子供の恋と精神病
正縁信治
第1話 健一……18歳の夏
健一は茶色くて細長い掃除機を右手に持ち、2階への階段を登って、自室のドアを左手でゆっくりと開いた。
南向きの自室に溜まっていた熱気がモワーッと健一を包み込み、かつ、巨大な舌のように、健一の身体を舐めた。
気持ち悪くてたまらないので、健一は掃除機を部屋の入り口に置き、自室の中にあたふたと飛び込んで、少しでも温度を下げようと、東向きと南向きにある健一の背丈ほどの窓を、両方ともいっぱいに開いた。
その時、窓を覆っていたレースのカーテンが外からの風を受けて、フワっと、自分の心があるかのように膨らんだ。
これで東から南に若干風が通り抜けて、少しだけ猛暑が和らいだ。
こんなに危険な暑い日常がこの北国までやってくるなんて、未萌を知る聖人にしか予測はできなかったのではないかと、健一は思った。
2階にある自室の掃除、健一は、やらなくては、やらなくては、と思いつつ、おそらく数ヶ月ものあいだ、ずっとやってこなかった。
掃除ができない、あるいは掃除をする気にならないというのは、ここ半年、健一を苦しめている精神病の症状なのだろうか。それとも、単なる怠けなのか、そのことが健一自身、判断できなくなることが時々ある。でも、やっぱり、医師の話を聞いてみると、精神病の症状だと健一は思う。それに、数ヶ月も掃除をしないなんて、いくらなんでも普通の怠け者が、そんな状態になるはずがない。
やはり、他人とはちょっと違う、普通ではない人ということで、健一は自分が病気なのだとしみじみ実感して、なんとも言えない気持ちになる。
今日、7月20日は、健一の18歳の誕生日で、良い節目だから、健一は自分の部屋の掃除を始めた。
健一が自室の掃除をするということは、自分でも気が触れたのかと思うくらい珍しいことで、一体どうしたのかと、我ながら不思議だった。
もしかしたら、今まで経験したことの無い、健一にとって何か特別なことが起こるのではないかと、ワクワクした気分が起こった。
部屋が汚なくなっても健一が我慢していたのは、健一がズボラだということではない。病気になる前は定期的に掃除をしていた……。
だが、ところどころにホコリが積もっていて、これだけ部屋が汚いと、掃除せざるを得なかった。そして、床に掃除機をかけると、健一の人並みな体がじっとり汗に濡れた。
汗に濡れたTシャツがとても気持ち悪いので、健一はそれを急いで脱ぎ捨て、ついでに壁にかかっている鏡で、裸の上半身を一応確認した。
首も肩も前腕も後腕も胸も腹も、それほど筋肉はついていないが、脂肪もあまり無い。いわゆる、中肉中背というやつだ。
(まあ、このくらいの身体でちょうど良いのかな)。
と瞬間的に思い、健一は自分の身体にあまり興味がないので、いつものように鏡から目を素早くそらした。健一は少し落ち着きを取り戻したので、脱ぎ捨てた湿っぽいTシャツを床から拾って、さしあたって机の上に置いた。
健一は自分の身体はあまり自慢できるものではないと思う。あと、その奥底にある「心」が綺麗なのか汚いのかは、当然のことながら、確かめる方法を知らなかった。
床の掃除機がけをなんとか終えると、健一は疲れ果てた。疲れやすい、というのも精神病の症状だ。しかし、もっと部屋全体を綺麗にしたくなったのは、いわゆる掃除の魔力だろう。
そこで今度は、部屋の端に置かれていて本がびっしり並べられている本棚に、健一は掃除機の子ノズルをかけ始めた。
その時、五つの棚がある本棚の最上段にあった、古びて重そうなアルバムが健一の目に差し入るように飛び込んできた。
そのアルバムには健一がまだ赤ちゃんだった頃から、幼稚園を卒園するまでのことが写真で記録されていた。
健一がこのアルバムを見つけたのは本当にしばらくぶりで、もしかしたら、以前掃除した時よりも何年も前に、このアルバムを開いて以来かもしれない。
健一は懐かしさのあまり、掃除機のスイッチを切って、それを床に無造作に放り出し、そのアルバムを本棚から取り出した。
そして、健一は部屋の真ん中であぐらをかき、そのアルバムにかかっているホコリも気にせず、右手でアルバムの表紙をゆっくりと、めくった。
1ページ目に、色が薄くなってしまった1枚の写真があった。それには、生まれたばかりであろう2人の赤ちゃんが写っていた。
その2人の赤ちゃんは、同じ敷き布団の上で並んで寝ころんでいる。興味深いのは、それぞれの右手と左手がつながれていたことだ。
もうずいぶん昔、健一が小学生の頃に母が教えてくれた話では、左側であお向けになっている赤ちゃんが健一だそうだ。
赤ちゃんの健一は、ぼんやりと、無表情で虚空を眺めていた。
右側にいる赤ちゃんが、さと子だそうだ。横向きになって健一の方を見て、どういうわけか微笑んでいた。
もう、18年も前、健一達が生まれた頃に撮った写真だそうだ。
次に健一がアルバムの2ページ目を開くと、そこには、やはり色の薄くなった、3枚の写真が収められていた。
どれも健一が2~3歳の頃の写真だと、健一は母から聞いたことがある。健一は自分の意外な姿を面白いと感じながら、その写真を眺めた。
その3枚の写真には、ランニングシャツと半ズボンを着て、3輪車に乗っている男の子が写されていた。そのうち2枚は仏頂面の男の子が1人で写されていた。
残りの1枚には、男の子の右隣に、半袖のブラウスと、ショートパンツを着た女の子が、微笑みながら立っていて、そして、男の子も笑顔だった。
この2人の子供達は健一とさと子だろう。
(俺って、小さな頃は、こんなに可愛かったのか)。
と健一は改めて驚いた。今は全然ダメなのに。
さと子が愛らしいのは今の健一も覚えている。
健一はアルバムのページを次々と開き始めた。
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