忘却のまま、儀へ至る

新谷 軽美

序章|踏み入れた夜

 その廃病院には、霊が出るという噂がある。

 夜になると人影を見た、誰もいないはずの病棟で話し声を聞いた。

 どれも、心霊スポットではよくある話だ。


 風か何かが、古い建物のどこかを鳴らした。

 恐る恐る足を踏み入れる。


 廊下を進むにつれ、足元に生活の名残が増えていく。

 吸い殻だらけの空き箱、空になった酒瓶。

 不良の溜まり場だったのだろう。

 壁際には古いラジカセが置き去りにされていた。


 触れてもいないのに、なぜかそれだけが新しく見える。

 トイレの入口に立った瞬間、胸の奥がざわついた。

 中を覗くと、鏡が――すべて割られている。

 床や洗面台には破片が散らばり、足元で小さく音を立てた。

 個室の扉を一つ、押し開けた。


 そこに、いた。


 床にうずくまり、こちらに背を向けた女の影。

 肩が、わずかに上下している。

 かすれた声のようなものが漏れた。


「……い、ぬ……かう……」


変な声が聞こえた。

それ以上、確かめる余裕はなかった。


反射的に扉を閉め、走った。

心臓の音がやけに大きく、足音と重なる。

空いていた病室に飛び込み、内側から扉を押さえる。


息を殺し、音を立てないように、その場にしゃがみ込んだ。


静かだ。

追ってくる気配はない。


しばらく、その場を動けずにいた。

どれくらい経ったのかは分からない。

心臓の音だけが、やけに現実的だった。


さっき聞いた声を、頭の中でなぞる。


「……い、ぬ……かう……」


意味が分からない。

聞き間違いだ、そう考えようとした。


なのに、理由もなく、

胸の奥が、少しだけ重くなった。

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