温もりに包まれて

 それから、数日後。

 依頼の報酬受け取りも兼ねて、薬屋を訪れた際のことだった。


「ほんと、大好評でしたよ~!」

「ほ、本当ですか?」


「はいっ! この薬を作ったのは誰なのか、またその人にお願いしたい、って皆さん言ってらして……グラスさん! またお願いしてもよろしいでしょうか!?」


 ルスタの町の薬屋の中、カウンターから身を乗り出したメリーナは、グラスに眩しい視線を向けながら食い入るように尋ねてきた。


「は、はいっ! もちろん、私にできることならいつでもお手伝いいたします……!」


 尋ねられたグラスは、その言葉に驚きながらも嬉しそうにきらきらした笑顔を浮かべ、頷いた。


 数日前、依頼を受けた日の様子とは大違いだ。弟子の眩しい笑顔に、アルテまで嬉しくなる。


 グラスの悩みのみならず、アルテ自身の悩み——どうしたらグラスに自信をつけさせてあげられるのか、というものも、これで解消されたのではないだろうか。


「こちら、報酬です!」

「あっ、ありがとうございます! ……本当に、いただいてもよろしいのでしょうか?」


「ええ、お仕事の対価をお支払いするのは当然のことです! あ、そういえば発注者の冒険者さんたち、相当グラスさんの毒薬を気に入ったみたいで。報酬、上乗せしてくれたんですよ!」


 そう言いながら、報酬の入った袋の口を覗かせてくるメリーナ。

 そこから見えただけでも、かなりの大金であることが一目で分かった。


「まぁ! こ、こんなにいただいて、いいんでしょうか……?」

「もちろんですとも! ほら、遠慮しないで受け取っちゃってください!」


「で、では……すみません」

 報酬の入った袋を、グラスはおずおずとした手つきで受け取る。


「すごいじゃないグラス、上乗せだなんて。発注者さん、よっぽど喜んでくれたのね」

「そ、そういうこと……なのですよね? わ、私の作ったものでそんなに喜んでいただけるなんて……」


 グラスの表情からは、溢れんばかりの嬉しさが伝わってくる。これなら、当初の計画も大成功なのではないだろうか。


「またお願いしまーす!」

 店番の少女に元気に見送られ、二人は店を後にする。


「よかったじゃない、グラス」

「は、はい! ……あ、あの、ところで、こちらなのですが」


 グラスは突然立ち止まると、藪から棒に鞄の中から先ほど受け取った報酬の袋を取り出して。

 なんと、それをアルテに突き出してくるではないか。


「えぇっ⁉ ど、どうしたの、グラス?」

「こちら、やはりお師匠様にお渡しするべきではないかと思いまして……依頼がうまくいったのも、お師匠様のおかげですし! そのお礼、といってはなんですが……」


 戸惑うアルテの手先に、袋を半ば押し当てるようにするグラス。そんな彼女の手を、アルテは押し返す。


「もう、言ったでしょ? うまくいったのはグラス自身の実力なんだから。これは依頼主さんと発注者さんから、あなたの頑張りへのお礼なんだから、あなたが大事に持ってて」


「で、ですが……」

「ね? 分かった?」

 自分に近づけられる少女の手を、アルテはそっと押しのけて歩きはじめる。


「あっ、お師匠様!」

 慌てて彼女の後を追うグラス。駆け足で、アルテの隣に再び戻ってくる。


「で、ですがやっぱり、何かお礼がしたいです! 思えばこれまでも、たくさんお世話になっているにも関わらず、お師匠様に何かお礼と言えるようなことを一切できていませんし……」


「もう。いいのよ、お礼なんて。わたし、そんなことのためにあなたの師匠をしてるんじゃないんだから」

 そう言って、アルテはグラスを安心させるように優しい笑みを向ける。


「だからね、これ以上言ったら怒るよ?」冗談っぽくそう言ったのに、素直な弟子はたちまち焦ったような表情を見せ、謝ってきた。


 これでは、アルテの方がなんだか悪いことをしてしまった気分になる。


 それからしばらくして、グラスは恐る恐るといった様子で尋ねてきた。


「……あ、あの、お師匠様? つかぬことをお聞きするのですが……」

「ん、なにかな?」


「お恥ずかしい限りですが、実は私、自分でお金を持ったことがあまり無くて……こちらのお金、どのように使ったら良いのでしょうか?」


 恥ずかしそうに問うた彼女に、アルテは優しく微笑んでこう答える。


「うーん、やっぱり、グラスの好きなように使うのがいいんじゃないかな!」

「私の好きなように、ですか?」


「うん。好きなものを買ったりだとか、これからのために貯金しておいたりだとか……」


 グラスはその言葉を受け、顎に手を当てながら考える素振りを見せる。


「なるほど……依頼主様と発注者様から頂いた大切な報酬ですし、使い道も慎重に考えなくては……。あっ!」


「? どうしたの、グラス?」

 ふいに小さく声をあげ、立ち止まるグラス。彼女の視線の先は、向かい側の通路のとある店へと向けられていた。


「あっ、い、いえ、すみませ……」

「あのお店、見ていく?」

「……は、はいっ!」





 そして。


「本当によかったの? わたしも一緒に入っちゃって」

 浴室の中、アルテの声が響く。


「も、もちろんです! だって私、最初からお師匠様と一緒に……」


 グラスの声は徐々に小さくなっていき、ちょうど桶からお湯を頭にかぶっていたアルテには、その言葉は最後まで聞き取れなかった。


「なぁに、グラス? ごめん、よく聞き取れなくて……」

「い、いえっ! やっぱりなんでもありませんので!」


「?」

 風呂場の熱気のせいか、グラスの頬はやけに赤かった。


 浴室の中には、湯気とともに花束のように甘く芳醇な香りが漂っている。グラスが先ほど、報酬の一部を使って町で買った入浴剤のおかげだった。


 少し高級な素材が使われており、値段もその分張るものだった。店員の話によると、錬金術師の作った錬成物を取り寄せたものらしい。


「ねぇグラス、さっそく浸かってみない?」

「は、はい、ぜひ!」

 頷いて、グラスは手でアルテを湯船の中へと促す。


 アルテは湯船に足を入れ、それから思わず小さく悲鳴をあげた。


 沸かしたばかりのお湯は、外との温度差で思わず足を引っ込めそうになってしまうぐらいに熱かった。


 けれどその中に全身を投じ、肩まで浸かると、その熱さも次第に心地よい暖かさへと変わる。


「あ~、気持ちいい……それに、とってもいい匂い!」

「ええ、本当に! まるでお花畑の中にいるみたいですよね……」


「ほんとほんと。グラスも入っておいでよ!」

「ふえっ⁉ わっ、私もですかっ⁉ い……いえ、私はあとで浸かりますので!」


「でも、そしたら冷めちゃうよ?」

「い、いえ、お気になさらず! 私まで一緒に入ってしまえば、お風呂が狭くなってしまいますもの!」


「うーん、そうかな?」

 膝を曲げて湯に浸かっているアルテだが、湯船のスペースはあと一人入っても平気そうなぐらいには余っている。


「大丈夫だよ! お風呂、こんなに広いんだし。おいでよ!」

「で、ですが……お師匠様とご一緒だなんて、やっぱり何だか畏れ多いです! そ、それに……」


「ん? それに?」

「……い、いえっ、なんでもありません! と、とにかく、私はあとでお湯に入らせていただきますので、どうかお気遣いなさらず!」


「そっか……あっ、もしかしてわたしと入るの、嫌? ごめんね、すぐ出るから……」

「あぁっ! ち、違うんですっ! そういうことでは決してなくて……うぅ……」


 迷うように、視線を下にさまよわせるグラス。思えば風呂に入りはじめてからずっと、何だか彼女と目が合わない気がする。


「……そ、その、やっぱりご一緒させていただいても、よろしいでしょうか?」

「もちろん! おいで、一緒に入ろ?」

「しっ、失礼、します……!」


 おずおずとその足を湯船に入れ、ほとんど音を立てずに湯船へと入ってくるグラス。どうしてか、その肩と表情には力がこもっている。


 だが、彼女もひとたび肩まで浸かると、それもいくらかマシになった。


「まぁ! とっても気持ち良いですね……!」

「ねっ、そうよね! ありがとうグラス、わたしまで一緒に浸からせてもらっちゃって」


「いえいえ! 元より、お師匠様にも何かの形でお礼がしたいという気持ちもありましたので! こんなことでは、お礼になっていないかもしれませんが……」


「あら、そんなこと思ってくれてたの? お礼なんていいって言ったのに……」

 何といい弟子をもったのだろう。どこまでも健気な目の前の弟子に、アルテの顔は自然と緩む。


「ありがとうね、グラス。あなたってやっぱり、とっても優しいのね」

「そ、そんな……お礼をするのは、人として当たり前のことですもの……」


 そう言うと、グラスは湿った亜麻色の髪と、自分の膝の間に俯かせていた顔を埋めてしまう。


 その頬は、ただ単に浴室の熱気にあてられただけが原因とは思えないぐらい真っ赤だった。


「ねぇ、大丈夫?」

「えっ? な、何がでしょう?」

「顔、真っ赤だよ?」


「えぇっ⁉ そ、そうでしょうかっ⁉」

 アルテが指摘すると、目の前の少女は飛び上がらんばかりの勢いで顔を上げる。


 その反応に思わず驚いてしまいながらも、アルテは言葉を続ける。


「う、うん。のぼせちゃったかな?」

「えっ? あっ、い、いえ! 全然、のぼせてなんかいませんよ!」


 やけに元気な声を作り、そう答えるグラス。だが、そんな彼女の顔はやはり俯きがちで、いっこうに目が合わない。


「ほんと? 具合悪いんじゃない? さっきからずっと下向いてるし……」

「あっ……え、えぇと、それはそういうわけではなくて」

「?」


 両膝を抱え込む手の指先をもじもじと動かしながら、グラスは少しためらいがちに言う。


「そ、その……こうした状態で前を見るのは、恥ずかしい、と言いますか……す、すみません、目を見ないでお話しするだなんて失礼でしたよね!」


 そう言いながら、グラスはちらちらとアルテの目を見ることを試みてくる。だがそれも、三秒以上長くは続かない。


「うぅ……」瞳の奥に潤んだものを滲ませ、うまくいかないことに小さく呻く目の前の少女。


 その健気で可愛らしい姿に、アルテは思わずくすっと笑んでしまう。

「そういうことだったのね。ごめんね、わたしこそ。そんなこと、全然気にしてなくて」


 そう言うと、彼女は立ち上がり、そして移動する。

 グラスの折りたたまれた膝の、その前へと。


「えっ、えぇっ⁉ お、お師匠、様……?」

 そこに背中を向けた状態で座りこみ、

「これなら大丈夫かな?」


 くるりと弟子の顔を見上げ、そう尋ねる。

「…………は、はい、すみません……」


 そんな返事が返ってきた。今にも消え入りそうな声だったが、本当に大丈夫なのだろうか? とはいえ、他に取れる手もないだろう。


 一方、彼女の背後に座る純情な少女の頬はいま、湯気が出てきてしまいそうなぐらいに熱かった。


 憧れの師匠の、目と鼻の先にある小さな身体を前にして。つやめく長い雪色の髪が、湯に流れて肌に触れてきて。そんな状況で、そうならない方が難しいというものだろう。


「入浴剤なんて使ったの、いつぶりかなぁ。身体がほぐれていく感じがするよ……」

 背後の弟子の心境などつゆ知らず、アルテは入浴剤に入った花の成分が身体に染みわたっていくような心地よさに、思わず目を閉じる。


 身体の力が抜けていくのに任せて、彼女は少しずつだらんとした姿勢になっていく。


 肩まで浸かっていたのが、やがて首までお湯に包まれて。

 頭の下に、何か柔らかいものが当たる。


「何これ、ふかふか……。頭がだんだん重たくなくなっていく……」


 それは彼女の頭がそこにやってくるのを見据えて、あらかじめ用意されていたのかと思ってしまうぐらい良い位置にあった。


 雲のように柔らかく、それでいてほどよいハリと弾力もある。素晴らしい枕に頭を包まれ、アルテは身も心もとろけそうだった——


「あ、あのぅ? お師匠様……?」

「ん~? なぁに、グラス?」

 うつらうつらとしはじめた頭の上に、聞きなれた弟子の声が響く。


「え、えぇと、大変申し上げにくいのですが……。そんな風にされてしまうのは、す、少し、恥ずかしいです……」

「えっ……?」


 恥ずかしい、とはどういうことか。振り返ってみると、そこにはぷかぷかと湯の中に浮かぶ、二つの大きくて柔らかそうなものが——


「って、うそ!」

 そこでようやく気付いた。彼女が今まで枕のようにしていたのは、それとは全く似て非なるものだったのだ。


 顔を真っ赤にして恥ずかしそうに俯くグラスに、アルテは慌てて謝った。


「ご、ごめんなさい! わたしったら、何の疑いもなくもたれかかっちゃって……気づかなかったの!」


「い、いえ! そ、そんなに謝らないでください……!」


 冷静に考えてみればおかしなものである。風呂場の中に枕が浮かんでいることに対して、何とも思わないだなんて。


「ごめんね、変なことしちゃって……はぁ、年かな?」

 もう決して若いとはいえない年になっているのは分かっていたが、こうも惚けたことをしてしまうなんて。さすがに落ち込んだし、ため息も出る。


「お疲れなのではないでしょうか?」

「うーん、そうかな? 疲れるようなことは、特にしてない気がするんだけど」


「きっと、ご自身でも気づかれていないうちにお疲れが溜まってしまっているんです! お師匠様は日頃からよく、夜通し地下室に籠っていらしたりしますし……」

「う~ん、それは昔からのことだけど……そうなのかな?」


「生活習慣の乱れは、身体の不調の原因にもなりえますもの! あっ、そうだ! あの、もしよろしければなのですが、私がマッサージいたしましょうか?」


「わぁ、いいの? お願い!」

「はいっ! 僭越ながら、精一杯努めさせていただきます!」


 やけに気合いの入った、大げさなような気もするその台詞に、アルテは思わず笑みを漏らす。

 細い指先が、彼女の銀色の髪の中へと入ってきた。


「あぁっ、気持ちい……」

 頭皮を揉まれ、凝っていたところが少しずつほぐれていく。心地よい感覚に、アルテの身体の力がまたもやがくっと抜けていく。


「あっ、そこそこ……」

「こ、この辺りでしょうか?」

「そうそう、そこ……上手ね、グラス」


「まぁ、本当ですか⁉ それならよかったです!」

 アルテに褒められ、嬉しそうにグラスは微笑む。彼女の細い指の力加減は絶妙で、疲れた頭によく効いた。


「お師匠様、随分と凝っていらっしゃるんですね……」

「えっ、そうかな? ……いつも、研究でいろいろ考えてるからかな」


 そう言って、アルテは苦笑する。

「そのせいで、夜更かしもついしちゃうんだよね」


「まぁ、そんなに没頭できる研究があるのですね! きっと、私には理解もできないようなすごいことを研究されているのでしょうね……憧れちゃいます」

「……えへへ、ありがとう、グラス」


 そう言っておくことにした。アルテ自身は、憧れられるようなことを自分がしているとはとても思えなかったのだが。


「ですが、そのせいでお疲れが出てしまうのはよろしくありません。きちんと適度にお休みをとってくださいね! なんて、弟子の私が言うのは差し出がましいかもしれませんが……」


「ううん、ありがとうグラス。あなたに言われたら、気を付けないわけにはいかないね」

 今度の“ありがとう”は本心だった。彼女の優しい気遣いが、心から嬉しかった。


「……あ、あのぅ、頭、乗せます?」

「乗せる? 乗せるって何を……って、だ、大丈夫よ!」


 気遣いはありがたかった。けれど、弟子の身体に負担をかけさせるわけにはいかない。


 それに第一、向こうからそんな風に言われてしまうと、なかなかに恥ずかしいものがあった。


「そ、それより!」

 場に生まれた気恥ずかしさを誤魔化すかのように、アルテは全く別の話題を始める。


 それから会話は弾み、いつもの明るく楽しい空気も本人たちの気づかぬうちに戻ってきていた。


 他愛ない会話の中で、話題は自然と錬金術に関するものになっていく。実に錬金術の師弟らしい光景だが、その話題を始めたのはグラスからだった。


「グラスは、本当に錬金術が好きなのね」

「はいっ! もちろんですとも!」

 アルテの言葉に、グラスは嬉しそうに答える。


「だって、お師匠様はいつも私に、錬金術の面白さを教えてくださるんですもの……おかげさまで、錬金術は想像していたよりもずっと奥深くて、可能性に満ち溢れた、素敵な世界だということを知ることができたんです!」


 私、錬金術が大好きです! そんな、少女の楽しそうな声が背後からアルテに降り注ぐ。


「ふふっ。そんな風に言ってくれるなんて、わたしも嬉しいな」


 思えばグラスは、出会った当初から錬金術にかける熱が高かった。誰かに教わる前から、一人で錬金術書を解読して実際に錬成を行ってしまうのだから。


 誰にも教われる環境ではなかったにも関わらず、それほどの努力をできてしまうまでの気持ちを、熱意と言わずして何と言おうか。


 彼女が錬金術を本当に愛しているというのは、普段の様子を見ていてもよく伝わってくる。


 いつだってひたむきで、難しい課題でも諦めずに努力する。それは彼女に強い向上心があるというだけではなく、好きだからこそ頑張れるのだ。


 その気持ちは、アルテもよく知っている——知っていた、というべきか。

「グラスは、どうして錬金術をやりたいと思ったの?」


 アルテはそう問うてみた。ずっとそれを聞いてみたかったのだ。すると、

「えぇっと……話せば長くなるのですが」そう前置きしてから、グラスは話し始めた。


 将来のことに悩み、家の書庫に籠っていたある日のこと。彼女は本棚の片隅で一冊の本を見つけたのだという。


 装丁の美しさに惹かれて手に取ったその本は、かつて世界を救った三聖女について書かれたものだった。


 三人のリーダーであり、鍛え抜かれた剣技と、明るく強引な性格でどんな困難も振り払った“剣の聖女”。


 神々に愛され、神霊と言葉を交わすことによって起こされる奇跡の数々と、優しい笑顔で皆を癒し護った“祈りの聖女”。


 そして、類まれなる錬金術の才能を持った稀代の天才であり、常に仲間たちを助け勝利へと導いた“錬金の聖女”。


 三人の伝説が物語調に書かれており、伝説について詳しく知らなかったグラスにも、その内容はすんなりと入ってきたという。


「皆様、とっても素晴らしいお方なのですが……私は特に、錬金の聖女様に強く心惹かれたのです」


 “錬金の聖女”。その言葉に、アルテの耳がぴくりと動く。


「“彼女の使う錬金術は、いつだって不可能を可能に変えた。彼女の手によって生み出される数々の錬成物は、星のように三人の冒険の旅の行く末を照らし出していた。”そんな一節にも示されている通り、とってもかっこいいんです。錬金の聖女様って。

 私は、そんな彼女に憧れたんです。私も彼女のように、不可能を可能に変えられたら。自分の道を、行く末を、自分の力で照らし出すことができたら……って、思ったんです」


 どこか恥ずかしそうに、けれど何だか楽しそうに、グラスはそう言った。


 ——アルテは、言葉を失ってしまう。

 グラスの声に籠っていた強い熱意に。背中からでも伝わってくる、眩しい視線に。


「ですが、私の今の一番の憧れは、錬金の聖女様ではなくお師匠様なんです!」

「……えっ?」


「お師匠様が立派な錬金術師であられることは言うまでもありませんが、それだけでなく、いかに人徳に溢れていて、そして素晴らしいお方であられるのか。それを、私は貴女様の弟子になって、改めて強く感じました。……お師匠様、以前“凍土には行ったことがない”と仰っていましたよね? ですが実は、少なくとも一度はいらしているんですよ」


「えっ? ど、どういうこと?」

「覚えてらっしゃいませんか? 今から百年近く前、凍土の流行り病に倒れた人々を治療しにいらしてくださったこと」


「……あっ!」

 言われて思い出した。どうして今まで忘れていたのだろう。


 今から百年近く前、凍土の領主から依頼を受けたアルテは、医療者たちと協力し、当時凍土で流行していた病の治療薬を作ったのだ。


「実は私も、お師匠様のお薬に命を救われた者の一人だったんです。あの頃は幼かったので、記憶もほとんどありませんが……それでも私に薬を飲ませてくださったお師匠様の、優しい笑顔はよく覚えています。

 ですから、こちらに押し掛けたあの日、お師匠様が私に向けてくださった笑顔を見て——あぁ、やっぱり変わらないなって、安心したんです。あぁ、懐かしいなぁって……」


 そう言ってから、「ふふっ」と、はにかむようにグラスは微笑む。まるで、恋する乙女のように。


「錬金術師を志すと決めたときも、真っ先に思い浮かんだのは、お師匠様のあの日の笑顔でした。私が師事するのはあのお方しかいない、あのお方にこそ私は学びたい。そう自分の中で決め込んでしまったのです。そのために、不躾ではありますが、お師匠様に関する記録を辿らせていただいたのです。ご住所なども、そこから突き止めさせていただいて……こんなこと、本当はよろしくありませんよね。改めて、お詫びしなければいけませんね」


 グラスはそこで、一度言葉を切る。

 それから二、三秒の静寂ののち、アルテは背後で、彼女がわずかに微笑んだような気がした。愛おしい何かに注がれる視線のようなものを、背中に感じたから。


「お師匠様に師事させていただけるようになってから、私は日に日に思うようになっていきました。あぁ、やっぱりこの人の弟子になってよかった、と。お師匠様は、私に錬金術の広い世界を見せてくださるのみならず、突然押しかけてきたにも関わらず、私のことをこんなにも大切にしてくれて……。

 そのお心の優しさに日々触れられることが、何よりも幸せなんです。……お師匠様のような方こそ、まさに“聖女”と呼ぶにふさわしいお人なのだと。私はそう思います」


 一言一句噛みしめるように、グラスは告げた。

 それから数秒の沈黙が生まれ、それを割るように、照れ隠しのように彼女は笑う。


「……って、何だか恥ずかしいですね。急にこんなこと……」

「……」


 アルテは返す言葉が見つけられなかった。この気持ちは、一体何なのだろう。


 “錬金の聖女”——アルテは、自分自身のことをとても“聖女”だとは思えなかった。むしろ、真逆の存在なのだとばかり思っていた。


 だって彼女は、誰よりも救いたかった存在を救えなかったのだから。誰よりも大切な存在を、他でもない自分の手によって苦しめてしまったのだから。


 だから、彼女は“聖女”と呼ばれることを何よりも忌み嫌っていた。こんな自分には、そんな風に呼ばれる権利はない。


 そう思って、ずっと生きてきた。

 そのはずなのに。


 たった今、グラスから“聖女”と言われたことはどうしてか、嫌ではなかった。


 “聖女”と呼ばれ、讃えられ、尊敬の眼差しを向けられたときに、彼女の胸中に必ず生まれていたはずの痛みを、苦しさを、一切感じなかった。


 代わりに、ほわほわと何かあたたかい気持ちが、胸の中にじわじわと広がっていく。——どうしてだろう?


 自分自身の中に生まれた問いに答える間もなく、背後から鈴のような弟子の声が降り注いでくる。


「お師匠様。私が錬金術をこんなにも好きになれたのは、お師匠様のおかげでもあると思うんです」

「えっ? わ、わたしの……?」


「ええ。お師匠様がいつも楽しそうに教えてくださるから、私も楽しいのです。……お授業の際、あんなにも楽しそうにお話ししてくださるのは、やっぱりお師匠様も錬金術がお好きだからなんですよね!」


「……えっ?」

 思いがけず言われたその一言に、アルテは一瞬固まってしまう。


「……た、楽しそう? わたしが?」

「はい! 錬金術のことをお話しされているとき、お師匠様はいつも、とっても楽しそうなお顔をされています!」


 そう言ったグラスの、その声色で分かる。彼女は心からそう思っているのだ。


 だが、アルテにはとても、彼女の言うことが信じられなかった。


 錬金術を“楽しい”と思う気持ちなんて、もう自分にはないはずなのに。


 ——否。自覚がなかっただけで、グラスの言ったとおり、錬金術を楽しむ気持ちが自分に戻ってきていたのだとしたら?


「……そ、そう、なのかな?」

 そう、呟くように口にしてから、少し考えてアルテはこう続けた。

「そう、だったらいいな」


 自分が、錬金術の話をする際に楽しそうな顔をしている——その自覚はなかったが、それでも一つだけ確信をもって言えることがあった。


 グラスに授業をする時間は、もっと言えば、彼女と過ごす日々の時間は、心から楽しいと思える。


 未来に夢と希望しかない、才能もやる気も豊かな若者。そんな彼女の成長に自分が携われていることが、心から嬉しいのだ。


 それにやはり、彼女のことを見ているとアルテは、かつての自分を思い出すことができるのだ。錬金術を、心から“楽しい”と思っていたあの頃の自分を。


 グラスが楽しそうに錬金術をしていると、知らず知らずのうちにアルテも、あの頃の自分に戻ったような気持ちになれるのだ。


 そういった意味では確かに、アルテは錬金術を楽しむ気持ちを、取り戻せているのかもしれない。


「うん、そうかも」

 アルテはそう小さく言った。それはグラスへの返事であり、自分の変化を実感する独り言でもあった。


「ありがとう、グラス」

「えぇっ⁉ な、何のことでしょうか⁉」

「あなたがわたしの弟子になってくれて、よかった」


「……えっ?」

 戸惑うように、グラスは小さな声を漏らす。そんな彼女に、アルテは微笑み、こう言った。


「だって、こんなにも毎日が楽しいんだもの」

「……!」


 少しして、震えた少女の声が言った。

「私も、そう思います」

 じんわりと、幸せそうな色をその声に滲ませながら。


「……でも、ときどき不安になるんです。こんな幸せな時間、いつまで続くんだろうって」

「ずっとよ。わたしとあなたが、師匠と弟子でいる限り」


「私と、お師匠様が……」

 しばしの間が開いた。それから、ぽつりと背後の少女がこう漏らす。


「それって、いつまででしょう」

「ずっとよ。ずっと。わたしはいつまでも、あなたの師匠。あなたはいつまでもわたしの弟子なんだから。たとえどんなに離れても、それはずっと変わらないことなのよ。ね?」


 そうして、アルテは振り返り、自分の背後に座る少女へと、いつも通りの明るい笑みを向ける。

 すると驚くことに、彼女の瞳は涙に滲んでいた。


「……っ、そ、それって……?

いえ、ありがとうございます——お師匠様」

 赤くなった瞳と、小さなその唇に笑みを作り、震えたか細い声で彼女は言った。


「もう、どうして泣いてるの?」

「な、泣いていません……!」


 そう言い張るグラスの瞳からは、確かにまだ涙は流れ出してはいない。けれど今にも溢れ出しそうだ。この状態を、果たして“泣いていない”と言えるのだろうか。


 意地っ張りの子供みたいな弟子の頭を、アルテはそっと撫でてやる。


「……えへへっ」

 素直な子供のようで、それでいて素直じゃない照れ隠しのような、そんな笑みが少女の口から漏れた。





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