第3話 妖精の休日(楓の場合)
「あ、ごめん、なさい」
道を歩いていた時に、知らない男の人と肩がぶつかった。ぶつかった男はチッと舌打ちをする。あたしはブルブルと震え上がった。まだ知らない男性には恐怖感が大きく勝る。あたしは小さく肩を竦めて、自分なんてここにはいませんよー、とまるで小さな妖精にでもなった気持ちで、足早にその場所を通り過ぎた。けれどもしかすると、もう少し前だったら、今みたいに男の人とぶつかれば、その場で泣き出していたかもわからない。そうはならなかったのは一重に、伊吹くんのおかげだった。
「伊吹くーん、来たよー!」
あたしは勝手知ったる男友達の家にすっと上がる。伊吹くんは「いらっしゃい」と歓迎の声を一言だけ言うと、部屋の奥から麦茶の入ったボトルと二人分のコップを持ってきた。市販のペットボトルではなく、ちゃんと茶葉を使ってお水に浸透させるタイプのあれだ。とても偉い。あたしも大学に入ってから自炊を始めようと試みたけれど、ものの一週間であきらめてしまった。料理、面倒くさい。
「あ、西尾維新の新刊だ」
「こないだ買った」
「さっすがー。伊吹くん、何好き?」
「……刀語?」
「マジか。あたしもだわ」
あたしは伊吹くんの本棚から、本を一冊抜き出す。一応、さっき話題にしたみたいな新刊は遠慮して避けるようにしている。あたしがここで読むのはもっぱら、かつてハマった児童文学や古典小説だ。伊吹くんは、あたしが本を読み始めると、自分も本棚から一冊抜き出して読書を始める。あたしはこの静かな時間が、とても好きだった。伊吹くんの部屋には、本棚が所せましと並んでいて、さながら小さな図書館のようだ。伊吹くんはウチの大学には珍しく、大学のサークルなんかには参加していない一匹狼で、去年友達の誘いでうっかりミスコンに参加してそこそこ有名になってしまったあたしのことも知らなかった。そんな距離感があたしは正直とても心地よく、放課後に遊びに行こうという友達の誘いも断って、あたしは伊吹くんの家で本を読むのが、あたしにとっては欠かせない日課の一つになっていたのだった。
――そしてあたしの伊吹くんの日課は、もう一つある。
「うん、今日も満足」
あたしは読み終えた本をパタンと閉じて本棚の元あった場所に戻すと、部屋の奥にある伊吹くんのベッドに横になった。もう一人分寝られるスペースを確保できるよう、できるだけ壁に壁に体を寄せる。すると、伊吹くんがあたしの横に入ってくる。伊吹くんは最初、あたしに向き合った形でベッドに入ったけど、すぐに困ったように溜息をついて、あたしから背を向けた。あたしはちょっと申し訳ないな、と失笑する。伊吹くんだって男だ。同い年の女の子と同衾して、何も感じないということはないんじゃないかと思う。それでもあたしはそのことには特に何も触れずに、こうして伊吹くんとのひとときを楽しむ。
「じゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
あたしは伊吹くんの背中から、腕を回した。伊吹くんのどくんどくんという心臓の鼓動が、直接伝わってくる。あたしが息吹くんに甘えているのは、自分でもわかっている。彼の優しさと、彼の好意を利用している悪い女だという自覚もある。でも、できることならこれからもずっと、ずっとこの関係を続けられるのなら。あたしはそう願ってやまない。伊吹くんの心臓の鼓動は、だんだんと静かになっていく。そのリズムがあたしには心地良くて、独りで眠るよりも何倍もよく眠れるのだった。
🛏️
「楓さん、待った?」
あたしが駅で人通りの多さにビクビクしていると、森田くんが気さくに手を振りながら現れた。東京はあたしにとっては、凶暴な獣がうようよと蠢くジャングルのようなもの。そんな場所でも、何とか正気を保っていられたのは森田くんが迎えに来てくれるのがわかっていたからだった。
「うん、大丈夫」
「じゃあ、行こうか」
森田くんはそう言って、あたしの隣にピタリと張り付くようにする。あたしの歩く速度が遅いのを森田くんはよくわかっているので、わざわざ気を遣ってあたしの歩幅に合わせて、あたしがもたついて人とぶつからないようにのしてくれる。
森田李人くんと出会ったのはもう三年も前になる。ネットの読書会コミュニティで知り合って、今も特によくやり取りをするうちの一人。オフ会で何度か顔も合わせたことのある仲だ。当時、あたしも森田くんも高校生で、あたしもまだ今みたいに男の人が怖いと思うようになる前からの付き合いだからなのか、森田くんもあたしにとっては数少ない、気兼ねなく話をすることのできる男性の一人だ。今日はあたしの好きなラノベのアニメ化記念イベントで、何とかイベントに参加だけはできないかを悩んでいたところ、森田くんから直接DMをもらって、こうして付き添ってもらいながら、大都会に赴いたというわけだ。
「付き添いかもしれないけど、僕だって好きだからね、あの小説」
「良かったです。界隈では有名でも、世間では結構マイナーなラノベがピックアップされたので、他に一緒に行ってくれそうな人も──いなくて──」
あたしの脳内に、伊吹くんの顔が浮かんだ。彼ならもしかして、頼めばついてきてくれたかもしれないな。でも、とあたしは唇を噛み締める。もしもあたしが図々しくも付き添いを頼んで、嫌な顔をされたら? そうすれば、あの時間は二度となくなってしまう。それは少しだけ、嫌だった。伊吹くんには甘えすぎるほどに甘えている。これ以上、彼に甘えるべきじゃない、と思う。
「どうしたの?」
あたしが急に黙りこくってしまったせいで、森田くんが心配そうにあたしの顔を見た。いけない。伊吹くんも大事だが、こっちの森田くんもそれなりに長い付き合いだ。甘えすぎてはいけない。
「いえ、ちょっと友達のことを思い出してて」
「友達?」
「はい。大学に入ってすぐにできた友達なんですけど、その人ならもしかして、誘ったら来てくれたかもなー、と」
「女の子?」
あたしはフルフルと首を横に振った。
「男の子。すごい優しい人で、その人の家にもよく遊びに行くのですが、ちょっと甘えすぎてる節も、あって」
「へえ。楓さん、かなり前みたいに戻ってきたもんね。それもその友達のおかげだ」
「そうなんです!」
あたしは思わず、笑みをこぼした。伊吹くんがいなければ、森田くんからのDMも速攻で削除して、森田くんのアカウントをブロックし、長年の友人を一人失うところだったろう。
「その人とは本の趣味も合って、仲良くさせてもらっています」
「じゃあ僕とも気が合うかも。今度、紹介してよ」
「はい。是非、機会があれば」
あたしは森田くんと伊吹くんが一緒にいるところを想像する。気さくな森田くんに対して、結構人見知りなところがある伊吹くんは最初警戒するだろうけど、それでもやっぱりあたしとそうであったように、段々と心を通わせてくれそうな気がする。それを想像すると、ほっぺたなニマニマと緩んだ。
✒️
イベントが終わる頃には、すっかり夜になっていた。森田くんもあたしの隣で、あたし以上にイベントに熱狂してイベントグッズも沢山買っていたし、これはついてきてもらった甲斐があったな、とあたしは勝手に後方腕組み面をしてほくそ笑んだ。
「楓さん、一人で帰れる?」
イベントの感想を話しながら、駅まで歩いていき、改札口の前で森田くんがあたしに尋ねた。
「行きも大丈夫だったので、平気です。それにいざとなれば──」
ふ、とあたしの頭の中にまた、伊吹くんの顔が浮かぶ。あたしはブルブルと頭を振る。あたしは彼と今以上の関係になることを、意図して避けてきた。伊吹くんに甘えすぎないようにしたい理由は、彼に迷惑だと思うからだけじゃない。もしかしたら、伊吹くんの怖い一面を見てしまうかもしれない。人と親しくなるというのは、そういうことだ。それまで被っていた仮面の下を覗くと、今まで見たこともなかったその人の嫌なところが顔を出す。あたしは伊吹くんのそんなところを見るのは嫌だった。想像することすらしたくない。
「ううん、何でもない。とにかく大丈夫ですから、あたしはここで」
「ホントに? 何かあったら、連絡しなよ?」
「はい。森田くん、今日はありがとうございました」
あたしは森田くんに別れの挨拶を告げて、電車に乗り、今日あったイベントの写真をSNSに上げようとして、やめた。今SNSで繋がっている友人は、大学で知り合った子らが多い。そんな子らに、誰と行ったのかとか、余計な詮索をされたくなかった。
「やっぱり、伊吹くんと行けば良かったかな……」
そんな風に一人、ポツリとつぶやく。大学の友達は皆優しいが、それでも表面上の仲だ。特に、ミスコンに出場してからはそういう友人が数えきれないほどに増えた。男の子であたしに近づいてきそうな人のことは、あたしが元カレと別れて以来、男性を苦手なことを知っている友人たちがブロックしてくれているが、それでも近づいてくる人は後を立たない。
「今日も行くか……」
いつもより少しだけ遅い時間だったけれど、あたしは伊吹くんの家にお邪魔しようと決めた。自分を取り巻く人間関係のことを考えていると、不安が強くなってきたからだ。今家に帰っても、深夜まで悶々と眠れずにダラダラ起きて、明日の講義に支障をきたすのが目に見えている。あたしは伊吹くんに『今から行くよ』と連絡を入れて、行き先を自分ちではなく伊吹くんちに変更した。
📚
遅い時間にも関わらず、伊吹くんはあたしを快く迎え入れてくれた。彼の家のシャワーを借りるのも最初は遠慮していたが、伊吹くんも嫌がる素振りはしないので、今では気兼ねなく使わせてもらっている。あたしは伊吹くんちの風呂場で汗を洗い流して髪を乾かし、いつものように彼の布団の中に入る。伊吹くんの方も慣れたもので、何も言うことなく、少しだけ小さく溜息をついてから、あたしの横にずしんと入り込んでくれる。あたしは伊吹くんを背中からぎゅっと抱きしめた。それから彼を抱き枕にするみたいに脚を絡めて体を密着させる。伊吹くんはこれだけやっても文句一つ漏らさないし、あたしに何かしてくることもない。あたしが伊吹くんを抱き枕にしてるんだから、伊吹くんもあたしを同じようにしたってあたしは文句を言うつもりはないのだが、彼は決してそんなことはしない。
──その日はいつもより強めに、伊吹くんを抱きしめた。将来や過去の不安をかき消すために。伊吹くんはそれでも変わらず、ただじっと静かにあたしとの添い寝を受け入れてくれていた。
📕
アニメ化記念イベントがあってしばらくして、森田くんからのDMが届いていた。どうも、森田くんの好きなストリーマー主催のイベントがあるから、この間あたしに付き合った代わりに一緒に来てほしいとの誘いだった。森田くんも楽しんでいたとは言え、一方的にあたしが誘った形なのは違いない。その借りは、返す必要がある。あたしは森田くんに『OK』の返事を返した。そのイベント主催者も、あたしも知らない人ではなかったし、きっとそれなりに楽しめるだろうと思う。立式パーティ形式らしいのが少し不安だが、そこは森田くんが付かず離れずいてくれるから、と保証してくれた。
そして来るイベント当日、森田くんはあたしんちの最寄り駅前まで迎えに来てくれて、一緒にイベント会場まで赴いた。基本的にはイベントを主催するストリーマーの公開収録が主なイベントで、その後がファンを交えたパーティという流れらしい。客は男女半々といったところ。森田くんはここでも知り合いが多いみたいで、あたしの隣から離れることはなかったが、それでも森田くんが他の誰かと話している間は手持ち無沙汰になるのであり、緊張と一人の時間を誤魔化すために、グビグビと会場で用意されたカクテルを飲み続けた。もしかしたら、それが良くなかったのかもしれない。
「あの、森田くんすみません……」
「ん?」
あたしは他のイベント参加者と談笑していた森田くんの裾を引っ張り、話しかけた。
「ちょっと気持ち悪くて……」
「……わかった」
森田くんは力強く頷くと、さっきまで話していたイベント参加者に手を振って、あたしの腕をギュッと掴むと、会場の外に連れ出してくれた。森田くんはあたしを外にあった椅子に座らせると、近くの自販機で買って来たらしい天然水のペットボトルをあたしに差し出した。
「すみません。せっかくのイベントなのに」
「それより体調の方が大事でしょ。ほら、ちゃんと水飲んで」
「ありがとうございます」
あたしは森田くんから受け取った天然水をゆっくりと口にする。しばらくじっとしていると、気持ち悪さは段々マシになってきて、一人で立ち上がれるくらいには回復してきた。
「どうする? もう帰った方が良さそうだよね」
「でも森田くんに悪いですし」
「そんなことないから。ほら、タクシー呼ぶから家まで」
「そ、それは……」
それはやっぱり流石に、甘えすぎではないだろうか。ここからあたしの家まで、タクシーで帰ったらいくらかかるかしれない。それは断固阻止したいところだった。
「大丈夫です。一人で帰れます」
「わかった。せめて家まで付き添うよ」
「あ、ありがとうございます……」
申し訳ないことには変わりないが、タクシー代を肩代わりされるよりはだいぶマシだ。そう思い、フラつくあたしの肩を支える森田さんと一緒に、行きと同じように電車に乗って、家の最寄り駅で降りる。森田くんも流石にそこからはタクシーを呼んで、あたしを玄関まで運ぶと、鍵の場所を尋ねたので、鞄の中にあるポシェットの中だと教えた。森田くんはあたしの家の鍵を開けると、イベント会場から駅までそうしていたように、あたしの肩を支えながらあたしを寝室のベッドの上に横たわらせた。固くて冷たい布団。お母さんが買ってくれた上質な寝具だから、決して寝にくいわけではない。だけど、やはり寝心地は伊吹くんとの添い寝には敵わないんだよなあ。
「伊吹くん……」
あたしは思わず彼の名前を呼んで、気付けば意識を失った。次に目が覚めた頃には深夜を過ぎていた。本当に森田くんには悪いことをしたな、と思いながら尿意を感じてトイレに行こうと寝室から出てトイレを済まし、水を飲もうとリビングの電気をつけて、あたしは目を丸くした。
「も、森田さん!?」
森田くんが、リビングのソファに腰掛ける形でぐっすりと眠っていた。あたしの声で目が覚めたのか、森田くんはゴシゴシと目を擦ってから、じーっと薄目であたしを見て、それからパァッと顔を輝かせた。
「良かった。元気になった?」
「はい。おかげさまで」
あたしはおずおずと頭を下げる。てっきり、森田くんはあたしをベッドに下ろしてすぐ自分の家に帰ったものだと思っていた。
「あんな具合悪そうな楓さんをひとり置いてけないでしょ」
森田くんはそう言って、ツカツカとあたしの目の前まで歩いてくる。あたしは近づいてくる彼にドギマギしながら、彼を見つめる他なかった。
「大事がなくて良かったよ。急性アルコール中毒ってこともあるし」
「そんなに飲んでませんし、だとするなら救急車を呼んでください」
「あはは、違いない」
森田くんが、じっとあたしの顔を見下ろす。あたしもそんな森田くんの顔を見つめ返す。すると森田くんは、急にあたしのことを抱きしめた。
「ふ、ふえ!?」
急な出来事に、あたしは困惑する。けれど、不思議と嫌な気はしなかった。伊吹くんを抱きしめて寝ている時と似た安心感。それと違うのは、今抱擁されているのはあたしの方で、あたしが伊吹くんを抱きしめている時よりもハッキリとした重量があたしにのしかかっているせいで、心臓の鼓動がドクドクと速く脈打つことだった。
「心配したんだよ、楓さん」
「それはどうも、失礼いたしました」
「あのさ、楓さん」
「な、なんざんしょ」
困惑し過ぎて、よくわからない下っ端みたいな口調になる。森田くんはあたしから離れると、あたしの両肩にポンと手を置いた。
「イベントを楽しめなかった代わり、と言っちゃなんだけど、一つ頼んでも良い?」
森田くんは、困惑したように見える垂れ目を薄く開いて、微笑む。今困惑しているのはこっちの方だとか、森田くんの金髪メッシュは月光に映えるなあだとか、そんなことを考えながら、あたしはコクリと首を縦に振った。
🛏️
「これで良いの?」
「うん、良い」
森田くんがあたしに頼んだのは、添い寝だった。あたしが伊吹くんにそうしているように。違うのは、伊吹くんと添い寝をする時はあたしが奥で伊吹くんが手前だけれど、今は森田くんが奥、あたしが手前で、いつもと逆の位置だということ。
「楓さん、平気?」
「うん、すごい安心する」
寝ている時に背中に誰かが密着してくれつまいる安心感というのは、伊吹くんと添い寝をしていても感じたことのないものかもしれない。ドキドキと胸の昂りを感じながら、目を瞑る。そうしていると、森田くんがあたしの首に手を回して、ぎゅっと胸の辺りを抱きしめた。これも、伊吹くんはしてくれなかったことだ。抱擁される安心感、人が密着している心地の良い圧迫感。森田くんは、あたしがいつも伊吹くんにそうしているように、あたしの脚に自分の脚を絡めた。自分からするのと、他人にされるのとでは、全く感覚の違うものだと感心する。あたしが伊吹くんに本当に求めていたのは、こういうことかもしれない、と思いながら、森田くんの暖かい肌の感触を味わう。ふと、その感触があたしの肌からすうっと引いていく。森田くんがあたしを抱きしめ、脚を絡ませるのをやめていた。あたしは急な不安に襲われる。
「いぶ……」
あたしは慌てて口を閉じた。違う、今あたしと一緒にいるのは、伊吹くんじゃない。
「森田くん?」
「楓さん、こっち向いて」
森田くんに言われるまま、彼と向かい合った。森田くんはニッコリと微笑むと、今度は正面からあたしの頭をギュウと抱く。
「……ッ!」
さっきよりも更に圧迫される感覚。そうするうちに、あたしの股の間に、スルスルと森田くんの脚が侵入した。
「楓さん、君はもう大丈夫だよ」
森田くんがそんなことを、あたしの耳元で小さく囁いた。森田くんの吐息があたしの耳の中に入り、ゾクゾクとした感覚が体全体を襲う。
「大丈夫。大丈夫だからね」
森田くんの声は、あたしの耳から直接脳味噌に届くかのように、体全身に響く。森田くんは尚もあたしに囁き続ける。あたしの意識がとろりと夏場のアイスクリームみたいに溶けていく。
「ねえ、人とくっついて、もっと安心するにはどうしたら良いと思う?」
「……ふえ、安心?」
「愛情を感じることだ。ねえ、楓さん。僕は君に、愛情を与えたい」
森田くんが耳元で囁き続けるその声は、あたしの心をふわふわと空中に浮かび上がらせる。
森田くんがあたしの肩を優しく押して、今度はゆっくりとあたしの鼻と彼の鼻とをちょこんとくっ付けた。
「これ以上は嫌?」
森田くんは耳元から離れたはずなのに、森田くんの声は変わらずあたしの脳味噌を蕩けさせる。あたしは彼の問いかけに、ゆっくりと首を横に振った。
「良かった」
森田くんはそう言っていつもの垂れ目でニッコリと笑うと、あたしの唇に口付けをした。正直キスはあまり、好きじゃない。けれど、森田くんの言う通り、彼の愛情が唇を通して感じられるような気がして、嫌ではなかった。森田くんはすぐに唇を離すと、「元の姿勢に戻って良いよ」とあたしをまたくるりと180度回転させた。すると、森田くんの手が、あたしの肌に直接触れた。彼の温かい手があたしのお腹を撫でまわし、次に乳房、それから乳輪へとゆっくりと移動していく。そのまま彼の手があたしの乳首まで到達し、あたしは小さく「ふっ」と息を漏らす。それを合図にしたように、森田くんは手の動きを速める。それからあたしの下の服を足で器用に脱がせると、彼もいつの間にか自分のズボンを脱いでいて、あたしの体に彼の下腹部から突起するものを、ペタリとくっ付け、するするとあたしの股の間に差し込む。蕩けるような、溶けるような快楽にあたしは支配される。森田くんの指があたしの胸を弾き続け、気付けば彼はあたしの耳を
👚
あたしは森田くんとの夜を過ごしてからも、伊吹くんとの添い寝は続けていた。森田くんとのことがあって尚、伊吹くんとの時間を失いなくはなかった。けれど、今こうして伊吹くんと添い寝を続けているにも関わらず、森田くんとのことを話さないのは、あまり良くないことだとも思う。
「ねえ、伊吹くん」
「うん」
「腕枕、してもらっても良い?」
あたしは伊吹くんに、変わらず添い寝を要求する。伊吹くんは、文句一つ言うことなく、あたしを抱きしめ返すこともない。そんな伊吹くんだが、その日は添い寝するあたしに向けて、一言尋ねた。
「楓さんは、クリスマスどうするの?」
伊吹くんの問いに、あたしは一瞬固まる。
あと少しでクリスマス。あたしは森田くんと約束をしてきた。その日は、あの日そうしたみたいに、森田くんと添い寝をする約束をした。
「伊吹くんは?」
「特に何もなければ、実家に帰る、かな」
伊吹くんの言葉に、あたしは「そっか」と静かに頷く。やっぱり、君はそうだよね。
これで決心がついた。あたしには今、伊吹くんしかいないわけじゃない。そのことをちゃんと伝えないと、ただでさえ伊吹くんに甘えているあたしは、誠実さを見失ってしまう。
「実はね、あたし、カレシができたんだ」
「……へあ?」
伊吹くんが、素っ頓狂な声を上げる。まだあたしと会ったばかりの頃は、よくその声をあげていた。あたしは昔のことを思い出し、くすりと笑う。正確には、森田くんはあたしをカノジョにしてくれると言ったわけではない。森田くんはあたし以外の他にも同じように添い寝をする仲の子がいて、誰か一人を特別に扱いたくはないのだと、そう言っていた。でも、あたしが勝手にそう思う分には構わないでしょう、と伝えると森田くんには珍しく眉間に皺を寄せて顔をくちゃくちゃにして「好きにしたら良いよ」と言ってくれた。
「伊吹くんのおかげだよ」
「え、と」
「ありがと」
「どう、いたしまして……」
伊吹くんはあたしの急な告白にも関わらず、誠実に返してくれた。やっぱり伊吹くんは代えの効かない大切な友達だと、そう思った。
──そう思っていたけれど、やっぱりそれは幻想だったのだと思う。
わかっていたことだ。あたしが彼に甘えて、見て見ぬふりをしていた。それだけ。あたしが森田くんとのことを伊吹くんに告白してから少し経った頃、いつものようにあたしが伊吹くんに腕枕を要求したが、彼はあたしに腕を差し出さなかった。その代わり、彼はあたしを組み伏せて、あたしを布団の上にドシンと押し倒した。
いつかはこんな日が来てもおかしくなかった。だからこれはやっぱり、あたしが甘えていただけだ。
「伊吹くん?」
「楓さんはッ!」
伊吹くんの勢いに、あたしは思わずビクリと肩を震わせる。それを見て伊吹くんは狼狽えて、おろおろと目を泳がせた。
「ご、ごめん」
「ううん、びっくりしただけ」
こんな時でさえ、伊吹くんは優しい。あたしなんて、彼にどんなことをされても文句は言えないのに。
「か、楓さんはカレシとはどのくらい……」
「えと、こないだ伊吹くんに話してからだからそんなに」
「キスは、したの?」
伊吹くんの問いに、私はゆっくりと首を縦に振った。あたしは森田くんとのことを思い出して、顔が火照る。それを見て、伊吹くんは目に涙を浮かべた。
「あの、せ、せ」
「したよ」
あたしは即答する。ここで誤魔化すのは良くない。
「で、でも、ぼ、ぼくは」
「伊吹くんがしたいなら、あたしは良いよ」
自分の口をついて出た言葉に、あたし自身が驚いた。伊吹くんの好意には気付きながらも、見て見ぬふりをした。けれどそれは私自身の気持ちに対しても、そうだったのかもしれない。伊吹くんは瞳を潤せたまま、いつもの姿勢に戻ってしまった。あたしは彼を後ろから抱きしめようたして、やめた。もうそろそろ、潮時だったのだ。
☀️
あたしは伊吹くんよりも、ひと足先に目覚めた。いつものことだ。そして彼がすうすうと規則正しく息を吐き出しているのを見て、あたしは布団の中から出た。
「今までありがとね、伊吹くん」
あたしは寝ている彼の唇に、そっと自分の口を重ねた。あたしが今こうしていられるのは、間違いなく伊吹くんのおかげだから。あたしは彼を起こさないようにゆっくりと荷物を整えて、もしかすると二度と敷居を跨がないかもしれない彼の玄関を名残惜しむように、ゆっくりと、彼の部屋から出て行った。
(楓の場合、終わり。()
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