第2話 憧れと理解(美優紀の場合)
同じサークルの同期である彼は、とても優しい人だった。最初に彼の優しさを感じたのはいつの時だったか。覚えているのは、サークルの皆でバーベキューをしに行った時、自分も他の人とのお喋りをしながら酒を飲んでいるにも関わらず、近くにあるゴミをさり気なくヒョイヒョイとゴミ袋にしっかりと分別して片付けていた時、だろうか。それ以外にも、雨の時に傘を忘れた後輩に自分が一つしか持っていない傘を貸しているのを見たり、単位を落としそうな同級生と徹夜でビデオ通話をしたり(あたしもそのグループに参加させてもらった)、サークルや友達の誕生日の話を切り出すのは、いつも彼だったり。そういう細かい仕草の積み重ねを見て、あたしは李人くんに少しずつ惹かれていたように思う。
「美優紀ちゃんって、彼氏いないの?」
ある日のサークルの飲み会、一人のサークルメンバーがそんな風にデリカシーのない質問をぶつけてきた。
「えー、どうしてー?」
「だっていつも二次会三次会までずっと残ってるし、心配する彼氏とかいないのかなって」
あたしは適当に流すつもりだったのに、グイグイと突っ込んでくる物だから、めんどくささを覚え始めた。
「あんまりねえ、人様のそういうの詮索しないの」
そんな風に、あたしの代わりに話を終わらせてくれたのも、李人くんだった。
「えー、でも李人も気になるだろ?」
「気になるは気になるけど、聞くなら二人きりの時とかにするね」
「ちえー、またそうやって真面目くさって」
「真面目くさりとは違くない?」
いつの間にかあたしのカレシのいるいないの話は話題から外れ、話は李人くんの恋バナに移った。どうも、李人くんには高校時代から付き合っていたカノジョがいたのだが、歳上のオラオラ系の男にカノジョを奪われてしまったのだとのこと。その時に男連中で一晩飲み明かし、李人くんを慰めたのだと、あたしにカレシがいるかどうかを尋ねたサークルメンバーが得意げに語るのを、李人くんは困ったように笑って「あの時は助かったよ」と頭を下げていた。
「じゃあ今は李人、フリーなんだ? 私、カノジョになってあげようか?」
サークルメンバーの女子の一人がそう言う。もう飲み会も、頼んでいたツマミがなくなってくる頃合いだ。彼女も酔いも回って、冗談めかして言ったのだろうが、李人くんはそんな彼女に対してぐいっと距離を詰めた。
「ホント? それなら僕、今日は
李人くんは更に彼女との距離を詰める。彼女は驚いた様子で目を丸くして「あはは」と小さく笑うと、近付いてきた李人くんを両手で押すが、李人くんはじっと彼女を見つめ続ける。周りもそんな二人を見て、ひゅうひゅうと囃し立て始めたところで、ようやく李人くんは彼女から離れた。
「あー、びっくりしたあ」
李人くんが離れるや否や、李人くんに詰め寄られた樹里はホッと一息つく。それを見て、李人くんは声をあげて笑った。
「そういうの、冗談でも言う時は気をつけなよ。樹里さん可愛いんだから、すぐ本気にされちゃうよ」
「はーい、気をつけまーす」
気のない返事をするふりをする樹里だが、その顔は今にも蒸気が噴き出そうなほどに紅潮していた。一人の女子大生として意見を申し上げるところによると、李人くんはイケメンかと言うと、肯定もしがたい。彼の垂れ目が象徴するように、男らしい顔つきというわけでもなく、特段背が高いなどの特徴があるわけでもない。それでも、今みたいに人との距離を詰めるのにあまりためらいのない、気の置けない仲にすぐ発展する彼は、サークル内でも男女問わず人気が高かった。
🍺
結局、私に絡んできたサークルメンバーと、李人くんに絡んできた樹里の両名とも、二次会で酔い潰れ、サークルの中では酒に強く、まだあまり酔いが回っていない私と、酒は回って足取りは少しふらついてはいるが面倒見の良い李人くんとで、なんとか二人を別々にタクシーに押し込み、三次会のカラオケに向かうことになった。残っているのはあたしと李人くんを含めて五人程度だったが、そのウチの二人も終電に間に合わせて脱落、もう一人はカラオケの部屋の中で爆睡し、カラオケルームの中で起きて酒を飲んでいるのは、私と李人くんだけになった。
李人くんがいつもカラオケで歌っている十八番の、あたしたちが十代だった頃に流行った少し懐かしのドラマの主題歌を歌い終えた後、私の隣に彼がどさりと座った。と言っても、さっき樹里に対してそうしたように距離を詰めるわけでもなく、拳二つ分は離れているくらいの距離。
「実際どうなの、美優紀さんは」
「え?」
次に歌う曲を選ぼうとしている途中、李人くんからそう話しかけられて、あたしは首を傾げた。
「付き合っている人はいないのか、みたいな話。美優紀さん、飲み会には確かに必ず参加するけど、男の誘いに乗ったことはないでしょ? だから、好きな人くらいはいるのかもなあって」
李人くんはそこまで言った後、またお得意の困り顔混じりの笑顔を見せた。
「ごめん、忘れて。さっき
李人くんはそう言って、慌てて食事の注文タブレットを手にする。
「今は二人きりだから良いんじゃない?」
あたしはさっき、李人くん自身が言っていたことを思い出していた。聞きたいことがあるなら、せめて二人きりの時にする、と。お酒に強いとは言え、流石に頭の中がふわふわとしてきたあたしはだから、彼にそんな風に返す。
「そうだね。好きな人と言うか、ずっと待ってる人がいます」
「へえ、そうなんだ」
私は、かつて一瞬だけ心と体を通わせた男の子のことを思い出す。高校生の時にバトミントン部の後輩だった彼は、今私と同じ大学に通っている。今でもよくあたしから彼を誘ったり、寂しい夜に彼に電話をかけてよく一緒に話したりする。その時間はあたしにとってとても幸せで、かけがえのないものだ。彼は──幸光は、あたしが辛かった時に側にいてくれた。そんな彼との時間を、あたしは大切にしていた。
「高校からの後輩で。ずっとよくしてる」
「その人のこと、すごい好きなんだ」
「あはは、まあ」
改めて他人から言われると、ちょっと照れてしまう。あたしはそれを李人くんに気取られないように、顔を伏せた。
「あはは、いつも豪快な美優紀さんにそんな乙女な一面があったとはね」
「えー、ちょっとそれはひどくない?」
あたしは李人くんの物言いに笑いながら抗議して、次に歌う曲を決めた。好きな人を恋焦がれるラブソング。あたしは幸光のことを頭に浮かべながら、李人くんだけがあたしの歌声を聞いている中、心を込めて歌った。
🎤
サークルの皆との飲み会があった週末、あたしは幸光を誘って美術館に行った。SNSで情報が流れてきた特別展の展示に興味があり、誰かと一緒に行くなら幸光と、と思ったからだ。サークルや高校時代の友達でも良いが、自分の趣味の外出を気兼ねなく一緒に楽しめるのは、幸光をおいて他にいなかった。
「すごい楽しかったー!」
「うん」
「みっつーはどれが良かった?」
「そうだな、俺は──」
そんな風に二人、展示品の話をして、見たい物をじっくり全部見れて満足したあたしは、美術館を出て目一杯伸びをする。そんなあたしを見て、幸光もニコニコと楽しそうに笑っている。あたしはこの幸光の笑顔を見るのが好きだったし、彼のこの表情を見て、また次彼とどこに行こうかと考える。夜は幸光が予約してくれていたらしい近くのビストロに向かった。そこで大学の近況やら最近気になったSNSでバズっていた投稿の話など、取り止めもない話をして、一緒に電車に乗ってそれぞれの最寄り駅で降りて帰路につく。幸光の方が先に電車を降りるから、家に着くまでの間、あたしはポツリと一人残されることになる。その時間は少し寂しくて、今日という日に何とも言えない名残惜しさを感じるのだ。あたしはボーっと電車の吊り広告を見る。来週には公開になる、あたしも幸光も好きなシリーズの映画新作の広告だった。きっと幸光も好きだろうし、今度一緒に行く予定を立てようか。そんな未来のことを考えていても、心が躍る。ほとんど無人の駅にあたしは降りた。ここから歩いて十五分程度で自宅だが、やはり夜にこうした道を歩くのは少し寂しい。あたしはスマホを取り出して、幸光に電話をかけようとしたが、その時、マナーモードにしていたスマホがブーブーと震えだした。
「あ、李人くん」
着信の相手は李人くんだった。話相手には飢えていたし、あたしは特に躊躇うこともなく、その着信をとる。
「もしもし」
「もしもし、美優紀さん?」
李人くんの声の背後から、電車の走る音が聞こえる。向こうも外みたいだった。
「どうしたの? 何かサークルの用事?」
「いや。うーん、強いて言うなら、デートのお誘い?」
なんだそれは。あたしには好きな人がいるんだって話したこないだの今日で、よくそんなこと言えるな、と変なところに感心する。やっぱり李人くんは、人との距離の詰め方がちょっと近い。そこまで考えて、別にあの日のカラオケで、あたしからははっきりと好きな人がいるとは言ってなかったことに気づく。
「そうなんだ。あたしはデートの帰りだけど」
「あ、例の後輩くん?」
「そう。よく覚えてるね」
「どこ行ったの?」
「美術館」
「へえ、美優紀さんらしい」
「そっちは? 李人くんもなんかの帰りなんでしょ?」
あたしがそう問いかけると、李人くんは少しだけ口を閉ざした。それからしばらくして、ゴホンと咳払いをする。
「実は僕もデートだ」
「え」
あたしは李人くんの返答に、言葉を失う。誰か別の女の子とデートの帰りだというのに、あたしと今電話してるってこと? いや、それは自分も他人のことは言えないか。
「どうせ耳に入るだろうし、言わないと始まらないからいうけど、樹里さんとね」
「え、ホントに付き合うことにしたんですか!?」
あの飲み会の時のやり取りを思い出す。確かに樹里は、最初こそ冗談で「カノジョになってあげようか」と言っていたけれど、李人くんに詰め寄られた後はまんざらでもなさそうだった。けれど、あたしの驚きの声を聴いて、李人くんは可笑しそうに笑って、違うよと否定した。
「まさか。ただ、一緒に遊ぶくらいはありなんじゃないかって遊びに行っただけ。樹里さんが観たいって行ってた映画があったから一緒に行ってさ。それで映画の前の予告編っていうの? そのうちの一つを見て、樹里さんが美優紀がこれ好きだから今度誘ってみたらいいよって言うもんだから」
「あの子は……」
詳しく話を聞いてみると、その映画はちょうどあたしがさっき吊り広告で見た映画のことだった。確かに、一緒に行ってくれる人を探そうとしていたのはそうなんだけど。
「……ちょっと、考えさせてください」
あたしは李人くんにそう返す。あたしはできることなら、あの映画は幸光と一緒に行きたい。だから李人くんには悪いが、彼の申し出は保留することにした。
「そっか、残念。また何かあれば誘うよ。あ、僕はちょうど家に着いた」
「こっちもです」
「じゃあまた今度」
「うん、また今度」
あたしは李人くんとの通話を切る。何事かと思ったけれど全く。それにしてもやはりフットワークの軽い男だ。李人くんだって、見た目のイメージは幸光とそう変わらない草食男子だが、男女問わず、友人とのやり取りは本当にフレンドリーだ。いつもオドオドしている幸光にも見習ってほしいよ全く、とあたしは改めて幸光の連絡先を開いて、今日のお礼をメッセージに送ってから自宅の玄関の戸を開けた。
🎥
その日、幸光からの連絡が来たのは昼過ぎだった。
『みゆきさん、観ましたか?』
興奮を伝えるスタンプと一緒に送られてきたそのメッセージは、あたしが幸光と一緒に観たいと思っていた映画を、彼が一人で見に行ったという報告だった。あたしはそれを見て、一瞬思考が停止する。確かに、あれからあたしは幸光を映画に誘ったわけではなく、何となく行ける日があれば良いなと流していた。それが気付けば公開日になっていたことに、幸光の連絡があって初めて気づいたのだった。
『まだ! 絶対観るからネタバレやめてよね!』
あたしは幸光にそう返信を返し、大きく溜息をついた。確かにあたしも映画は絶対に誰かと観たいというガラではない。大学生になって友達との話題やサークルメンバーとの会話の中で気になった作品が増えてきた今、一人で映画に行くことも以前より増えてきた。それはきっと幸光も同じなのだろうし、何で誘ってくれなかったのかとあたしが幸光を責める資格はない。
「ないけど、さ」
でも、行き場のない寂しさを感じることに嘘はつけない。あたしは意気消沈しながら、大学の学食に向かう。
「あ、美優紀!」
一人で静かに空いたテーブル席に座ったあたしに誰かが声をかけてきた。あたしが振り向くと、そこにいたのは樹里と拓海、それに李人の三人だった。声をかけてきたのは樹里だったようで、あたしを見てブンブンと手を振っている。三人は私が座ったテーブル席に座る。あたしは今日はたまたま一人だったけれど、三人とも同じ講義に出席しているので、この曜日の昼はよく三人でお昼ご飯を食べるらしい。あたしは頭の中から幸光のことを追い出して、普通にいつも通りのお喋りに参加した。
「そういや、美優紀さんはあの映画は結局観る?」
四人での食事を終え、食器を片付けようと立ち上がったところで、李人があたしに尋ねた。あたしは小さく頷く。
「やっぱり例の後輩と一緒に?」
「と、思ったんですけど……」
私は李人くんを見上げる。李人くんは何もわからないとでも言いたげなキョトンとした顔で首を傾げた。
🥩
「今日はありがとうございました」
映画館のあと、同じ商業施設の中にある焼肉屋でたんまりと焼肉を食べて外に出て、あたしは李人くんにお礼を言った。
「急なお誘いですみません」
「ううん、僕は全然。美優紀さんの頼みならいつでも」
李人くんはそう言って、にこりと笑う。垂れ目で目を細めるその顔は、なんだか子犬みたいだなあ、と思う。
「しかし面白かったね。僕もシリーズ、チラ見したことしかなかったけど、帰ったら見直してみようかな」
「ぜひぜひ! どれも面白いものばかりだから!」
夜風がひんやりと冷たい。焼肉と一緒にマッコリとビールをたらふく飲んだもんだから、なんだかサウナに行った後みたいな心地よい感覚がする。
「ちょっと気になってたんだけどさ」
「ん?」
あたしはその瞬間にギョっとする。あたしよりも頭一つ分くらいは背の高い李人くんが、あたしの顔を覗き込むようにしてあたしの目を見つめていたからだ。
「ななな、何!?」
「美優紀さん、何かあった?」
「え、なんで?」
「だって、急に誘うのもそうだし。お酒強いとは言え、何だか嫌なこと忘れたいみたいにマッコリぐびぐび飲んでたし」
よく見てる男だな。あたしははあ、と溜息をつく。
「別に何があったということは何も」
「ふうん、何もなかったことがあったわけじゃなくて?」
「……ん? んんん?」
なにそれ頓智? あたしが首を傾げると、李人くんはいつもの困り顔で笑う。何の趣味なのかは知らないけれど、金髪メッシュで染めた髪とその弱弱しそうな表情は、絶妙に似合っていない、とあたしは思う。
「いや、邪推だけどね。本当は好きな後輩と行きたかったのに、その後輩は別の人と一緒に先に映画を見に行っちゃった、とか」
「……そんなんじゃないよ」
あたしは顔を伏せる。だがまあ似たようなものだ。それは演技しようとしても隠し切れないあたしの態度が如実に示していることに、李人くんも気づいているだろう。
「そもそも美優紀さん、本当にその人のこと好きなの?」
「え?」
李人くんの問いかけに、あたしは茫然とする。それはあまりに不躾で、失礼な質問だ。他人の好意を勝手に推し量って、疑問を呈す。これほどデリカシーに欠けることはない。けれど、その短い質問が今のあたしには何故だか、ズシンと圧し掛かった。
「ちょいちょい話を聞いているとさ、僕には美優紀さんがその後輩に、ある種の操を立てているだけみたいに感じるよ」
「操て、そんな……」
「違う?」
李人くんがまたあたしの顔を覗き込む。あたしは答えに窮した。それは、どうなのだろう。
「付き合っているわけじゃないんでしょう?」
「それはまあ」
「彼からも、好きって言われたわけじゃない」
「うん」
「美優紀さんも、それは同じ。待っているだけ、だもんね」
チクチクと胸を刺す。どうしてこの人はそんな風に、あたしの嫌な言葉を並べるの
あたしは再度、顔を伏せる。けれど李人くんはそんなあたしの前にしゃがみ込み、あたしから顔を背けてくれない。
「僕はそんな相手、待つことないと思う」
李人くんが真っすぐにあたしを見つめる。その瞳は海のように澄んでいる。あたしをじっと見るその視線はいつもの子犬みたいな彼のものではなく、蛇のようにも、天使のようにも見えた。
🏩
「やっぱり、こういうのは……」
「そう、じゃあ僕は先に帰るけど」
「いや、ちょっと待ってよ」
ホテルの部屋に入るなり踵を返した李人くんの首の襟をあたしはつかんだ。李人くんは「うげ」っと苦しそうな声をあげて、その場にしゃがみ込み、ゴホゴホとせき込んだ。
「ご、ごめん」
「美優紀さん、それは良くないって」
「だからごめんて――」
あたしは李人くんの様子を見ようと、ゆっくりとしゃがみ込む。すると、李人くんはあたしの両肩に手を当てて、あたしを床に押し倒した。
「それとも君は、こういう激しいのが好きってこと?」
「え、あの、その」
あたしは言葉に詰まる。私を見下ろしてニコリと笑う李人くんの顔は、薄暗い部屋の中で光る照明に照らされて、後光が煌々と輝いているかのようだ。
「ねえ、良い?」
李人くんがあたしの頬に手を触れて、顔を更に近づける。彼が何をしようとしているのか、あたしには分かる。あたしの頭の中に、幸光の楽しそうな顔が浮かんだが、あたしを見つめる瞳の深淵さに、その虚像はかき消された。
李人くんの唇が、あたしの物と重なる。最後にキスをしたのはいつだっけ。幸光が失恋したあたしの家に押しかけてきて、彼と一緒にセックスをした時以来だ。だからもう二年以上は味わっていない、キスの感覚。キスでは感じないと言っている友達もいるけれど、あたしはこの感覚が嫌いではない。口の中で舌と舌を絡ませあうと、まるで自分の脳が蕩けるような錯覚に陥る。李人くんは最初、遠慮がちに唇を啄むようにあたしに付けたり離したりするだけだったけれど、あたしがふと一度だけ舌で彼の唇を舐めた瞬間に、彼は急変した。まるで蛇に食べられるように、貪り喰われるかのように、口の中で二人の舌が暴れまわる。今動いているのがどちらの物なのか、それすら分からないまま。まるで制御できないもう一つの生き物が口の中にいるみたいだ。
「ねえ、あたしメイクもスキンケアもほとんど今日何もしてないし、多分臭いよ」
「関係ないって」
李人くんはあたしの服のボタンを一つ一つ、焦らすかのようにゆっくりと開ける。あたしはそれに抵抗しない。ただ、李人くんの真剣な眼差しに少しだけ心がドキリと動いて唾を飲み込む。それを見逃さなかった李人くんが、まだ服を脱がせている途中だというのに、また濃厚なキスを始める。あたしもそれに応えて、舌を動かす。始まりそうで始まらない、けれど確実に深淵に落ちていく二人。次に幸光に顔を合わせた時、あたしはどんな顔をすれば良いのだろう。
「君は自分の好きなようにしたらしい。僕もそうする」
そう言って、李人くんは一息に服を脱ぎ捨てる。服の上からはわからなかったが、控えめに割れている腹筋が上下に動く様子にあたしはまた唾を飲み、それを見た彼がまたあたしにキスをした。そんなことを繰り返していくうちに、一枚、また一枚とお互いの服が脱がされていく。蛇の脱皮みたいだと思う。古い皮を脱ぎ捨てて、ピカピカの、けれどねっとりと滑った新しい体が下から現れる。
「べとべとだ」
李人くんがあたしの下腹部に、優しく手を置く。そしてまた唇を重ね、興奮を積み重ねる。その日の夜は、まだまだ続きそうだった。
🏐
次の日も、李人くんから誘われて、あたしは静かに同じホテルで彼と体を重ねた。数年ぶりのセックスの快楽は、思っていたよりも刺激的で、あたしにとっては抗い難いものだった。ことを終えると、李人くんと一緒に電車に乗って、家に帰った。李人くんの家の最寄り駅はあたしの降りるよりももっと先のはずだけれど、彼はあたしに付き合って、乗り換えの為の駅の改札を通るところまで付き合ってくれた。
「じゃあ、またいつかね」
「いつか……」
「それともまた明日?」
「それは……考えさせて」
「また?」
李人くんは悩みながら言葉を紡ぐあたしを見て、楽しそうに笑う。そして彼は不意にあたしの顎を持ち上げると、軽く唇を重ねた。
「今日はこれが最後」
「あ、うん」
――もうちょっとだけ、とは言えなかった。あたしは李人くんがホームに降りていくのをじっと見送った。もしも明日も彼に誘われたら、あたしはその誘いを断る勇気と自信はない。
「みゆき!」
「わっ!?」
聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、あたしはビクリと震えた。この声は知っている。間違えようはずもない。でももしかしたら違うかも……。そんな叶うはずもない願いを頭に浮かべながら、おそるおそる振り向く。
「あ、みっつー……」
そこにいたのはやはり、幸光だった。
「き、奇遇だね」
そんな風に震えた声で、青く震えた唇で幸光は言葉を紡ぐ、それを見て、あたしは確信した。きっと、見られた。さっきの、李人くんとのこと――。
「そうだね。みっつーはどうしてここに?」
「俺は映画の帰りで……」
「そうなんだ。映画どうだった?」
あたしはそのことを口にすることなく、幸光と会話を続けることにした。この期に及んで、あたしはまだ幸光との関係を修復できる気でいた。いや、修復も何も、二人の関係は何も壊れていないんだから。けれど、幸光はその場で固まったまま動かない。あたしの顔を――あたしの向こう側にある虚空をただじっと見ている。
「映画どうだった?」
あたしは懲りずに同じ質問をぶつける。
「俺、みゆきが幸せならそれで……」
けれど、彼の口から放たれたのは映画の感想でも、あたしに対する非難の声ですらなかった。それを聞いて、あたしの中の何かが、プツンと切れた。
「みゆき、あのさ」
「ごめん、なさい……」
あたしは幸光から背を向けて、走った。あたしが欲しかった言葉をあなたはくれなかった。あたしが欲しいものを、あなたは知ろうとしてくれなかった。だから、この関係はもう進まない。あたしは幸光を振り切ろうと、全力で走った。この恋とも言えない感情は、あたしには過ぎたものだった。ポケットの中でスマホが鳴っている。幸光からのものか、それとも――。
これがもし、幸光からのものだったら、とあたしはスマホを取り出す。
「……あは」
着信は李人からだった。あたしは躊躇いなくその電話に出て、頭の中に霞のように残る幸光の顔を、ふっと吹き消した。
(美優紀の場合、終わり)
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