第11話 不思議な不安

幼稚園には当番制があった。壁にフダの束が二つぶら下げられていて、それぞれには園児全員の名前が書かれていた。

毎日そのフダをめくって、一番上のフダに名前がある園児がその日の当番だった。


昼食を食べる前に、2人の当番が、幼稚園児にとってはやや大きめの、お茶がいっぱい入ったヤカンを使い、皆の小さな茶碗にお茶を注いでまわるというものだ。

別になんということもなかった。順番が回ってきたら自分もそれをするのだろうと、健一もずっとそう思っていた。

ところが、もうすぐ夏休み、という時、健一が初めてやる当番の日に、健一は幼稚園を休んでしまった。


その日の朝、いつも通りさと子と、さと子のママが健一の家に迎えに来たらしい。だが、健一はその気配を感じながらも、まだ布団から出ようとしなかった。


母が、さと子と、さと子のママに、先に幼稚園に行ってくれるよう頼んでいる声が、健一にもわずかに聞こえた。


昼過ぎになって健一も布団から出て、玄関の近くの部屋でぼんやりしていた。


そして、幼稚園が終わった頃、幼稚園の先生がわざわざ健一の家に来てくれた気配を健一も感じた。

母は玄関で幼稚園の先生を見た時、恐縮して何度も何度も先生に頭を下げていたのを、健一は戸のすきまから見つめた。

さと子と、さと子のママも先生と一緒に来てくれて、3人とも健一達の家に入ってきた。


先生は健一に対して、どうして今日は幼稚園を休んでしまったのか、何度も理由を尋ねた。


健一の母は


「何度聞いても理由を教えてくれないんですよ」


と先生に訴えた。


さと子と、さと子のママも心配そうに、先生と母のやりとりを聞いていた。


健一は先生に


「今日、幼稚園を休んだのは、当番のお茶くみができるか不安だったから」


と言ってしまった。


無意識のうちに、自分も先生も納得するような答えを提供してしまった。


先生は笑い出し


「なぁんだ。じゃあ、お茶くみの練習をしましょう」


と提案した。


母と先生はヤカンにお茶を入れ、小さな湯呑み茶碗を用意し、健一はお茶くみの練習をさせられた。


その時、健一は思った。


(バカバカしい! )。


お茶くみだなんて健一に出来ないハズはないのだ。


事実、健一は家での練習でも最初からお茶くみは出来たし、休んだ日の翌日には幼稚園に行き、ちゃんと当番になり、なんということもなくお茶くみをこなすことが出来た。


では何故、健一は決められた当番の日に幼稚園を休んだのだろう?


不安とはまた違った気持ちだった。心配ともちょっと違う。どういう気持ちだったのか表現する言葉が見つからない。


この気持ちなのだ。健一が18歳になってからも、この気持ちを精神科の医師は治すことができなかった。

何種類もの抗不安薬を投与されても治らなかった、この気持ちは何だろう。


健一が幼稚園を休んだ日、健一が家でやったお茶くみの練習を終えた時


先生は


「もう大丈夫だよね」


と健一に尋ねた。


健一は小さくうなずいた。


結局、健一はお茶くみが不安で幼稚園を休んでしまったのだと、母や先生に決めつけられた。健一はそれがすごく悔しかった。不安だなんていう当たり前の感情じゃなかった。不安だったと言わなければ良かった。


先生とさと子のママが帰ろうとして、母も見送るために3人で玄関へ行った時、まだ台所にいた健一のところにさと子が来て


「明日は幼稚園で遊ぼうね。約束」


と言って右手の小指を差し出した。健一も右手の小指を差し出して、健一とさと子は指切りをした。

健一はちょっとだけホッとした。


さと子は


「指切りげんまん、ウソついても、良~いよ」


と右手を上下に振った。


さと子のママがさと子を呼ぶ声が台所まで聞こえてきた。さと子は玄関の方へ走って行った。


もしこの時……、いや、健一が18歳になってから思い出してみると、この原因不明な不安みたいな感情は、健一がもともと持っていたモノだと思う。

そして、さと子といつまでも一緒にいたら、健一が18歳になった時に、健一は精神病にならなかったのではないか。

健一は精神病になるために生まれてきたのだと、18歳になってから健一はそう思うようになる。

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