第10話 幸福の代償


 瑛二はスマホを握ったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。


 過去に戻ること。


 それは、確かに魅力的な提案だった。


 もし本当に過去に戻れるのなら……あの時、違う選択ができたかもしれない。間違った道を進まずに済んだかもしれない。やり直すことで、今よりもずっと良い未来を手にすることができるかもしれない。


 そう思う一方で、ふと考えた。


 ――今、過去に戻ったところで、何も変わらないんじゃないか?


 自分は結局、同じ選択を繰り返すのではないか?


 「変われていない」という事実が、冷たく胸にのしかかる。


 今の自分は、過去の自分より何か成長しているだろうか。あの頃と同じ後悔を抱えたまま、ただ時間だけが経過しただけではないのか。


 もし過去に戻れたとしても――


 何も変わらない自分が、同じ失敗を繰り返すだけなのではないか?


 そう思った途端、瑛二はため息をついた。


「……やっぱり、やめておきます」


 その言葉を聞いても、渡邉はまったく動じる様子を見せなかった。


「ふーん、そうなんだ。まあ、誰にでも過去をやり直したい瞬間はあると思うけどね」


 どこか楽しげな口調だったが、それ以上は追及してこなかった。


 瑛二はスマホを握りしめたまま、ぼそりと呟いた。


「あんまり、これと言ってしたいことや欲しいものもないんですが……幸せになることって、できるんですか? 例えば、ですが」


 自分でも不思議だった。


 何かを得たいわけではない。特別な夢があるわけでもない。ただ――


 漠然と「幸せ」というものが欲しかった。


 渡邉は少し間を置いてから、柔らかい声で答えた。


「うん、瑛二くんにとっての幸せは、こちらが把握してるからね。その条件でも契約はできるよ。ただ、幸せの度合いにもよるかな。この上なく幸せなことを起こすなら……もう、死んでしまうくらい辛い病に罹ってもらうしかないけど…。」


 瑛二の指先が、微かに震えた。


「例えば、それはどんな病ですか?」


「うーん、そうだね……尿路結石とかかな」


 尿路結石――。


 聞いたことがある。それは、もう果てしない痛みで、この世の終わりかと思うほどの激痛だと。


 とても耐えられるとは思えない。


 瑛二は即座に、その提案を呑まないと心に決めた。


「いや、そんなの無理です」


 そうはっきり断ると、渡邉はくすくすと笑いながら言った。


「そう? でも、この症状を五分間耐えるだけで、一ヶ月は幸せなことが毎日起こせるんだけど」


「……五分間?」


「うん。たった五分。我慢するだけで、一ヶ月間、毎日幸せな出来事が続くんだよ」


 五分間の地獄の痛み。


 それを耐えることができさえすれば――


 一ヶ月間、毎日、幸せ。


 そんなことが、本当に起こるのか?


 だが、もしそれが本当なら――


 それなら、耐えてみてもいいかもしれない。


 ……いや、すぐには決断できない。


 迷いが、瑛二の心を締めつけた。


「……考えさせてください。すぐには返事できないです」


「おっけー、わかった。何かあったら、また連絡して」


 渡邉の声は、最初からそうなることを予測していたように落ち着いていた。


「インフルエンザの件、ありがとうね。それじゃ」


 ツーツーツー――


 通話が切れた。


 瑛二はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。


 五分間の痛みと、一ヶ月の幸せ。


 ――それは、本当に釣り合うのか?


 何も変われないままの自分に、その契約を結ぶ資格があるのか?


 答えは、まだ出なかった。

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