眠る少年トラン
たみ
第1話
ヤラマナ王国の北端に位置する『サラフ地区』。
王都ナハラのきらびやかな喧騒から切り離されたその場所は、重苦しい空気に支配されていた。高くそびえ立つ防壁が、富める者と飢える者を物理的に分断している。王都民にとってそこは、一度入れば二度と戻れぬ底なしの沼。触れてはならない汚れ物。彼らは蔑みと恐怖を込めて、その隔離された街を『箱』と呼んだ。
『箱』の空気は常に澱んでいる。排泄物の臭い、何かが腐敗する酸っぱい臭い、そして鉄が錆びゆく金属臭。ここでは道徳などという言葉は、明日のパン一切れよりも価値がない。騎士団の鎧の輝きが届かぬこの街では、住民たちは鋭い眼光を武器に変え、剥き出しの生存本能だけで今日を生き延びていた。腰にナイフを差していない大人など一人もおらず、子供でさえもその手に石礫を握りしめて歩いている。
そんな『箱』の最果てにある、広大なゴミ捨て場。
そこは、王都の贅沢が吐き出された、巨大な「死骸」の集積所だった。
そびえ立つゴミの山は、時に十メートルを超える高さにまで達する。崩れかけたアンティークの椅子、ひび割れたワイン瓶、かつては誰かの肌を飾ったであろう色褪せたドレス、正体不明の重厚な歯車。それらが地層のように積み重なり、その隙間を、肥え太ったネズミや黒い羽を光らせる虫たちが這いずり回っている。
太陽の光さえ、ここでは鈍く濁って見えた。風が吹くたびに、乾いた紙屑と埃が舞い上がり、少年の頬を撫でる。
そのゴミの山の頂に、一人の少年が座っていた。
黒い髪は無造作に伸び、瞳は夜の闇を溶かし込んだように深い。十歳という年齢以上に、その身体は引き締まっているが、着ているのは拾い集めたボロ布を繋ぎ合わせたような服だ。肌に染み付いた泥は、彼がこの過酷な環境の一部であることを示していた。
少年の半開きの目は、退屈と鋭敏さが奇妙に混ざり合っている。
彼にとって、この地獄のようなゴミ捨て場は、豊穣の楽園だった。
「……腹、減ったな」
腹の虫が鳴るが、焦りはない。少し掘り返せば、まだ食える残飯が見つかる。寝床も、寒さを凌ぐ布も、ここには何でもある。そして何より、彼を飽きさせない「おもちゃ」があった。
少年は、骨張った右手を前方に突き出した。
意識を内側へ向ける。血管の拍動、肺が吸い込む澱んだ空気。そのさらに奥、臍のあたりにある「熱」の塊を、指先へと手繰り寄せる感覚。
「はっ!!」
短い呼気と共に、指先から赤橙色の火花が弾けた。
それは一瞬で小さな炎の塊となり、目の前のボロボロのクッションに飛び火する。パチパチと乾いた音を立てて燃え上がる炎。その熱が少年の顔を赤く照らし、冷えかけた肌に心地よい刺激を与えた。
「くらえ!」
さらに左手を振り抜く。
次はもう少し大きく、鋭く。空気を焦がす熱波が少年の前髪を揺らす。
燃え移った火は、積み上がったガラクタを容赦なく舐め取り、黒い煙を空へと立ち昇らせた。
「はっ!!」
「くらえ!!」
少年は無邪気に笑いながら、炎を放ち続けた。
ここでは誰も文句は言わない。燃え尽きて灰になれば、また新しいゴミが降ってくるだけだ。魔法を放つたびに、自分の中にある何かが外の世界へと噴き出す解放感。それがたまらなく好きだった。
「――ボウズ、上手いな。その魔法、どこで覚えた」
唐突に背後から響いた、低く落ち着いた声。
少年の背筋に冷たい緊張が走る。反射的に、彼は炎を放った姿勢のまま身を翻した。足元のゴミがガラガラと音を立てて崩れ落ちる。
「……っ、おっさん誰だ?」
ゴミ山の麓に、一人の男が立っていた。
広い庇のハットを深く被り、顔の半分は影に隠れている。だが、その佇まいで一目で分かった。この男は、泥水を啜って生きる『箱』の人間ではない。仕立ての良いコート、手入れされた靴。漂ってくるのは腐敗臭ではなく、わずかに香る煙草と洗練された街の匂い。
「オレはアンラっていうもんだ」
男は、少年の敵意をさらりと受け流すように名乗った。その眼差しは鋭いが、どこか温かさを孕んでいる。
「魔法は本で覚えた。ここにはいっぱい捨ててあるからな」
少年は警戒を解かぬまま、ぶっきらぼうに答えた。
数年前、彼はゴミの山の中から一冊の重厚な革表紙の本を見つけた。表紙はボロボロで、半分以上が煤けていたが、そこには不思議な陣や文字が記されていた。
当時の少年は字が読めなかった。だから彼は、街の端にある薬屋へ通った。偏屈で有名なオババに、ゴミの中から拾い上げた「まだ使える医療器具」や「珍しい空き瓶」を差し出し、その対価として文字の読み書きを教わったのだ。
最初は何も起きなかった。
本に書いてある通りに呼吸を整え、体内の巡りを意識しても、指先さえ温まらない。だが、彼には時間が無限にあった。暇を潰すためだけに、彼は毎日、呪文を呟き、イメージを練り上げた。
一年が過ぎ、二年が過ぎる頃。
少年の指先は、体内の微かな変化を捉え始めた。それは脈動よりも繊細で、水が流れるような、あるいは風が吹き抜けるような奇妙な感覚。
そしてある日、ついに火が灯った。
小さな、消えそうな火種。だが、それはこのゴミ捨て場で少年が手にした、何よりも輝かしい「自分の力」だった。
「……そうか、独学か」
アンラの声に、隠しきれない驚嘆が混じる。
独学。それは魔法の歴史において、もっとも困難で危険な道だ。通常、魔法使いを志す者は、安全な環境で師につき、膨大な理論と制御方法を学ぶ。そうでなければ、魔力の暴走によって自らの命を散らすのが関の山だからだ。
目の前の少年は、この劣悪な環境で、たった一人で「門」をこじ開けたのだ。
「ボウズの魔法はすごいな」
心底からの感嘆。それを聞き、少年の強張っていた表情が、一気に年相応の子供らしいものへと崩れた。
「はっはっはっ! そうだろ! おっさん、見る目あるな!」
少年は鼻を高くし、自慢げに胸を張った。
誰かに認められたことなど、これまで一度もなかった。この街の大人たちは、魔法を珍しがりはしても、それを「凄い」と賞賛することなどなかったからだ。
「おっさんはこんなところで何してんだ?」
少年は跳ねるようにゴミ山を駆け下りた。足場の悪いガラクタの上を、野生の獣のような身軽さで飛び越えていく。アンラの目の前まで来ると、少年はぐいと顔を近づけて尋ねた。
「ちょっと探し物をしててな」
「ここにはゴミしかないぞ? 一緒に探してやろうか?」
少年の申し出に、アンラはハットの端を指でクイと持ち上げた。影に隠れていた瞳が、少年をまっすぐに見つめる。
「いや、いいんだ。探し物は見つかった」
「そうか。良かったな!」
少年は屈託なく笑った。自分の家であるゴミ捨て場で、誰かが探し物を見つけられたのなら、それは自分にとっても誇らしいことのように思えた。
「ところでボウズ。家はどこだ?」
アンラの問いに、少年は迷わず両腕を広げ、周囲のゴミの山を指し示した。
「オレの家はここだ!」
吹き抜ける風が、少年のボロ服をはためかせる。腐敗と汚濁に満ちたこの場所を、少年は微塵の疑いもなく「家」と呼んだ。その言葉の重みに、アンラは一瞬沈黙した。
「……そうか」
アンラは少年の瞳を見据え、言葉を継いだ。
「ボウズ、学校には興味あるか? 魔法や剣を教えてくれる学校だ」
「学校? オレにそんな金ないぞ」
少年は即座に首を振った。学校という場所が、王都の金持ちたちが通う贅沢品であることくらいは知っている。自分のような『箱』の住人には縁のない、別の世界の物語だ。
「金はいらない。しかも、飯もタダだぞ。どうだ、興味あるか?」
「そりゃスゲーな! おっさんが入れてくれんのか?」
「飯がタダ」という言葉の響きは、何よりも強烈だった。毎日、ゴミの中からマシな残飯を漁る日々。腹いっぱい食えるという誘惑は、少年にとって魔法以上の奇跡に思えた。
「ああ、そうだ。ボウズ、年はいくつだ?」
「十歳だ」
少年はパッと両手を開き、十本の指を見せた。指先は煤で汚れているが、その動きは力強い。
「そうか、十歳か。学校は十二歳から入れる」
アンラは懐から、一通の小さな紋章入りの手紙を取り出し、少年に手渡した。
「二年後。まだ学校に興味があったら、これを持って『アルトール騎士学校』というところに来な」
少年は受け取った手紙を、不思議そうに眺めた。上質な紙の感触。指先に伝わる適度な厚み。それは、これまで彼が触れてきたどのゴミよりも清潔で、重い価値を持っていた。
「わかった。その時、暇だったら行ってやるよ!」
少年は不敵に笑い、手紙をボロ服の懐に大事にしまい込んだ。
「ははは、楽しみにしてるよ。……ボウズ、名前はなんてんだ?」
アンラが立ち去り際、振り返って尋ねる。
少年はゴミの山の斜面を再び駆け上がり、夕日に照らされた頂の上で、精一杯声を張り上げた。
「トランだ!」
その声は、重く澱んだ『箱』の空気を切り裂き、高く、遠くへと響き渡った。二年後の未来へ、その名を刻みつけるかのように。
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