第2章:再会と気づき

 週末の午後、美月は丸の内のカフェテラスで時間を潰していた。天気は良く、初夏の陽射しが心地よい。彼女は環境省のプロジェクト資料に目を通しながら、たまに行き交う人々を眺めていた。


 突然、彼女の視界に見覚えのあるシルエットが入ってきた。


「美月? 堀川美月さん?」


 声の主は、肩にトートバッグを掛けた30代前半の女性だった。髪は肩までのボブヘア、シンプルなワンピースに軽やかなカーディガンを羽織っている。


 美月は一瞬戸惑ったが、すぐにその顔を思い出した。


「葉子? 岸本葉子?」


「やっぱり! 久しぶり!」


 葉子は満面の笑みを浮かべて美月のテーブルに近づいてきた。大学の環境サークルで一緒だった親友だ。卒業後、彼女は国際的な環境NGOに就職し、活動家として各地を飛び回っていたはずだ。


「こんなところで会うなんて! どうしてた?」


 美月は立ち上がって葉子を抱きしめた。華奢な体からは、かすかに柑橘系の香りがした。


「ちょっと仕事の打ち合わせが終わったところ。美月こそ、元気だった?」


「まあね。座る? コーヒーでも飲んでいく?」


 葉子はテーブルの向かいの椅子に座った。


「ありがとう。アイスラテをお願い」


 注文を済ませた後、二人は互いの近況を交換し始めた。


「NGOは2年前に辞めて、今は二児の母よ」


 葉子はそう言って、スマホの画面を美月に見せた。そこには2歳と4歳くらいの女の子たちの写真が映っていた。


「ええっ! 結婚してたの? しかも子どもが二人も?」


 美月は驚きを隠せなかった。大学時代の葉子は、キャリア志向が強く、「結婚なんてまだまだ先」と言っていた記憶がある。


「うん、6年前に結婚したの。夫は大学の後輩で、覚えてる? 山下健太郎」


 美月は思い出そうとして眉をひそめた。


「あの、いつも環境デモに参加してた? クリーンキャンペーンとかやってた」


「そう、その子! 今はフリーランスのウェブデザイナーをやってるの。家で仕事ができるから、子育ても手伝ってくれるのよ」


 葉子は嬉しそうに話した。その表情は、美月が記憶していた情熱的な活動家の顔とは違って、柔らかく穏やかな母親の顔になっていた。


「すごいね。葉子はやっぱり一歩先を行ってるね。環境NGOに就職して、理想の結婚して、子どもも二人……」


 美月は自分の言葉に含まれる羨望に気づき、少し恥ずかしくなった。


 葉子はコーヒーをすすりながら微笑んだ。


「そうかな? むしろ迷走してる気がする。NGOでは理想とのギャップに疲れたし、今は子育てに追われて自分を見失いそうになることもあるわ」


 美月は驚いた。いつも自信に満ちていた葉子がこんな風に感じているとは。


「でも、葉子の人生って充実してるじゃない。やりたいことをやって、家庭も幸せそうで」


「表面上はそう見えるかもね。でも最近、って何だろうって考えることが増えたの」


「えっ、私も!」


 二人は顔を見合わせて笑った。


「人生の折り返し地点で、何のために生きてるんだろう、って本当に考えちゃって」と葉子。


「そうそう、それ! 今の仕事は楽しいけど、本当にこれでいいのかなって思うことがあるの」


 美月は自分の気持ちを言葉にすることで、少し胸のつかえが取れた気がした。


「私ね、NGOにいた頃は『世界を変える』って大きな目標があったの。でも実際働いてみると、組織の政治や資金集めに振り回されて、本来の目的を見失いそうになって……」


 葉子の目には、かすかな寂しさが浮かんでいた。


「それで辞めちゃったの?」


「うーん、それもあるけど、第一子の妊娠がわかったのも大きいかな。海外出張が多い仕事だったから、続けるのは難しかった」


 葉子はアイスラテのグラスを指でなぞりながら続けた。


「でも子どもができて、初めは『これが私の新しい生きがいだ』って思ったの。けど、子育てって思った以上に大変で……特に最初の1年は自分の時間なんて全くなくて」


「大変だったね……」


「そうそう、でも子どもが少し大きくなってくると、また自分の時間も少しずつできてきて。そうしたら今度は『私は母親である以外に、何者なんだろう』って考え始めちゃって」


 美月は葉子の言葉に静かに頷いた。彼女自身は子育ての経験はないが、自分のアイデンティティについての葛藤は理解できた。


「それで今は?」


「今は週に2日、環境教育のNPOでパートタイムで働いてるの。子どもたちに環境問題を教える活動よ。規模は小さいけど、直接子どもたちの反応が見られるから、やりがいはあるかな」


 葉子の表情が明るくなった。


「それいいね! 子どもたちに教えるなんて、葉子に合ってる気がする」


「うん、でもまだ模索中かな。美月は? 今どんな仕事してるの?」


 美月は自分の広告代理店での仕事について話した。そして、最近任された環境省のプロジェクトについても。


「へえ! それすごいじゃない。環境キャンペーンのリーダーなんて」


「まだ始まったばかりだけど……でも正直、こういうキャンペーンって本当に意味あるのかなって思うときがあるんだ」


 葉子は真剣な表情で美月を見つめた。


「どういうこと?」


「いわゆる『グリーンウォッシング』っていうか……表面的に環境に良さそうなイメージを作るけど、実際には消費を促進するだけで、根本的な解決にはならないんじゃないかって」


 葉子は静かに頷いた。


「その懸念、よくわかるわ。NGOにいた時も同じようなジレンマを感じてた。でもね、美月が担当するなら、きっと違うアプローチができるんじゃないかな」


「私が?」


「そう。美月はいつも本質を見抜く目を持ってたじゃない。大学の時も、環境問題の本当の原因を探ろうとしてたし」


 美月は葉子の言葉に、少し勇気づけられた気がした。


「ねえ、これから時間ある? 良かったらうちに来ない? 子どもたちも会いたがると思うよ」


 美月は少し迷ったが、葉子の誘いを断る理由はなかった。


「いいの? ぜひ行きたい」


---


 葉子の家は、都心から電車で30分ほどの閑静な住宅街にあった。二階建ての小さな一軒家で、前庭には季節の花が咲いている。


「ただいま~」


 葉子が玄関のドアを開けると、「おかえり~」という声と共に、小さな女の子が走ってきた。


「あ、ママと違う人だ」


 女の子は美月を見て立ち止まった。


「杏ちゃん、こちらはママの大学時代のお友達の美月さんよ」


 美月は笑顔で屈んで、女の子に手を差し出した。


「はじめまして、杏ちゃん。美月おばさんだよ」


 杏は恥ずかしそうに母親の後ろに隠れた。その姿があまりにも愛らしくて、美月は思わず微笑んだ。


「健太郎、帰ってきたわよ」


 葉子の声に応じて、リビングから若い男性が姿を現した。さらに、彼の腕の中には、もう一人小さな女の子がいた。


「あ、美月さん! お久しぶりです」


 健太郎は美月を認めると、笑顔で挨拶した。彼は大学時代よりも少し丸くなっていたが、優しい目は変わっていなかった。


「久しぶり、健太郎くん。立派になったね」


「いやいや、ただ太っただけです」


 彼は腕の中の女の子を見せながら言った。


「こちらは次女の美咲です。2歳になったばかりです」


 美咲は好奇心いっぱいの目で美月を見つめていた。丸くてぷっくりした頬がとても可愛らしい。


「かわいい! 本当に葉子にそっくり」


 美月は思わず手を伸ばして、美咲の頬に触れた。赤ちゃんの肌のような柔らかさに、彼女は心が温かくなるのを感じた。


「さあ、リビングへどうぞ。お茶入れるね」


 葉子に促されて、美月はリビングに入った。部屋は明るく、子どもたちの絵本やおもちゃが整理されて置かれている。壁には家族写真や子どもたちの描いた絵が飾られていた。


 健太郎は美咲を床に降ろすと、キッチンへと向かった。


「僕がお茶入れるよ。葉子はゆっくり話してきて」


 美月は葉子の夫の気配りに感心した。二人の間には、言葉少なくとも互いを思いやる温かな空気が流れていた。


 ソファに座ると、杏が徐々に美月に興味を示し始めた。


「おばさんは、ママのお友達?」


「そうよ。ママと一緒に大学で勉強してたの」


「大学って何するの?」


「いろんなことを勉強する所なの。ママと私は、地球のことをたくさん勉強したのよ」


 杏は大きな目を更に大きく見開いた。


「地球のこと? 私も地球好き! 先生が絵本で教えてくれた」


 そう言って杏は立ち上がり、本棚から絵本を取ってきた。『わたしたちの地球』というタイトルの、環境についての子ども向け絵本だった。


「これ、私のお気に入り。ママも読んでくれるの」


 美月は絵本を受け取り、思わず微笑んだ。葉子の影響がしっかり子どもに伝わっているようだ。


「素敵な絵本ね。読んでみてもいい?」


 杏は嬉しそうに頷き、美月の隣に座った。絵本を開きながら、美月は不思議な感覚に包まれた。子どもと一緒に本を読むという単純な行為が、こんなにも心を満たすものなのか。


 杏と二人で絵本を読み終えたころ、葉子がお茶とクッキーを持ってリビングに戻ってきた。


「杏、美月さんに遊んでもらってる?」


「うん! 絵本読んでくれたよ。美月おばさん、上手!」


 杏の素直な褒め言葉に、美月は照れくさく笑った。


「美月、手作りクッキーだけど、よかったら」


 葉子が差し出したのは、素朴な形のクッキーだった。


「ありがとう。いただくね」


 一口食べると、バターの香りと優しい甘さが広がった。


「おいしい! 葉子って料理上手だったっけ?」


「全然。でも子どもができてから、少しずつ覚えたの。最初は本当に大変だったけどね」


 そう言いながら、葉子は少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「ねえママ、公園行く約束したよね?」


 杏が急に葉子の袖を引っ張った。


「そうだったわね。美月、悪いけどちょっと約束があって……一緒に来る? 近くの公園なんだけど」


「いいの? じゃあお邪魔します」


---


 公園は葉子の家から歩いて5分ほどの場所にあった。広くはないが、清潔に保たれた遊具と、ベンチが点在している。


 杏と美咲は遊具に向かって走っていき、健太郎が付き添った。残された美月と葉子は、ベンチに腰掛けた。


「良い家族だね。健太郎くんも優しそうだし、子どもたちも本当にかわいい」


 美月は率直に感想を述べた。


「ありがとう。健太郎には本当に感謝してるの。私が仕事を続けられるのも彼のおかげだし」


 葉子は少し遠くを見つめた。


「でも、本当に『生きがい』って何だろうって考えることが増えたの。NGOにいた頃は、世界を変えるという大きな目標があったけど、今は違う形の充実感を探してる気がする」


 美月は葉子の言葉に深く頷いた。


「私もよく考えるよ。この仕事は本当に自分のやりたいことなのか、って」


「ねえ、生きがいって何だと思う?」


 葉子の問いかけに、美月は少し考え込んだ。


「うーん……自分が心から打ち込めるもの? でも、そんな簡単に見つかるものじゃないよね」


「私、最近ある本を読んだんだけど、そこに『生きがいの七つの源泉』というのが書いてあったの」


「七つの源泉?」


「うん。創造のよろこび、自然との交わり、他者との深いつながり、社会への貢献、成長・向上、真理や美の探究、そして信仰。これらが人間の生きがいの源になるって」


 美月はその言葉を反芻した。自分の生活に、これらの源泉はどれくらい存在しているだろうか。


「あなたの生活には、これらはどれくらいある?」と葉子が尋ねた。まるで美月の考えを読み取ったかのように。


「正直に言うと……あまりないかも。仕事では『創造』はあるけど、それも締め切りやクライアントの要望に縛られてる。『他者とのつながり』も、表面的な付き合いが多くて……」


 美月は自分の言葉に少し驚いた。こんなにも率直に自分の気持ちを話すのは久しぶりだった。


「そう思うなら、もっと意識的にそれらを生活に取り入れてみたら? 例えば『自然との交わり』なら、たまには郊外に出かけてみるとか」


 葉子は真剣な表情で美月を見つめた。


「それもそうだね……でも、一日の終わりにはいつも疲れ切ってて、週末もついつい家で休んじゃうんだよね」


「わかるわ。でも小さな一歩から始めればいいの。無理しないで、できることから」


 美月は葉子の穏やかな微笑みに、何か力強いものを感じた。


 そのとき、杏が二人のところに走ってきた。


「ママ、美月おばさん、一緒にブランコ押して!」


 美月と葉子は顔を見合わせて笑い、立ち上がった。


 公園での時間は瞬く間に過ぎ、美月が帰る時間となった。


「美月、また来てね。子どもたちも喜ぶわ」


 葉子は玄関で美月を見送りながら言った。杏も「また来てね!」と手を振っている。


「ありがとう。また近いうちに」


 美月は葉子家族に別れを告げ、駅へと向かった。電車の中で、彼女は今日の出来事を振り返っていた。葉子との再会、彼女の家族、そして「生きがいの七つの源泉」の話。


 窓の外を流れる風景を見ながら、美月は考えた。自分の生きがいとは何だろう? そして、どうすればそれを見つけることができるのだろうか?


 彼女はスマホを取り出し、メモアプリを開いた。


『生きがいの七つの源泉』

1. 創造のよろこび

2. 自然との交わり

3. 他者との深いつながり

4. 社会への貢献

5. 成長・向上

6. 真理や美の探究

7. 信仰


 そしてもう一つ、葉子が言っていた「生きがいの二重構造」というメモも追加した。


『見出す生きがい』と『与えられる生きがい』。自分で選び取るものと、運命的に与えられるもの。


 美月は考えた。自分は何を選び、何を受け入れてきたのだろう。そして、これからどんな選択をしていくのだろう。

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