第11話 痛みと幸福


 瑛二はスマホを手に取り、検索アプリを開いた。画面に映る検索バーに、躊躇いがちに指を這わせる。


 ――尿路結石 痛み どれくらい


 検索ボタンを押すと、無数の記事や体験談が画面に並んだ。


 「出産に匹敵する痛み」

 「七転八倒するほどの激痛」

 「ナイフで内臓をえぐられる感覚」


 次々と目に入る言葉が、じわりと瑛二の肌を粟立たせる。


 どうやら、尿路結石の痛みは尋常ではないらしい。ある記事には、痛みの激しさから意識を失う者もいると書かれていた。


 ――そんなものに、俺は耐えられるのか?


 通常、尿路結石の痛みは数時間から数日間続くことがあるという。波のように押し寄せる激痛に耐えながら、排石するまで悶絶し続ける。


 だが――渡邉の言葉が頭の中でこだまする。


 「五分間耐えるだけで、一ヶ月間、毎日幸せなことが起こる」


 たった五分。


 五分間の地獄を乗り越えれば、一ヶ月は夢のような日々が待っている?


 そんな都合のいい話があるはずがない。


 しかし、それを否定できる材料もなかった。インフルエンザの契約は、確かに現実のものとなったのだから。


 もし、あの異常な発熱が悪魔の力だったのなら、尿路結石の痛みをたった五分に圧縮することも、きっと可能なのだろう。


 だが、問題はそこではない。


 ――俺に、その五分間が耐えられるのか?


 もう一度スマホの画面を見つめる。


 「通常の尿路結石は、痛みが数時間から十数時間続くことがあり……」


 やっぱり、ヤバい。


 机の上に視線を移す。そこには、先ほど受け取った三万円が置かれていた。


 封筒を手に取り、軽く振る。中で紙幣が揺れる音がした。


 ――これが、インフルエンザに耐えて得た金か……。


 三万円。


 新作のゲームが五本は買える。


 あるいは、美味い飯を何回も食べられる。


 普段なら到底手が届かないものも、少し贅沢をすれば手に入るかもしれない。


 しかし、この金を手に入れるために俺は高熱に苦しんだ。


 生活保護を受給しながら、病にかかることを仕事のようにするなんて、どう考えてもおかしい。これは、紛れもなく不正受給だろう。


 ……いや、それ以前に、これは「仕事」と呼べるのか?


 でも、もし「幸せ」なら、それは仕事ではなくなるのか?


 ――幸せの一環なら、お金も入ってくるのか?


 疑問は尽きない。


 だが、一つだけ確かなことがある。


 ――俺の人生で、本当に「幸せ」だったことなんて、一度もなかった。


 椅子に深くもたれかかり、天井をぼんやりと見上げる。


 考えても、考えても、答えは出ない。


 それでも、時間だけは容赦なく流れていく。


 ふと、腹の虫が鳴った。


 そういえば、症状が治まってから、まともに食事をしていなかった。


 ――飯でも買いに行くか。


 財布をポケットに突っ込み、部屋を出た。


 昼の街は、日差しを反射するアスファルトが眩しかった。


 歩道を歩きながら、ふと目に入ったのは、楽しそうに笑い合うカップルだった。


 肩を寄せ合い、くだらない話でもしているのだろうか。お互いの顔を見つめながら、心の底から楽しんでいるように見えた。


 ――何がそんなに楽しい…。


 瑛二は目を逸らす。


 数メートル先では、杖をついた老人が、重そうな袋を抱えながら足元をふらつかせていた。それを見た青年が、すぐに駆け寄り、手を貸している。


 「ありがとうございます」


 「いえいえ、気をつけてください」


 そんな会話を耳にしながら、瑛二はまた目を逸らす。


 何も考えたくなかった。


 そうやって心を閉ざしながら、コンビニへ向かった。



 店内は静かで、客の姿はまばらだった。


 ハンバーグ弁当とジュースを手に取り、レジへ向かう。


 レジには、やる気のなさそうな若い店員が立っていた。


 「温めどーしますか?」


 「…お願いします」


 その瞬間、店員の顔が微かに歪んだ。


 「え?」


 聞き返されるとは思わず、瑛二は一瞬戸惑う。


 「……お願いします」


 今度は少し大きめの声で言った。


 すると、店員は小さく舌打ちをした。


 チッ。


 心臓が跳ねる。


 それ以上何も言わなかったが、面倒くさそうに弁当をレンジに入れ、無言で作業を続ける。


 お釣りと袋を渡され、瑛二は足早に店を出た。



 ――なんなんだ……いっつもこれかよ……。


 昼の光が眩しいはずなのに、どこか陰鬱な気分がつきまとっていた。


 もう、あのコンビニには行かないでおこう。


 不貞腐れながら、そそくさと歩を早める。


 家に戻るまで、余計なことを考えないように、ひたすら前を見つめた。


 部屋に戻ると、急いで弁当のフタを開け、箸を取り出した。


 一口食べた瞬間、違和感を覚える。


 ――ぬるい……。


 温めが甘かった。間違いなく、あの店員がわざとやったのだ。


 「……クソが……」


 瑛二は舌打ちし、無言で立ち上がる。


 電子レンジに弁当を突っ込み、30秒にセット。


 貧乏ゆすりをしながら、ピーッと鳴るのを待つ。


 そして、レンジが鳴るとすぐに取り出し、再び机へと戻った。


 その時だった。


 スマホの画面が光った。


 渡邉からのメッセージ。


 「瑛二くん、さっきの話だけど、契約はいつでもできるからね。電話じゃなくても、メッセージで受け付けてます。『契約します』って送ってくれたら、さっきの内容通りのことが起きて、それを乗り越えれば報酬も待ってるから。いつでも連絡くださいね♪」


 画面を見つめたまま、瑛二は固まった。


 五分間の地獄の痛み。


 それを耐えれば、一ヶ月の幸せ。


 ――契約、するか?


 スマホを持つ指が、微かに震えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る