『ゆらゆら様』が出た
昼星石夢
第1話『ゆらゆら様』が出た
ベッドから出たくない。
サイドテーブルに置いたスマホのアラームがけたたましい。
うるさい、うるさい、
でも
掛布団にくるまったまま、動くことができない。
私はいくらでも替えがきく存在。上司から直接言われたことだ。なのに、休むことができない。休んだら迷惑がかかる、らしい。誰でもできる仕事だと、いつも言っているくせに。
きっと壊れるまで使い切るつもりなんだ。
昨日だって家に帰れたのは、日付が変わってからだった。明日までに、と言われて作成した資料も、残業代が出ないんじゃ、あの苦労全部、タダ働きだったってことだ。
かといって、貯金もないから、辞めたくても辞められない。
散らかり放題の室内を見渡す。
最初は
はああぁ、いつから私はこうなってしまったのだろう。
掛布団を被ったまま、重い体を引きずって、シンクに顔を突っ込み
外の空気を吸いたい。新鮮な空気を体に送り込んで、今までの価値のない私を作り変えたい。
玄関まできて、ああ、と自分の格好を思い出す。昨日は服を脱いで下着のままベッドに倒れたんだった。
……まあ、いいか。これを被っちゃえば。
安物の白い掛布団を、子供が幽霊の真似をするようにすっぽり被り、ゆらゆらと外へ
ゆらゆら、ゆらゆらと歩くうち、奇妙な背徳感と、足元から感じる冷たい風に、新しいものに生まれ変わるような精気を感じた。
ゆらゆら、ゆらゆら、思わず笑い声が
「わ! 何あれ?」
道行く人の声も遠い。
「おい、知ってるか? この辺にも出たって。ゆらゆら様!」
友人がスマホの画面をタッチして、こちらに見せる。
短い動画のテロップには、『天下無双のゆらゆら様出現!!』と書かれている。
自分でもSNSで検索してみる。『#ゆらゆら様』や『#ゆらゆらダンス』『#天下無双』といった言葉が、流行語になっていて、大量の似たような動画の中に、家の最寄り駅のロータリーで、ゆらゆら踊る布団姿が目撃された動画を見つけた。
その動画は千件を超えるリツイートで拡散されていた。
ゆらゆら様はブツブツ何か言っているが、内容までは聞き取れない。
「ゆらゆら様って、武士みたいな話し方で
友人は、前の席の机に座り、片足を机の上にのせ、こちらのスマホを覗き込んできた。
「お、それさらに近いじゃん!」
そう言って、にんまりと笑い、「なぁ」と刺激を求めるような眼で、
「探しに行こうぜ」
と耳打ちした。
学校が終わってから、友人とゆらゆら様が出現したコンビニや、駅前のロータリーに行ってみたが、収穫はなく、近くのショッピングモールでぶらぶらして、ゲームセンターで少し遊ぶという、二人で帰る時のおきまりのコースをたどっていた。
二人でマリオカートをしていると、友人が画面を見つめたまま言った。
「なぁ、お前ん
「フードコートでなんか食べれば?」
「金ねえんだよなあ。水筒空だし」
「いいけど、母さん一昨日からいないから、家にもあんまし食いもんないぞ」
画面上で友人の
「え、何かあったの?」
「さあ。前にもあったし、どうせ父さんと喧嘩でもしたんじゃね?」
「ふうん。あ! やられたーー」
友人のキャラクターが乗る車を最後に追い越して、ゲームに勝つ。
面白くなさそうな顔の友人に、「来る?」と尋ねると、ブスッとしつつ頷いた。
二人でショッピングモールを出ると、駐輪場のある裏道に回る。
「駅のほうじゃなかった? お前の家」
「こっちから行ったほうが早いんだよ」
友人を連れて、民家の裏や小さい公園を
街灯が数回点滅して灯り、車のエンジン音や子供達の遊ぶ声も遠く、ひっそりとしていた。
――と、小さな寺の向かいの角から、何かがゆらりとはためいた。
背中に友人の鼻が押しつけられた。
「イって。急に止まるなよ」
じっと、ゆらめく何かを見つめる。それは、徐々に姿を現した。
外国映画やイベント会場でたまに見かける、あの
「おい! ゆらゆら様じゃねえか! やっば! こわっ、キモ。どうする? と、とりあえず動画に撮るか」
友人はゆらゆらしたそれにスマホを向けた。それはSNSで見た通り、薄い掛布団を被って踊っていた。実際にみると、中に人間がいるのがわかる。幽霊や妖怪の
「なあ、なんか喋ってるぞ。武士みたいな話し方っていう、あれか?」
ゆらゆら様との距離は、もう五メートルほどだ。
『人の
「なんて? え、聞こえた? どういう意味?」
友人が聞くやいなや、ゆらゆら様が、突然こちらにむかって、猛然と駆けてきた。
「おいおいおい、やば! 逃げろ!」
友人と来た道を戻り、
「ゆらゆら様って
友人は言いながら振り返る。まだ追いかけてくる。ゆらゆらくねり踊りながら。
向かいからやってきたバイクと、正面衝突しそうになって、すんでのところで脇道に
「やべえ、110番する」
友人が走りながらスマホを操作している。
息を切らせ、全速力で走ったからか、ゆらゆら様の姿がいつの間にか消えていた。
――
そう思い、足を止めて呼吸を整えようとした、その時、「前!」と友人の叫ぶ声がした。
振り向くと、先回りしたゆらゆら様が、前方の角から出てきて、突進してきた。
押し倒され、背中と後頭部を強く打つ。
ゆらゆら様が馬乗りになっていて動けない。
布団越しに、まさに
「布団を
尻餠をついた友人が叫ぶ。
力を振り絞って、ゆらゆら様の象徴である、白い布団を引っ張り剥いだ。
――現れた顔を見て、辛うじてしていた息が止まる。
毎日、毎日、他人の精神の不調を聴いていると、仕事とはいえ、こちらまで頭がおかしくなってきそうだ。
特にここのところ、寝つきも悪ければ、目覚めも悪い。
クリニックでも患者が自己
――働きすぎかな……。
深い溜息をつきながら、階段を下り、ダイニングテーブルに置かれた簡素な封筒を目にして初めて、普段より静かなことに気づいた。
封筒の中を覗くと、妻からの手紙と折りたたまれた紙が入っていた。
『あなたへ
結婚してから今日まで、あなたは仕事に全てを
私達の間に夫婦の会話はなく、家族の形すら
もう、限界です。
それから、最後に一つだけ。
いつになったら気づくのかと思っていましたが、もう答えを出す頃でしょう。
――息子は、あなたの子ではありません』
最後の一文を、ぼうっと見つめ続ける。
床に落ちた折りたたまれた紙の隙間から、『離婚』の文字が見えていた。
布団を剥ぎ取り、顔が
「父さん……」
父は何も言わず、魂が抜けたようだった。
友人が気まずそうに下を向いている。
「大丈夫ですか?」
駆けつけた警官が、ぐしゃっと丸まった布団を不思議そうに見て言った。
父は何も言わずに微笑んだ。その顔にゾッとする。
何が起きているのだろう。父がゆらゆら様になっていたなんて……。
友人は警官とのやり取りで、ちらちらこちらに視線を送っている。
「友達のお父さんで……。怪我は……」
眼で問いかけられ、
「そう。一応、お父さんと話していいか?」
警官に聞かれ、頷く。父は、さっきまでのあの奇行を感じさせない、堂々とした態度で冷静に応じていた。まるで、地面に投げ捨てられた布団は、どこかの家の物干しから飛んできたものだと言わんばかりに。
「さっき撮った動画は、消しておくから……」
友人はぼそりと言って、帰っていった。
警官が家庭内の問題と
父の見てはいけない一面と、心の闇に触れて、言葉が出なかった。
汚れた布団を脇に抱えたこの人は、本当に自分の父親なのだろうか……。
父の手に視線を落とすと、首が圧迫されたように感じ、息苦しくなった。
「母さんには言うな」
前を歩く父が、ぼそっと言った。
夜の闇より濃い闇が二人を包んでいた。
『皆さんは、ゆらゆら様をご存知ですか?
最近、
きっかけはこの短い動画。
「わ! 何あれ?」
この白い布団を被って、ゆらゆらダンスをする姿から、ゆらゆら様、と名付けられ、いつしか武士のような話し方で「天下無双のゆらゆら様!」と決め
当初は、幽霊、妖怪、人体実験の被験者など様々な憶測が飛び交っていましたが、現在では専門家による調査が行われ、集団ヒステリーの類ではないかと言われています。
ゆらゆら様になる人に共通していることは、何らかのストレスによって、自分を壊したいと思っているということ。
最初のゆらゆら様がネットを通じて模倣され、全国に広がったと見られています。
今もどこかで、天下無双のゆらゆら様が……。
この動画を見て、もう布団から出たくない! と思った人は、高評価とチャンネル登録、お願いします!』
『ゆらゆら様』が出た 昼星石夢 @novelist00
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