初めての採集

次の日。

「忘れ物はないかな、グラス?」

 つばの広い麦わら帽子を被り、いつも着ているものとは違う涼しげな材質のワンピースを身にまとったアルテは、玄関で振り返ると背後の弟子にそう問いかける。


「はい、準備万端です!」

 そう答えた彼女もまた、いつもと違った装いだった。ライトグリーンのワンピースの裾は、彼女がよく着ているものよりもいくらか短い。


 その代わりに、露わになった脚を白いタイツが覆っていた。普段よりもいくらか動きやすそうな格好だ。


 彼女の手には錬金術書と、それから空っぽのカゴ。アルテの手には、ランチを入れたバスケットが握られている。


 まるでピクニックのような装いの二人だが、これから行くのはピクニックなどではない。錬金術に使う、素材の採集だ。


 目的は、依頼の薬を作るための材料集めである。必要な素材の中には、この辺りの森では採れないものがいくつかあるため、少しばかりの遠出をするのだ。


 実を言うと、アルテにとっては半分以上がピクニックのつもりだった。採集を終えた後に、綺麗な森の中でグラスと食事をしながら、さらに仲を深めることができたなら。


 そう思い、今日のランチには以前グラスが好きだと言っていた木の実をたくさん使ってみた。


 彼女の喜ぶ顔を想像すると、アルテの頬も自然と綻んでしまう。


「よし、それじゃあ出発ね!」

「はいっ! ところでお師匠様、本日は少し遠くの森に行くとのことでしたが、何で向かうのでしょう?」


 歩きで行くのか、と問うてくるグラスに、アルテはふふっと笑って首を横に振る。


「歩いていくのは大変だから、これを使って行くよ」

「? えぇと、そちらを使って、ですか?」


 アルテが取り出したものを見て、グラスはきょとんと首を傾げる。


 無理もない。彼女が取り出したのは、片手のひらに乗せられてしまうほどに小さな人形なのだから。


「とっても可愛らしいクマさんですが……これで、一体どうやって?」

「ふふっ、見てて」


 アルテは人形を持った手に魔力を込め、人形に刻まれた術式を起動させる。


 すると、人形はぴょんとアルテの手を離れるとともに、ぽんっと音を立ててたちどころに本物のクマと同じくらいの大きさになった。


「まぁ! このクマさん、魔道具だったのですね!?」


 桜色の柔らかい毛皮に包まれたクマは、まん丸な黒いビーズの瞳をきょろきょろとさせ、主が自分の背に乗り込むのを待っている。


「うーん、どっちかっていうと、ホムンクルスって呼び方の方が合ってるかな?」


「ホムンクルス? それって確か、錬金術によって生み出される疑似生物のこと、でしたっけ?」

「そう、よく知ってるね!」


「では、このクマさんはお師匠様のお手製ということですか!?」


 アルテが首肯すると、グラスはぱぁっと瞳を輝かせる。


「すごいですっ! 見た目はお人形さんみたいにかわいらしいのに、本物のクマさんのように動いていて……しかも大きくなったり小さくなったりできるだなんて! このクマさんをご自分の手でお作りになっただなんて、お師匠様はもっとすごいです!」


「ふふっ。すごいのはわたしじゃなくて錬金術だよ」

 先人が積み重ねてきた知恵のおかげでこうしたものも作ることができるのだから、とアルテが説くと、どうしたものか。グラスの瞳の輝きは一層強まる。


「高名な錬金術師様でありながら、いつまでも謙虚さと先人への感謝を忘れないそのお姿、なんて偉大なのでしょう……!」


 熱い尊敬の眼差しを送り、私にも見習わせてください、と熱の籠もった声で言ってくる彼女を前に、アルテはどうしていいのか分からず微苦笑を浮かべる。


「そ、それより、そろそろ出発しない?」

「あっ、そ、そうですよね! 行きましょう!」


 二人がクマの上に乗りこむと、桜色のクマはどこか嬉しそうな唸り声をあげ、走り出す。


「わぁ! 思っていたよりも速いです!」

「ふふっ。この子、見かけによらず足が速いでしょ?」

「はい! 風を切っていく感覚が肌に伝わってきて、とっても気持ちいいです!」


 クマが一歩進むごとに鳴る地響きと、びゅうびゅうと風を切る音の隙間から、アルテの耳にグラスの声が届く。


「それに、毛並みがとってもふかふかで……うふふ、触っていると幸せです!」

「よかったぁ。毛並み、ちゃんと柔らかいままで」


 これを最後に出したのは、もう何年前になるのだろうか。その間ずっと手入れもしていなかったのだが、案外それでも平気なものらしかった。


「ところで、少し気になったのですが……この子、どうして目標を見失わないで走れているのでしょう?」


「うふふ。それはね……」

 アルテは少し身体をよじらせ、自分の後ろに座るグラスに、手に持ったものを見せる。


「まぁ! そういうことだったのですね! てっきり、何か仕掛けがあるのかと……」


 ホムンクルスが目的地を見失わないわけは、実に単純だった。アルテが手に持った棒には、紐で魚をつるしている。


 それを進んでほしい方向に向けて動かすことによって、ホムンクルスを操っているのだ。


 ちなみに、つるしているのは普通の魚ではない。錬金術で作ったものである。


 ホムンクルスの動力源となる特別な魔力を多分に含んでいるため、これをあとで与えれば、帰る際も元気に走ってくれることだろう。


 力強く大地を疾走するクマの背中に乗っていれば、家から少し遠く離れているはずの目的地にも、ものの十数分でたどり着くことができた。


 “ヒュドーネルの森”と呼ばれるその森は、アルテの家の前の空を木々に覆われて鬱蒼とした森とは違って開けており、あたりに澄んだ水辺が点々としている。


 耳に入るのは川のせせらぎと小鳥のさえずり、それから小さな精霊たちの可愛らしい歌声。


 アルテは久しぶりに訪れたこの採取地の空気を、すぅっと深く吸い込み、そして吐き出す。

「はぁ、いつ来てもいい空気……」


 高位の精霊の気配が、あたりから沢山感じられる。この森の空気と魔力がこんなにも澄んでいるのも彼らのおかげだろう。


「なんて清浄な場所なのでしょう……私、こんなに綺麗な魔力を感じられる場所に来るのは初めてです」


 グラスは物珍しそうに辺りを見回しながら、ぽつりとそう呟く。その表情に感動の色をたたえながら。


 そんな彼女の様子を見ていると、アルテの頬も自然と緩んできてしまう。グラスがここを気に入ってくれたようで、嬉しかった。


 アルテはホムンクルスを術式で元の人形サイズにすると、美しい森の景色に瞳を奪われる弟子を連れ、花々の彩る小道を歩いていく。


「えっと、必要な植物はこの辺りで採れるかな」

 ひときわ大きい泉の広がる地点で、アルテはそう言って立ち止まる。


 泉のほとりでは多数の花々が、水に反射され燦爛とする陽の光の中で遊ぶように生き生きとその茎や葉を伸ばしていた。


 そしてその周囲には、ひらひらと蝶が舞い踊り、緑や透明の身体をもつスライムたちがのんびりと日向ぼっこをしている様子が見受けられる。実にのどかな景観だ。


「はぁ、なんて綺麗な場所なのでしょう……それに、この辺りは魔力も他の場所に増して澄んでいる気がします」


「ふふっ。そうでしょ? ここ、この森で一番高位の精霊さんのお気に入りの場所なの」

「あら、そうなのですね。道理でこんなに魔力が綺麗なわけですね」


 そう言うと、グラスはすぅっと深く息を吸い込む。それから吐き出し、また吸い込んで。周囲の澄んだ空気と魔力を堪能しているのだろう。


 アルテも彼女につられて、深呼吸する。

 身体中を純度の高い魔力が満たしていくような感覚に包まれて、幸せだ。


「ところでグラス。植物とか、自然のものは周囲の魔力の純度が高いほど、自分自身に含む魔力の質も高くなるっていうのは知ってたかな?」

「はい、昔習った覚えがあります」


「実はね、錬金術に使う素材の含有魔力も、なるべく質が高いほうがいいのよ。素材の魔力の質ひとつで、錬成作業のしやすさも、錬成物の質も変わっちゃうのよ」


「そ、そうなのですか!? それはきちんと覚えておかなくては……」

 グラスはどこからか取り出した小さなメモ帳に、さらさらと今アルテから聞いたことを書き記す。


 それから、ふと何かに気づいたように顔をあげ。

「……あっ! ですから、この森で一番強い精霊さんのいらっしゃるこの場所に連れてきてくださったのですね!」


「ふふっ、そういうこと」

 見事自分の思惑を言い当てたグラスに、アルテはにこりと微笑んだ。


 この場所は単に高品質な魔力が流れているだけでなく、森の精霊たちが特に手をかけて育てている場所だからか、植物の種類も数も他の地帯と比べていくらか多い。


 そのため、アルテ自身もこの森に来た際は必ずと言っていいほどここを訪れるのだ。


 精霊と心を通わすことのできるエルフであり、善良な錬金術師である彼女には、精霊たちも自分たちの手塩にかけて育てた植物を、いつも快く少し分けてくれる。


「精霊さん、今日も素材、ちょっともらっていきますね」

 ここで採集をする際、アルテは必ずそう言ってから植物を採るようにしているのだ。


 辺りに一瞬、温かい魔力がそよ風のように巻き起こる。これは精霊たちからの返事だ。


「い、いただきます、精霊さん……!」

 アルテに倣い、グラスもどこか緊張したような声色で、辺りにたゆたう精霊たちに告げる。


 すると彼女にも、温かい魔力の風による返事が返ってきた。


「グラス、必要な素材、集めててね。その間にわたしも、家に置いとく素材集めちゃうから」

「は、はい! わかりました!」


 グラスが頷いたのを確認すると、アルテは自分の目当ての薬草が群生している辺りへと向かった。


 びっしりと生い茂る薬草たちの中から、特に質の良いものを瞬時に見極め、慣れた手つきでぱっぱっと摘み取り、カゴへと入れていく。


「わぁ~……」

「っ?」


 突然背後から聞こえてきた声に、アルテは思わず振り返る。


 するとそこには、アルテの手元ただ一点を見つめるグラスの姿が。いつの間に近寄ってきていたのだろうか。


「さすがお師匠様……速いです!」

「えっ? そ、そうかな?」

「はいっ! やはり、質の良い素材を見分けるコツなどがあったりするのでしょうか?」


「あ、そうそう。こういうのって見極め方があってね……」

 アルテは目の前の薬草の群れと、すでにカゴに摘み入れた薬草とを比較して説明する。


 葉の大きさや色、瑞々しさ、それから虫が食っていないかどうかなどで薬草を選んでいるのだと。


「なるほど! つまり、薬草はなるべく新鮮で、かつ大きなものを選んだほうが良いのですね!」

「そうそう、そういうこと!」


「教えてくださってありがとうございます、しっかり記憶しておきます!」

 そう言うと、グラスは再びメモ帳を取り出し、今しがた聞いたことをささっと書き記す。


 それから、再びアルテの方に向き直り。

「あ、あの、それと、一つ質問よろしいでしょうか?」

「うん、何かな?」


「こういった、お花の部分を使う素材なのですが……これは、どこを見れば質の良いものかどうかが分かるのでしょうか?」

「あぁ、それはね……」


 グラスの指さした、泉のほとりに群生する花のもとにアルテは近寄っていく。


「まず、これみたいにお花が開ききっちゃってるのよりも、八分咲きぐらいのを選んだ方がいいの。その方が新鮮だから。錬金術の素材ってね、鮮度がけっこう大事なの。それから……」


 植物の部位をひとつひとつ指し示しながらの説明に、グラスはこくこくと頷きながら耳を傾ける。その手に持ったペンを、メモ帳の上で走らせながら。


「なるほどです……! ありがとうございました、お師匠様! おかげさまで、もうどれを採れば良いのか迷いません!」


「いえいえ。他にも分かんないことがあったら、いつでも聞いてね」

「はいっ! ありがとうございます!」


 元気よく返事をすると、グラスはすっきりしたような表情で、自分の必要な素材を集め始める。アルテもそれを確認すると、自分の採集へと戻った。


 そして、それからほどなくして。

「あ、あのぅ、お師匠様……?」


 木の上の木の実を、杖を使って叩き落そうとしていたアルテの背後に、今度は少しこわごわとした声がかけられた。


「なぁに、グラス?」アルテは優しく微笑みながら、振り返ってそう尋ねる。


「えっと、ここに書いてあるウェザーバーンという鳥さんなのですが、どうしたら羽根をくださるのでしょうか?」


「あぁ、それね。ちょっと待ってね、グラス」

 アルテは木の上を見渡し、目的の青い羽根をもつ小鳥を探す。


 その姿を見つけると、アルテはグラスに手頃な石を手渡した。


「えっ、えぇっ?」

 石と、微笑むアルテの顔を交互に見ながら、きょとんとするグラス。そんな彼女に、アルテは木の向こうの小鳥を指さして。


「あの子に向かって投げてみて。ウェザーバーンは動きが鈍いから、捕らえやすいと思うわ」

「そ、それってつまり、あの鳥さんを殺してしまう……ということですか?」


 たちまち、グラスは悲しそうな表情を浮かべる。確かに初心者には抵抗があるだろうが、錬金術師なら誰もが通る道だ。致し方ない。


「鳥さんが羽根を落としてくれるのを待つ、というわけにはいかないのでしょうか……?」

「う~ん、運が良ければ、たまたま近くに羽根が落ちてくるってこともあるだろうけど……」


 生憎、あの鳥に羽根をこちらに落としてくれそうな気配はない。


「うぅっ……でも錬金術のためですもの、仕方のないことなのですよね」


 グラスは半ば独り言のようにそう言うと、やがて意を決したように木の上で休む鳥を見据える。そして、握った手を大きく振りかざし。


「えーいっ!」

 枝の間に佇む無防備な鳥へと、思い切り石を投げつけた。


 わずかに力不足かに思えたが、なんとか枝の間を通り抜け、青い羽根をもつ鳥の小さな身体へと見事命中する。


 一切身構えていなかった小鳥はそれだけで、力なく樹上からばたりと地面に落下した。石の当たったところからは、鮮血があふれ出している。


「羽根は、血のついてない所をもらおうね」

「うぅ、やっぱり可哀想なことをしてしまった気が……」

 もう動かない小鳥を前に、グラスは悲哀に満ちた表情を浮かべる。


 生き物を己の手で殺め、その身体を素材として頂くという行為は、錬金術師見習いにとって立派な難所の一つといえよう。だが、グラスはそこで挫けはしなかった。


「ですが、仕方のないことだったのですよね? 私も、この鳥さんの羽根を必要としているのですし……」


「お肉は持って帰って、今晩食べましょ」

 アルテが言うと、グラスは静かにその言葉に頷いて、顔を上げる。


「そう、ですね。……それに、これで気が滅入ってしまうようなら、錬金術師になんて到底なれませんよね」


 アルテは彼女に解体用のナイフを手渡し、解体方法を教える。動物の解体もまた、錬金術師は身に着けておくべき知識の一つなのだ。


 グラスは表情を歪めながらも、小鳥の身体にナイフを入れていく。そして、やっとのことで目的の羽根を数枚と、持ちかえる肉を手に入れた。


「はぁ……なんだか、少し疲れたような気がします」

 解体を終えた途端、ナイフを握っていたグラスの手から力が抜ける。


 無理もないだろう。普通に生きていれば、こんなことをする機会なんてそうないだろうから。


 ため息をついて座り込むグラスの頭を、アルテはそっと撫でる。

「えっ? お、お師匠様……?」


 グラスは振り返り、自分の師が何をしているのか理解すると、たちまち頬をかぁっと赤らめる。


「あ、ありがとうございます……えへへ」

 赤くなった頬に両手を当て、口元を緩ませるグラス。一気にだらしない表情になったが、それもまたかわいらしいものだとアルテは感じた。


 そんな彼女に、アルテはにこりと微笑んで告げる。

「お疲れ様。素材も集まったみたいだし、そろそろ休憩にする?」





 ひときわ大きな木のかげに大きな布を敷くと、アルテは靴を脱いで腰掛ける。

「グラスも、そこ座ってね」


「あっ、は、はい! お邪魔します!」

 グラスはぺこりと一礼すると、脱いだ靴の爪先をぴったりと揃えて布の上に腰かけた。


「お腹、空いたんじゃない?」

「は、はい、実はもうぺこぺこで……」


 少し恥ずかしそうに、お腹に手を当てながら答えるグラス。そんな彼女にアルテはふふっと微笑みかけると、昼食の入ったバスケットを開く。


「まぁ! なんておいしそうなのでしょう!」

 その中に入っていた、大きなカスクートを一目見た途端、グラスは嬉しそうに声を上げた。


 それから、やってしまったとでも言うように、恥ずかしそうにはっと口を抑える。だが、アルテはそんなことで怒ったりはしない。


「ふふっ。よかったわ、そう思ってもらえて。味もちゃんとおいしいといいんだけど」


「お、おいしいに決まってます! お師匠様のお料理は、いつも何だっておいしいんですもの!」

 間髪入れず、グラスは言った。いつもより少し早口になって。


「まず、パンの焼き目がとっても美味しそうです……挟んである具材もお肉にお野菜、チーズ、果物といろんな種類があって、まるで色とりどりの宝石箱を眺めているみたいです! こんな素敵なお料理、初めてお目にかかるかもしれません……!」


 感激した様子でそう口走る彼女の瞳は、ダイヤモンドのようにきらきらと瞬いている。


 彼女の素直な言葉に、アルテは嬉しくなった。グラスはいつもこうして、アルテの料理を食べる前から褒めてくれるのだ。


「ありがとう、グラス。それぞれ違う具材が入ってるから、どれでも好きなの食べてね」

「はいっ、ありがとうございますお師匠様! いただきます!」


 グラスはきらきらした視線をアルテに向けてそう言うと、その視線をたちまちバスケットの中へと移す。


 少し迷うような間が開いたのちに、彼女はカスクートを一つ選び取った。それに続き、アルテも手近なものを一つとる。


「いただきます」静かにそう言って、アルテは手に取ったカスクートを口に運んだ。


 ……だが、思った以上にパンは大きさも厚みもあり、大きく口を開けても入りきらない。自分で作ったにも関わらず、そのサイズ感を甘く見ていたようだった。


 結局、パンを少し潰しながらめいっぱい口を開けることによって、ようやく彼女はカスクートを一口齧ることができた。


 歯ごたえのある硬いパンと、間に挟んであった具材を咀嚼しながら、アルテは思った。今日のはかなりの自信作だ。


 新鮮で瑞々しい生野菜にソースの絶妙な塩加減が非常に相性抜群で、食べ進めるペースは次第に速くなっていってしまう。


「グラス、どう?」

 手に持っているのを半分ほど食べたところで、アルテは隣に座る少女にそう尋ねてみる。


 彼女は口元にホイップクリームがついているのに気づかないまま、どこか興奮した様子で答えた。


「最高です、お師匠様! よく熟れた果物がごろごろ入っていて、とっても食べ応えがあります! それにクリームまでたっぷり入っていて……私、感激しています!」


 手にしたカスクートを食べながら、少女は至福の表情を浮かべる。そこまで美味しそうに食べてもらえるのなら、作った甲斐があったものだ。


 クリームは、甘いものが好きな彼女のためにあえて多めに入れてみたのだが、そうして正解だったようだ。


「ふふっ。そんなに気に入ってくれたのね、よかった。グラスのはフルーツサンドだったのね」


「お師匠様は、今何を食べられているのですか?」

「わたしのはね、お野菜が入ってるの。なかなかの自信作よ」

「まぁ! お師匠様の自信作!」


 その部分がよほど彼女の気を引いたのだろうか、グラスは瞳にめいっぱいの輝きをたたえてそう繰り返す。


「ふふっ。まだあるから食べて。あ、味見してみる?」

 そう言って、アルテは自分の手に持ったカスクートの端を少し千切る。


「良いのですか、いただいても!」

 嬉しそうな表情を見せるグラスに、アルテは頷く。それから、彼女の口元に千切ったカスクートをもっていった。


「はい、あーん」

「いただきます! ……!! まぁ、こちらもなんておいしいのでしょう……」


 まだ呑み込んですらいないのに、グラスは至極感激した様子でそう言った。彼女が飲み込む前に喋りだすなんてよほどのことだ。


 それほど気に入ってくれたということだろう。アルテも思わず頬が綻ぶ。


「むぐ、ごくん……はぁ、甘いものとしょっぱいものを連続でお口に入れることが、こんなにも幸せだなんて……」

「ふふっ、そんなに?」


「はい、それはもう! お師匠様も一度やってみては……あっ、そうです! お師匠様もこちら、お食べになってください!」

「えっ、いいの?」


 突然、自分のカスクートの端を千切り、先ほどアルテがしたのと同じように、こちらに差し出してくるグラス。


 戸惑いつつアルテが尋ねると、グラスは笑顔で頷く。

「はい! この幸せは、ぜひお師匠様にも味わっていただきたいのです!」


「ふふっ、そこまで言ってくれるなら、もらっちゃおうかな。ありがとう」

 そう言うと、アルテはグラスの手に握られたカスクートの端の部分を、ぱくっと口にする。


 するとたちまち、塩味で満たされていた口の中を、クリームと果実の甘く柔らかい味わいが染め上げていく。


 まるでこれまで一色だった世界に、新たな色が差し込んでくるようだ。


「ほんとだ! グラスの言ってたとおりね!」

 クリームいっぱいのパンを頬張りながら、アルテは笑顔でそう言った。言いながら、来る前に味見をしてこなくてよかったと思っていた。


 もし味見をしてしまっていたら、カスクート一本だけでもきっとお腹いっぱいになってしまっていたことだろう。


 そうなってはこんな風に、グラスとこの“幸せ”の共有もできなかっただろうから。


 清らかな空気と魔力に満ちた森の中、二人は話に花を咲かせる。時間がゆっくりと過ぎていく。


「お師匠様、今日は本当にありがとうございました」

 他愛ない会話の中、ふとグラスがそう言った。数秒前とは違った、やけにかしこまった調子で。


「採集に関する有益な知識を教えていただけた上に、とってもおいしいお食事までいただけて……たいへん有意義な時間を過ごさせていただきました。本当に、ありがとうございます」


 そう言って、グラスはぺこりと頭を下げる。アルテは慌てて首をふるふると横に振る。


「そんな、かしこまらなくていいのよ。弟子の質問に答えるのは師匠として当然だし、ご飯だってわたしが作りたくて作ってきたんだから」


 彼女がそう言うと、グラスは俯き、はにかむような笑みをその口元に浮かべる。


「やはりお優しいのですね、お師匠様は……。こんなことを言うのもなんですが、今日はなんだかピクニックに来たような気分です」


「ふふっ。わたし、実は最初から半分はそのつもりだったんだ」

「えっ? そ、そうだったのですか?」

「うん。だからよかった、グラスが喜んでくれて」

「お師匠様……」


 グラスは瞳を細め、囁くような声で言った。それから、膝の上に落ちてきた木の花びらに気づき、それをそっと拾い上げて。


 花柄をくるくると回し、小さな花を指先で弄びながら、彼女はふいに語り始めた。


「こうしていると、昔のことを思い出してしまいます。……一度だけ、家族で暖かい国に旅行に行って、みんなでピクニックをしたことがあって」


 木々の間を通りすぎる風に混ざるように静かに話す彼女の瞳には、どこかここではない場所の、今ではない時間が映し出されているようで。


「あの頃は、楽しかったなぁ……何だか、父様のことを思い出してしまいました」

「えっ、お父さん?」


 グラスは小さく頷き、それからこう続ける。


「それが私の覚えている限りでの、父の最後の記憶で。と言っても、その頃の私は幼かったので、その記憶も朧げなのですけれど……。お父様が生きていらした頃は、お母様も、お兄様もお姉様も、みんな笑っていて……幸せで」


 そこで少女は言葉を切る。氷のような色をしたその瞳がやけに輝いて見えるのは、彼女がそこに雪解け水のように透き通ったものを一生懸命に溜めているからだった。


「ごめんなさい、急にこんな話して。変な空気になってしまいましたよね」


 無理やり作ったような笑顔を浮かべて言ったグラスに、アルテはそっと肩を寄せ、その右手にそっと自分の左手を添えた。


 少女ははっとアルテの方を見、それからその瞳を細めて俯いた。その頬は彼女が手にした花の色のように、うっすらと染まっていく。


「……今の私には、お師匠様がいてくださっていますのね。なんて幸せなのでしょう」


 アルテの子供のように小さな手は、それよりもひと回りほど大きいグラスの手に半ば包まれるような形となって重なり合う。


 ダイヤの粒のようにきらめくものが、少女の瞳から今にも溢れ出しそうだった。


「ありがとうございます、お師匠様」

 絵の具を浸した薄紙のように、じんわりと感情の滲みだした声で少女は告げる。


 それから、ライトグリーンのワンピースの裾が、遠慮がちにアルテの脚に触れた。それに応えるように、麦わら帽子の広いつばが亜麻色の髪の間に少し挟まる。



  ◇



 帰宅後、二人はすぐに地下の工房へと降りていった。目的は言うまでもない、依頼の薬の錬成のためだ。


 グラスは錬金術書とにらめっこし、その製法を何度も何度も念入りに確認しながら器具の準備を始める。


「そんなに何度も確認しなくても、大丈夫なんじゃない?」

「いえ、そういうわけにはいきません! これから作るものはご依頼主様にお渡しするものですから、間違いがあってはいけませんもの」


 アルテの言葉に、返ってきたのはそんな答えだった。その返答にアルテは思い出す。自分の弟子はこういう性格だったのだと。


 アルテは、そんな彼女を尊重することにした。依頼主のことを慮れる錬金術師は、間違いなく大成するから。


 何度も何度も繰り返し確認したのちに、グラスはやっと錬成の下準備を終わらせる。


「すぅ、はぁー……」

 彼女は深呼吸をすると、覚悟を決めたかのように真剣な眼差しで攪拌棒をその手に握る。


 ……だが、それから数秒後。アルテの立つ自分の隣を徐に向いた彼女の表情は、数秒前とは打って変わって不安そうだった。


「あ、あの、今ふと思ったのですが……」

「な、なぁに、グラス?」


「私、いつも毒以外のものを作ろうとしても、結局毒薬になってしまうじゃないですか……そんな私が最初から毒を作ろうとしたら、ひょっとしたらとんでもないものが出来上がってしまうのではないでしょうか……」


 言いながら、少女の瞳はだんだんと潤んでいく。

「だ、大丈夫よ! そんなこと気にしないで、まずはやってみましょ?」


「で、ですがどうしましょう、この地下室を汚染してしまうほど強い毒薬を作り上げてしまったら……」

「だ、大丈夫! 大丈夫よ、ね?」


「うぅっ……そ、そうでしょうか……」

 今にも泣きだしそうな表情を浮かべるグラスだが、いつまでもそう言っていては埒が明かない。

 弱々しい手つきで、彼女は錬成をはじめる。


 薬草を煮出した汁の中に青い鳥の羽根を入れ、エーテルを集め、攪拌棒で鍋の中身を混ぜていく。


 初心者だというのが信じられないぐらい才能のあるグラスだが、やはり初心者は初心者だ。本だけで覚えた彼女の錬成作業にはまだまだ粗も、未熟な部分も多い。改善の余地はたくさんある。


 アルテはグラスの手に自分の手を添え、一緒に手を動かし始めた。


「えっ? お、お師匠様?」

「エーテルは、こんな風に動かしていくと操作しやすいのよ」


 戸惑う少女の背後から、アルテはそう告げる。彼女は弟子の背中に身体を寄せ、そのエーテル操作を助けてやる。


「……そ、そう、なのですね! ありがとうございます、覚えておきます」


 そう答えた少女の声は、少し上ずっていた。触れる彼女の手は、アルテの温もりのおかげか少しずつ熱くなっていく。


 アルテの耳が、ドクン、ドクンと速く脈打つような音を拾う。これは一体何の音なのだろうか。


 そうしていると、いつもの如く、グラスの魔力はじわじわと変容を見せ始める。だが今回はいつもと少し様子が違った。


 いつもなら、彼女の透き通るような魔力は、少しずつ変容して最後には完全に重々しく濁った魔力に変わってしまうのに。それが今日はどういうわけか、その現象がほとんど起こらなかったのだ。


 おそらく、アルテが手伝ったおかげでエーテル操作がいつもよりうまくいっているから、というわけではないだろう。エーテルによって、魔力の性質そのものが変わってしまうことはないからだ。


 では、一体理由はなんだろう。アルテの意識は次第に、エーテルをグラスと一緒に動かしながら攪拌棒を混ぜる手から、いつの間にかその思案へと大半が移っていた。


「あっ! で、できました!」

 グラスがふいに発したその言葉で、アルテははっと我に返る。


 鍋の中を覗き込めば、確かに素材たちはみな合わさって一つの錬成物と化していた。


「……これ、見た目はおかしくないですよね?」

 鍋の中をまじまじと眺め、それからグラスは徐にこちらを振り返って尋ねてくる。


 その液体の青緑は、確かにレシピ通りに作ればそうなるはずの色だった。アルテはグラスの言葉に首肯する。


「で、ですよね!? やった、私、ちゃんと錬成できました!」

 グラスはたちまちぱぁっと瞳を輝かせ、目に見えて嬉しそうにする。


 だが、それから数秒後、彼女ははっとしたように口元に手を当て。


「あっ……き、きっとお師匠様が手伝ってくださったからですよね! すみません、それなのにこんなにはしゃいでしまって……」


 先ほどとは打って変わって、どこかしゅんとしたような感じでそう言った彼女に、アルテは首を横に振る。


「ううん、違うよ。わたしはほんの少し、エーテルの操作を手伝っただけだし。これはグラスの実力の賜物よ」


 そう言って、微笑む。するとたちまち、少女の瞳に光が戻った。

「ほ、本当、ですか……?」


「うん、そうだよ」

「……っ!」


 溢れんばかりの煌めきが、彼女の瞳に宿る。喜びのあまり叫びたいのを堪えているのか、手のひらで口元を覆いながら。


 そんな彼女の表情に、アルテも嬉しくならずにはいられなかった。これでようやく、彼女の悩みも解消されるだろうか。


 にしても、不思議なものだ。これまでは錬成のたびに例の現象が起こっていたというのに。


 これはやはり、グラスと毒との相性が異様に良いということなのだろうか? それとも、例の現象の原因自体が知らず知らずのうちに解消されていたのだろうか?


 理由はともあれ、これも彼女の自信につながるのではないだろうか。それなら、ひとまずはオーケーだ。


 その後、アルテはご機嫌な様子のグラスと一緒に、出来上がった薬の瓶詰め作業を行うのだった。

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