風船
林 止
風船
閉じ行くドア。死ぬ間際の瞼。狭くなっていく空。
そんなに迅く翔んでいくな。ひもを攫ませてくれなくてもいい。私の見えるところで、ぷかぷか、ずっと漂っていてくれ。
風船はどこへ行く。
その日は土曜で、天気が良かった。壊れた電子レンジを買い替えるために、近くの家電量販店まで息子と歩いて行った。息子は、ぴかぴかの家電や楽器、自転車を見ては、これは冷蔵庫だよ、あっちは掃除機だよ、と私に教えてくれた。分からないものがあると、毎回私に尋ねてきた。
「あれはなあに」
「あれは福引だよ。ガラガラを回して、色のついた玉が出たらあたり。いいものがもらえるんだよ」
「ぼくもやりたい」
「お買い物してからね」
景品を見ると、一等は電動自転車だった。息子と一緒にそわそわしながら、一番安い電子レンジを買い、すぐに福引の列に並んだ。息子は、前の人がガラガラを回す間、何が出るかじっと受け皿を見ていた。三等と四等が続けて出て、私は当たりが減ったような、一等が当たりやすくなったような気がして複雑だったが、息子は何が出ても
「あっ、みどりだよ」
「きいろだ!」
と嬉しそうだった。
ようやく私たちの番になり、息子は両手で一周、二周とガラガラを回した。白だった。私はがっかりしたが、息子はキラキラした目で、しろがあたった! と法被を着た店員に白玉を手渡した。店員は、残念だったねー、と言いながら息子にオレンジの風船をくれた。息子は、本当にいいの? というような顔をしながら受け取り、跳ねるように歩きながら帰った。
家に帰ってからも、息子は風船を弟のようにかわいがり、大いばりだった。新しい電子レンジで作った料理もそっちのけで、椅子に結んだ風船ばかり見ていた。息子はお風呂が大嫌いだったが、私が、お風呂のついでに風船を洗ってあげよう、と言うと、ぼくもやる! と言って、急いで服を脱ぎだしたので笑ってしまった。
その後も、お風呂場の天井にぷかぷか留まっている風船を見ながら湯舟に浸かったり、枕の下にひもをはさんで一緒に寝ようとしている息子は、いかにも子どもらしくて、どこか安心した。
次の日、お散歩に行くときも、息子は私の手と風船を大事に握りしめていた。
公園に着いて、
「おかあさん、ちょっともってて」
と息子が呼ぶ。どうやら、靴に何か入ったらしく、右足をすりすり動かしている。息子は靴に手を伸ばしながら、私に風船を差し出した。私が風船のひもを握ろうとする前に、息子は指の力を緩めてしまったのだろう、するりと抜ける感触が手のひらを撫でた。しっぽは、あわてて握ろうとした私の手によって向こう側に軽くはじかれ、
「あっ」
と言ったときには、広い空を昇っていた。息子は少しの間、目を見開いていたが、私が
「ごめんね」
と謝ると、柔らかい唇をきゅっと横に絞め、
「ぼく、もうつまんなかったからいいんだ」
と言った。私は、そのとき、たまらなくつらく、息子に申し訳なくなった。私には息子を幸せにできない、と思った。
その日、息子はずっとおとなしく、お風呂にも素直に入った。そして、寝る前、小声で、
「ふうせんはどこにいったのかな」
とつぶやいた。
「お空のずっと高いところにいったんだよ」
「じゃあ、おとうさんにもあえたかな」
「そうかもね、うん、そうだといいね」
と私が言うと、息子は満足そうにお布団に入り、目を閉じた。私は、息子に気遣わせてしまった罪悪感で湿ったまま同じ布団に入り、亡くなった夫のことを思い返した。
彼とは大学のカフェで知り合った。
いつも昼食を同じくしていた友達が風邪で休んで、その空席に彼が座った。
トレイに置いていた学生証を見て、同じ学科なんだね、と声をかけてくれたのが始まりだった。
そこから、彼は私にまめに連絡をくれた。デートにも誘われた。そして、恋人らしいことを一つずつしていった。
彼の下宿先に初めてあがったとき、メロンソーダにバニラアイスを浮かべたクリームソーダをふるまってくれた。それまで恋愛というものを遠ざけてきた私は、彼との付き合いに戸惑い緊張することばかりだったけど、クリームソーダを味わう私を、嬉しそうに見ている彼に気付いて、安心したことを覚えている。
彼の就職後、遠距離恋愛になっても彼は欠かさず電話をしてくれて、私の卒業と同時に結婚した。
夫はそれから、誰よりも働き、誰よりも業績を上げ、30代前半で課長に抜擢された。しかし、課長になってから、だんだん夫の表情が暗くなり、ため息をつく回数が増えた。たまの休みでもあまり出かけず、寝ているだけの日が多くなった。
夫を心配して、たまには休んだら、と言っても、俺はみんなを楽にさせたいんだ、だから頑張っているんだよ、といつも答えた。そんなのはいい。私たちとずっと一緒にいるって言ってたのに。どうして私たちを置いて冷たくて厳しい空に行って、大きくなろうとするの。生活が楽になるより近くにいた方が何倍も嬉しいのに。なんて、言えないまま夫は、息子が4歳のとき出勤中に心臓病で亡くなった。
その頃にはもう、夫は家ではあまり喋らなくなっていたが、私は、報せを聞いたとき、無数の柔らかい糸が断ち切れてしまったような断絶感を感じた。夫は最期に、細くなっていく視界に何を見たのだろう。何を思ったのだろう。死ぬなら、私と息子も連れて行ってほしかった。そんなことを考え続けながら、私はまた窮屈な日常を送るようになった。
月日が経ち、息子は、賢く育った。私の言うことを素直に聞き、宿題も、与えた教材もみんなすぐに終わらせた。
息子は16歳の誕生日に、遠方の大学に行きたい、と言い出した。夫にそっくりの芯のある声だった。私には反対することなんてできなかった。
息子はひたすらに勉強した。もっとサボって、浪人してくれてもいいのに。
私は、あと何日息子と一緒にいられるか数えるくらい、子離れができていなかった。入試が近づくにつれ、息子より私の心が落ち着かなくなっていた。
当然、息子は第一志望の大学に合格した。
私は、合格通知を見て本当に寂しかった。行かないでほしい。それか連れて行って。
出てくる言葉は「おめでとう」だった。
少し風通しの良くなった我が家から、今日、息子は旅立っていく。
「気をつけてね」
「うん、いってきます」
閉じゆくドアから漏れる光はどんどん細くなっていき、最後には暗闇が残った。
響いた声は消えていく。
ぬるい落涙を感じる。
だけど、不思議と寂しくはなかった。息子の声は耳にしっかりと残っている。
ああ、そうか。夫も亡くなる朝、私と「いってきます」「いってらっしゃい」を交わした。それはいつもの決まり決まった挨拶だったけど、欠かすことのない習慣だった。
夫に最後に声をかけたのは私だった。
そんなことに今さら気づいた。
風船 林 止 @TomaruHayashi
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