星を探す人 ―持たない豊かさ 、生きがいという名の星を求めて―
藍埜佑(あいのたすく)
第1章:日常の中の違和感
淡いブルーライトが照らすコワーキングスペースの一角で、堀川美月はパソコンの画面を見つめながら、小さなため息をついた。時計の針が午後九時を指している。周囲のデスクはほとんど空になり、残っているのは彼女と、奥のソファでノートパソコンを覗き込む外国人の男性だけだった。
「美月さん、お疲れ様です。まだ帰らないんですか?」
清掃スタッフの白石さんが声をかけてきた。60代半ばの女性で、いつも美月に優しく声をかけてくれる。
「あ、白石さん。もう少しだけ。この資料、明日の朝イチの打ち合わせまでに仕上げないと」
白石さんは微笑むと、美月のデスクの前に小さな紙袋を置いた。
「娘が作ったクッキーなの。よかったら食べてね」
美月は思わず顔をほころばせた。
「ありがとうございます。いつも気にかけてくれて」
白石さんが去った後、美月はクッキーを一つ手に取って口に入れた。ほんのりとしたシナモンの香りと優しい甘さが広がる。こういう温かさが、ときどき彼女の孤独を和らげてくれる。
美月は画面に映る企画書に目を戻した。化粧品会社の新商品キャンペーン。クライアントからは「もっと若者向けに」という曖昧な指示が出ているが、一体どうすれば「若者向け」になるのか――。
34歳の美月にとって、「若者」という言葉はすでに自分を含まない響きを持っていた。1990年生まれ。学生時代には自分こそが「若者」の代表だと思っていたのに、いつの間にか世代のラベルが変わっていた。Z世代、ミレニアル世代、そしてもう彼女自身も「アラサー」ではなく「アラフォー」に近づいている。
ふと、スマートフォンが振動した。画面を見ると、母からのLINEメッセージだった。
『美月、元気? ところで来週のお休みの日、少し時間ある? 良いご縁があるんだけど……』
美月は思わず画面をロックした。「良いご縁」とは、また婚活の話だ。30代半ばの娘への母の焦りが伝わってくる。返信はまた後で考えよう。
彼女はもう一度企画書に集中しようとしたが、集中力が途切れていた。窓の外に目をやると、東京の夜景が広がっている。無数の光の点が暗闇の中で輝いていた。まるで星空のように。
美月は高校生の頃、天文部に所属していた。夏の合宿で見た満天の星空は今でも鮮明に覚えている。あの頃、彼女は宇宙の神秘に触れることで、自分の小ささと同時に、この広大な宇宙の一部であることの不思議な安心感を覚えていた。
しかし今、彼女の目の前に広がるのは人工の光。その一つ一つは、別々の人生を生きる人々の存在を表している。彼らはどんな生きがいを持って日々を過ごしているのだろう?
美月は再び企画書に向き合った。「若者向け」のデザイン案をいくつか検討し、最終的に一つのコンセプトに絞った。「ナチュラルグロウ」。自然な輝きを引き出すという商品コンセプトだ。
時計はすでに午後十時を回っていた。美月は肩こりを感じながら伸びをして、今日の作業を終えることにした。パソコンを閉じ、カバンに入れる。白石さんからもらったクッキーの袋も大切にカバンにしまった。
コワーキングスペースを出て地下鉄の駅へと向かう間、美月は自分の足取りの重さを感じていた。この仕事は、かつて彼女が夢見ていたクリエイティブな世界だっただろうか? 学生時代、彼女はアート作品で人々に感動を与えたいと思っていた。しかし現実は、売上を伸ばすための広告制作と、終わりのない締め切りとの戦いだった。
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「堀川さん、この企画良いね。でも、もう少しインパクトがほしいところだね」
翌日の朝のミーティング。上司の垣内からの評価に、美月は頷きながらメモを取った。垣内は40代後半の男性で、クリエイティブディレクターとしての実績は確かだが、最近は新しいトレンドに追いつけていないように見えた。
「『ナチュラル』はいいけど、今どきのZ世代はもっとハッキリした主張が好きだよ。彼らは環境問題にも敏感だし、『サステナブル』『エシカル』といったキーワードを入れてみては?」
美月は内心で眉をひそめた。クライアントの化粧品には環境に配慮した原材料はほとんど使われていないのに、そういったイメージだけを前面に出すことに違和感を覚えた。
「了解しました。再検討します」
会議室を出る際、同僚の佐藤がそっと声をかけてきた。
「美月ちゃん、今日飲みに行かない? 新しく入った井上君も呼ぶんだけど」
佐藤季子は美月と同い年で、入社は同期だった。しかし彼女は5年前に結婚し、現在は4歳の息子の母親でもある。仕事は時短勤務で、週3日のリモートワークを活用している。
「ごめん、今日は資料作りがあるから……」
「また? 最近全然会えてないじゃん。たまには息抜きも必要よ」
季子の瞳に心配の色が浮かんでいるのを見て、美月は少し心が揺れた。
「そうだね……じゃあ、ちょっとだけ」
季子は満面の笑みを浮かべた。彼女の笑顔には不思議な力があった。どんなに疲れていても、その笑顔を見ると元気が出てくる。
「よっしゃ! じゃあ七時に1階ロビーね」
美月はデスクに戻り、企画書の修正作業に取りかかった。「サステナブル」「エシカル」といったキーワードを無理やり盛り込もうとすると、どうしても違和感が出てしまう。本当に環境に配慮した商品ならいいのに、と彼女は思った。
その時、社内メールの通知音が鳴った。開いてみると、営業部長からのメールだった。
『堀川さん、環境省主催の「環境配慮型ライフスタイル啓発キャンペーン」のコンペに参加することになりました。当社の提案チームのリーダーとして、企画をお願いします。詳細は添付ファイルにて。来週の金曜日にミーティングを設定します。』
美月は驚いた。環境省のプロジェクト? しかもリーダー?
添付ファイルを開くと、環境配慮型ライフスタイルの啓発を目的としたキャンペーンのガイドラインが書かれていた。紙媒体とデジタルの両方で展開するキャンペーンで、特に若年層への訴求が求められている。予算規模も大きく、彼女のキャリアにとって重要なプロジェクトになりそうだった。
美月は混乱していた。なぜ自分がリーダーに選ばれたのか? 環境問題には学生時代から関心があったが、専門知識があるわけではない。しかも、彼女よりも経験豊富な社員は他にもいるはずだ。
疑問を解消するため、美月は営業部長の小野のもとを訪ねることにした。
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「堀川さん、入ってください」
小野の声に促されて、美月はオフィスに入った。小野は50代前半の男性で、いつも温和な笑顔を絶やさない人物だった。
「環境省のプロジェクトについてですが、なぜ私がリーダーに……?」
小野は椅子に深く腰掛けると、眼鏡を上げて美月を見た。
「堀川さんが最適任だと判断したんですよ。若い世代の価値観を理解している人材が必要なんです」
美月は眉をひそめた。また「若い世代」という言葉だ。
「でも、環境問題の専門家ではありませんし、佐藤さんのほうが経験も……」
「佐藤さんは素晴らしいディレクターですが、彼女は家庭との両立もあり、大規模プロジェクトのリーダーは難しいんです。それに、堀川さんの企画書を見ていると、環境や持続可能性への関心が感じられました」
美月は驚いた。自分の企画書からそんな印象を受けたのか?
「特に最近の若者向け企画には、その感性が表れていると思いますよ」
美月は内心で苦笑した。「若者向け」の企画を任されているのは、彼女がまだ「若者」に近いと思われているからなのか。それとも本当に彼女の感性を評価してくれているのか。
「このプロジェクトは大変重要です。環境省との仕事は、当社の社会的評価にも関わります。ぜひ力を貸してください」
小野の真剣な眼差しに、美月は断る理由を見つけられなかった。
「わかりました。全力で取り組みます」
オフィスを出た美月は、複雑な気持ちを抱えていた。環境問題に関わるプロジェクトは確かに興味深いが、リーダーとしての責任は重い。しかも、このようなキャンペーンが本当に環境問題の解決につながるのか、それとも単なる「グリーンウォッシング」になってしまうのか、彼女には判断がつかなかった。
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その夜、約束通り美月は季子たちと居酒屋で落ち合った。テーブルには季子の他に、今年入社したばかりの新人・井上和也の姿もあった。
「お疲れ様です、堀川さん」
井上は笑顔で挨拶した。真面目そうな表情の奥に、まだあどけなさの残る25歳だ。
「井上君、もう堀川さんとはプロジェクトで一緒になったでしょ? 美月ちゃんでいいのよ」と季子が言うと、井上は少し赤面した。
「い、いえ、それは……」
「いいよ、堀川さんで」
美月は笑いながらグラスに注がれたビールを手に取った。
「とりあえず、乾杯!」
季子の発声で3人はグラスを合わせた。冷えたビールが喉を潤す心地よさに、美月は少し緊張がほぐれるのを感じた。
「美月ちゃん、何か大きなプロジェクト任されたって?」
季子の質問に、美月は環境省のキャンペーンについて説明した。
「すごいじゃん! リーダーなんて。でも納得かも。美月ちゃんって、学生時代から環境問題に関心あったもんね」
美月は驚いた。
「覚えてるの?」
「当たり前じゃん。卒論のテーマも環境倫理だったでしょ?」
美月は懐かしさを感じた。確かに大学時代、彼女は環境倫理学に興味を持ち、卒業論文もその分野で書いた。しかし就職後は、そういった興味はどこか遠くに置いてきてしまっていた。
「すごいです! 堀川さんが環境問題に詳しいなんて」
井上が感嘆の声を上げた。
「いや、もう随分前の話よ。今はほとんど忘れちゃってる」
「でも基礎知識はあるんでしょ? 私なんか全然わからないもん」と季子。
美月は肩をすくめた。
「まあ、環境問題の基本的なことは覚えてるけど……でも実際のキャンペーンとなると、もっと専門的な知識が必要だと思うんだよね」
「堀川さんなら大丈夫ですよ」
井上の素直な言葉に、美月は少し照れくさく感じた。新入社員からこんな風に見られているとは。
「それより、美月ちゃんの婚活はどうなの?」
季子の唐突な質問に、美月は思わずビールを飲みかけて咳き込んだ。
「なっ……何その話!」
「だって、同期の中でまだ独身なの美月ちゃんだけじゃん。素敵な人いないの?」
季子は子どもができてからますます周囲の縁結びに熱心になっていた。
「別に今は仕事に集中したいし……」
「仕事も大事だけど、さ。三十路過ぎると、なかなか良い人見つからなくなるよ? 私なんて本当によく一馬と出会えたと思ってる」
季子は自分の結婚指輪を嬉しそうに見つめた。
「季子さんみたいに仕事と家庭の両立ができる人、尊敬します」
井上の言葉に、季子は少し複雑な表情を浮かべた。
「そう見えるだけよ。毎日バタバタで、息子には寂しい思いさせてるし、仕事も時短だから限界あるし……でも、やっぱり子どもがいると人生変わるわ」
季子がスマホを取り出し、息子の写真を見せてくれた。公園で笑顔を見せる男の子の姿に、美月も思わず笑顔になった。
「かわいいね。でも私には無理かな……仕事も捨てられないし」
「両立は確かに大変だけど、不可能じゃないよ。それに美月ちゃんは有能だから、きっとどうにかできる」
季子は真剣な表情で美月の手を握った。その温かさに、美月は少し心が揺れた。
帰りの電車の中、美月は考え込んでいた。もし自分が結婚して子どもを持ったら。そんな世界は想像できるだろうか? 仕事への情熱と、女性としての幸せ。そのどちらも諦めたくない。けれど、本当にそれは可能なのだろうか?
彼女はスマホを取り出し、何日も放置していた母からのメッセージを開いた。
『ごめんね、今週末はちょっと予定があるの。また今度ね』
送信ボタンを押した後、美月は窓の外を見つめた。窓ガラスに映る自分の表情は、どこか寂しげに見えた。
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