱気が塗り替える。

「……おい、静かにしろ。あの方だ」

「ベルグ・ジーカ様だわ……」

教室の一角、窓際の席。そこに座る少年は、周囲とは明らかに違うオーラを放っていた。

燃えるような太陽の金髪。すべてを見透かすような鋭い金の瞳。彫刻のように整った横顔は、まだ少年ながらも完成された美しさを備えている。

ベルグ・ジーカ。

十歳にして王都剣術大会に出場し、大人顔負けの剣技で並み居る強豪をなぎ倒して優勝した「神童」。騎士団からの強力な推薦を受けて入学した、正真正銘の超エリートだ。

「剣の天才ってだけじゃない、あの気品……」

「女子生徒の視線が全部あっちに行ってるな」

「推薦入学生は今年二人だけなんだろ? 一人はあのベルグ様として、もう一人は誰なんだ?」

「さあな。まあ、どうせどこかの大貴族の子息だろうさ」

羨望と賞賛を一身に浴びるベルグは、周囲の騒ぎなど眼中にないといった様子で、ただ真っ直ぐに黒板を見つめていた。その凛とした佇まいは、まさに次世代の騎士を体現している。

その時、教室の扉が、壊れんばかりの勢いで蹴り開けられた。

「――全員、席につけッ!」

鼓膜を震わせる怒声。

教室内を支配していた雑談も、嘲笑も、憧憬の溜息も、その一撃で凍りついた。

現れたのは、巨大な岩石が歩いているような錯覚を抱かせる、筋骨隆々の男だった。革製の教官服をはち切れんばかりに着こなし、腰には重厚な長剣を帯びている。その眼光は、向けられただけで喉元に刃を突きつけられたような錯覚を抱かせるほどに鋭い。

「本日から貴様らの教官を務める、ギル・バザールだ」

男が教壇に立つと、教室の空気が目に見えて重くなった。

生徒たちは一瞬で背筋を伸ばし、唾を飲み込む音さえ憚られるほどの静寂が訪れる。ギル・バザールの名は、国境付近の戦場をいくつも渡り歩いた「鉄血の騎士」として知られていた。

「いいか、お前らは今日からただのガキではない。騎士学生だ。ここは甘っちょろい遊び場じゃあない。国を背負う刃を研ぐ場所だ」

ギルは教壇を拳で叩いた。ドン、と重い音が教室に響き渡る。

「アルトール騎士学校は、真の騎士を育てるための聖域だ。今日この瞬間から、騎士の名に恥じない行動を取れ。己の誇りを汚す真似は万死に値する。わかったなッ!!」

「「「はいッ!!!」」」

反射的に、生徒たちの腹から出た返声が教室を震わせた。貴族も平民も関係ない。圧倒的な「強者」の圧力を前に、少年少女たちはただ服従の姿勢を取るしかなかった。

――その、全員一致の絶叫が。

「っ!?」

一番前の席で、一人の少年が椅子から転げ落ちそうになりながら飛び起きた。

トランだ。

彼は寝ぼけ眼で周囲を見渡した。心臓が早鐘を打っている。ゴミ捨て場で巨大な鉄塊が崩れてきた時のような、本能的な危機感。

「……び、びっくりした……」

寝癖で逆立った黒髪を掻きながら、トランは飛び起きる。

静まり返った教室内。

そして、あきれ果てたように彼を見る、エリートたちの冷ややかな目。

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