緋願の蝶

流威

緋 願 の 蝶

「——小山、さん?」

 ある春の日の放課後、高校の校門の前で、新聞記者と名乗る女性に声をかけられた。ふり向くと、

「やっぱり。生きてたのね!」

 「生きてた」——? まるで、ここではないどこかでは死んでいるかのような口ぶりだ。わけがわからず首を傾げると、

「ちょっといいかしら? 生前、殺人犯だったお母さんの話を聞きたいんだけど」

「殺人?」

 思わず声をあげた。ずっと事故死だと聞かされてきた両親の死には秘密があったのだ。なぜか脳裏に焼きついているものすべてが赤い線で繋がっていく。


 幼い“わたし”の記憶が目を醒ます。



* * *



 愛人は、母のほうだった。

 母には鬱憤を吐きだす場所が必要だったのかもしれない。


 ふたりが出会ったのは、1980年の春———父の職場に母が赴任してきたところから、すべてがはじまる。

 母いわく、一目惚れだったそうだ。嘘みたいな話だが、父と目が合った瞬間、全身に電流が走ったらしい。

 きっかけは父の風邪。その年の夏、ひどい夏風邪をひいた父のところに足しげく通って、距離を縮めたのだという。母は幸せそうに微笑んで、

「パパはね、ママの家庭的なところと、一途で愛情深いところを好きになったんだって。ママの愛が通じたのね」

 愛おしそうに、腹から血を流しながら無様に床に這いつくばる父を見た。

そして、

「その日から夢のような幸せな日々がはじまったの。パパの風邪が治るまでは、毎日パパの家に通って、パパの看病をして———風邪が治ったら、今度はパパがママの家まで迎えにきてくれて。みんな、ママの気もちを知ってたから、よかったね! って自分のことみたいに喜んでくれた。きっと、パパと出逢わせるために、神様がわざとひかせた風邪だったのよ」

 当時、わたしは5歳だった。恋をするって、きっとこういうことなのだ。

「それでね、2ヶ月目に『運命の日』が訪れるの。付き合って、ちょうど2ヶ月目の記念日にね、パパにプロポーズされたの! もう、このまま死んじゃってもいい! ってくらい嬉しかったわ。でもね、」

 母は悲しげに目を伏せて、

「断っちゃったのよね……。今でも後悔してる」

と、呟いた。

「どうして断ったの?」

 母は父に向けていた視線をこちらへ移し、

「あの時、パパとケンカしてたから。どうせだったら、ちゃんと仲直りして、ロマンチックにプロポーズしてほしいじゃない。それなのに——」

 母は口惜しそうに唇を噛み、

「それなのに、あの女と結婚したのよ!」

と、喉が張り裂けるくらいヒステリックに叫びながら、赤黒い血が滴る刃を父の太腿に思いっきり突き立てた。新しい痛みに絶叫する。母はボロボロと涙を流して、

「こいつ、フラれたって勘違いしたのよ! ただの、ちょっとしたケンカだったのに! あんた想像したことある? 愛する人が自分じゃない他の女と幸せそうにバージンロードを歩く姿を見せつけられる屈辱を! やっぱりそうよねって、つり合わない相手だったって、あの女のせいで、あんな女にウェディングドレスなんて着せるから私が笑われたのよ!」

 垂直に突きたてた包丁の柄を真上から踏みつけた。半分だけ見えていた銀色の刃が母の重みでついに視界から消えた。父が激しくのたうちまわる。

「だからね、神様にお願いしたの」

 獣のような叫び声の隙間で、母の声がした。無意識に耳を塞いでいた両手をおろす。

「“パパがママのところに戻ってきますように”って。 ——うん、もちろん叶ったわ。あの女がパパの子どもを産んでる時も、仕事が休みの日も、クリスマスも、ずっとママと愛し合ってたのよ」

 母は、また幸せそうに微笑んだ。

「だから、パパはママといるほうが幸せなの。落ち込みやすいパパを優しく慰めて、一緒に泣いてあげることだってできる。あの女と違って、絶対にけなしたりしないわ」

 愛おしそうに父の髪の毛を撫でて、

「この人のためだったら、何だってしてあげられる。私の愛は、とっても深いの」

 脂汗を滲ませている父の頬にキスをした。そして、

「さあ、もうそろそろ帰って。おばあちゃん達が待ってる」

「ママは?」

「ママはもう帰らない。パパと一緒にいくから」

 そう言うと母は父の太腿から包丁を一気に引き抜き、父の喉元に刃を突きたてた。今度は悲鳴は聞こえなかった。痙攣する手足が、しばらくバタバタと床を叩いていたが、ほどなくして動かなくなった。

「——玄関まで送ってあげる」

 玄関のドアが閉まる。ゆっくりと閉まるドアの隙間から、母が血で赤く染まった左手を、小さくふっているのが見えた。ひらひらと揺れるその手は、まるで蝶々みたいだった。



* * *



 夕陽が誰もいない教室をオレンジ色に染めている。

 わたしは母にとって、どんな存在だったんだろう。今さら考えてみたところで、どうにもならない。真相はあの日、両親と一緒に焼けてしまった。


 夜がくる。

 今度はわたしが夜空を燃やす番だ。

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