雛は再び立ち上がる

杉野みくや

雛は再び立ち上がる

「君たちが、今日から入ってきた新入生だね?」

「「はいっ」」


 女性にしては張りのある低い声に対して、こちらも威勢よく言葉を返した。

 誰をも寄せ付けぬ実力とカリスマ性を兼ね備えた天下無双のミュージカル女優・加賀直子が、今まさに目の前にいる。厳しいオーディションを乗り越えてようやく掴み取った特別レッスン。この様子はドキュメンタリーとして記録されていて、随時配信されていくそうだ。


 かくいう私も、元々はそのドキュメンタリー番組にはまったファンの一人だった。画面の向こうで、挫折しながらも必死に食らいついて成長していく同年代の子たちがとてもかっこよく映り、いつしか「私もこうなりたい」とあこがれるようになっていった。


「君たちはオーディションを突破した、極めて優秀な子だ。しかし、それで満足するような人を私は求めていない。ここからがようやくスタートラインだという意識を持って、全力で立ち向かってほしい。分かった?」

「「はいっ」」

「よし。そしたらさっそく練習に入りましょう。体操をした後は体幹と筋力トレーニング、それから発声とダンスの基本動作を徹底していくので、しっかりついてくるように」

「「はいっ」」


 そこからは怒濤のレッスン地獄が始まった。

 体幹では少しでも身体がぶれるとすぐに「もっとお腹に力を入れて!」と怒号が飛び、筋力トレーニングではアスリート並みのメニューを何セットもこなす。既にヘロヘロになりかけた後の発声練習は喉が枯れそうになるほどしんどく、ダンスの基本動作では指先から膝の角度まで細かく指導されていった。

 昼休憩を挟んだのち、午後は山奥でのランニングにリズム練習、それから歌唱トレーニングと初日だけでもかなり濃い時間を過ごした。


(これが、加賀先生の、レッスン……)


 心も体もズタボロになりながらなんとかレッスンをこなし、夜のミーティングを迎えた。


「みんな、今日はよく頑張った。けど、まだまだ甘すぎる。トップに上り詰めたいなら、弱ったらしい自分を捨て去りなさい」

「「はい」」


 朝よりもずいぶん疲弊した声で今日のレッスンは幕を閉じた。

 しかし、ここで気を抜いてはいけない。他の子たちはみな、それぞれのやり方で自主研鑽を重ねているからだ。お互い、表面上は明るく取り繕うが、内心ではバチバチである。

 なので私も夕飯やお風呂を済ませた後は部屋にこもり、持参してきたタブレットで勉強を始めた。今日は"Un uccello scende " ―― 邦題で『トリの降臨』と題されたミュージカル曲を歌う加賀先生の演技を見て、その卓越した技術を徹底的に研究していった。


 ミュージカルに最も愛された女性。神の祝福を授かりし天才女優。ミュージカル界を天下に治める大女帝。

 どれも加賀先生につけられた二つ名だ。向かうところ敵なしと言える先生の歌声は胸を震わせ、物語の世界へとあっという間に引き込んでくる。そして、場面や曲調の雰囲気を彩る、大胆かつ繊細な振り付けは思わず見とれてしまうほど美しい。


「私だって、いつか」


 画面の中で舞い踊る加賀先生をじっくり観察しながら、私は拳をギュッと握った。


 レッスンが始まってから早や2週間。最初は25人いたレッスン生も、実技テストによる脱落者やきつい練習に耐えかねてギブアップした人が続出して、いまや9人にまで減ってしまった。

 今日からは妖精の世界が舞台のミュージカル曲を練習していく。人間の男の子と妖精がケンカ別れしてからしばらく経ち、後悔しながらも謝る勇気をなかなか出せないでいる妖精の心情を表現する、重要な場面だ。しっとりした曲調に合わせて歌い踊るには、無駄な動きは一切許されない。


「はいストップ!ヒナ、体ぶれすぎ。それに声も全然ここまで届いてこない。やり直し」

「す、すみませ――」

「御託を言う暇があったらすぐ準備に入る!」

「は、はいっ」


 頭を切り替えてスタート位置に立つ。曲が流れ始めたら、足をゆっくり前に出しながら歌い始め、そして途中でストップがかかる。

 この繰り返しが何度も何度も続いていく。


 その中で最近、怒られる回数が目に見えて増えてきているのを私は密かに実感していた。それもそのはず、他の参加者の圧倒的な成長速度に私は全く追いつけていなかった。

 レッスンが始まった当初は私よりも動きに粗があった子も多かったのに、いつの間にかずいぶんと差がついてしまっていた。ときおり慰めに来てくれる優しい子もいるけど、今の私にはどんな言葉も刃物と変貌し、体中をブスブス突き刺してくる。


 この前の実技テストも下から数えた方が早かった。

 このままでは、本当にまずい。

 そう思いながら、3回目の実技テストに向けて懸命にレッスンに食らいついていった。


 そして、テスト当日。

 緊張の面持ちで加賀先生の前に立ち、課題曲を歌い踊る。今まで必死に頑張ってきた練習の模様がフラッシュバックし、泣きそうになるのを必死に我慢しながら、全神経を世界トップのミュージカル女優に披露した。

 しかし、テストが始まる前も、終わった後も、加賀先生は眉ひとつ表情を変えなかった。


 テストが終わってからしばらく経ち、顔色の優れない私たちは練習室へと集められた。加賀先生から直々に合格者が発表され、明日からのレッスンへの招待状が手渡される。番組でも数々の名場面が生まれてきたシーンだ。

 でも今の私には、それらを振り返る余裕なんて微塵も残っていなかった。成績順に名前が呼ばれていき、机の上に並べられた招待状の数がどんどん減っていく。人数分は用意されているが、全員の手に渡るとは思いにくい。

 大丈夫。あれだけ頑張ったんだから。今回もきっと、通るはず……。


「――以上が、今回の合格者です」


 その言葉を聞いた瞬間、私はおそるおそる自分の手元を見た。そこに残されていたのは黒色の封筒ではなく、ただの虚無だった。


「うそ……」

「嘘でもフィクションでもない。残念だけど、これが現実です」

「っ……」


 加賀先生の言葉が、頭の中でに何度も反響する。

 必死に頑張ったのに。誰よりも努力したのに。現実というのは、どうしてこんなにも残酷なのか。


 数台のカメラが私の方に向いている。今の私は、きっとひどい顔をしているに違いない。

 でも、そんなことはどうでもいい。

 ドキュメンタリー番組を見始め、加賀先生に出会い、ミュージカルの世界に心を打たれ、血反吐を吐くような練習を重ねてつかみ取った日々。

 それら全てを天から否定されたかのように感じた。


 顔を上げると、加賀先生と目が合った。その目に同情や哀れみといった感情はなく、非情な現実を私の心に突きつけている。

 そこで初めて、私は理解した。


 私はまだ、ここにいるべき人間じゃなかったんだ。


---------------


「はっ!?」


 胸がきゅっと締められる感覚で目が覚めた。目覚まし時計は7時半を示している。カーテンの隙間からは朝日が漏れ出していた。

 体を起こすと、冷や汗でシーツがぐっしょり濡れているのが分かった。


 「ふう」


 あの夢を見たのは、これで9回目だった。

 ここ最近、まともに寝られた試しがない。一昨日に布団を変えてはみたものの、悪夢という演目はどうやら舞台を選ばないらしい。もう一度横になろうか考えたが、あまり気が進まず、結局そのまま起きることにした。


 冷たくなったシーツを取り外し、畳の部屋からリビングに向かうと壁掛けカレンダーが目に入った。

 今日の日付である3月3日に赤丸がでかでかとつけられている。

 世間はひなまつりだけど、私にとっては人生をかけた再挑戦が始まる日なのだ。


 規模としては比較的小さな劇場だけど、そこで私は初めての公演に出ることになっている。しかも主人公のライバルというなかなかに美味しい役だ。

 主人公よりも頭ひとつ抜きん出た実力を持ちながら、主人公がメキメキと力をつけていくスピードについていけず、最終的には敗れてしまう。かつての私を彷彿とさせるようなこの役を勝ち取ったとき、私は運命のイタズラというものを全身で感じた。


 あの天才女優を追い越し、誰もが羨むミュージカル界のお雛様として君臨する。その第一歩が、今日から再び始まるのだ。

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雛は再び立ち上がる 杉野みくや @yakumi_maru

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