6章 あなたを妬む理由
第7話
「こんにちは、また来たわ」
「……来た」
その日もリコリは、渋々姉にくっついてあの少年に会いに来ていた。
場所はいつもと同じ、教会の裏。傷だらけらしいのも相変わらず。しかし今日は、木の枝に座って幹に体を預けていた。ちらとこちらを見下ろした少年は、またすぐに枝葉越しに見える空へと視線を戻してしまう。
「今日は木の上にいるのね」
「……」
姉が見上げて話しかけても、少年はやっぱりだんまりだ。
(……リコリが走っていった時は、おねえちゃんに何か言ってたくせに)
リコリはむっとした。まるでリコリが邪魔者だと言わんばかりではないか。
「ねぇ、あなたの名前を教えてくれないかしら」
姉は少年のつれない態度をまったく気にしていないらしい。興味津々な様子で、少年を見上げている。
「……大人にでも訊けばいいだろ」
ひとつ風が吹き抜けるほどの沈黙ののち、そんな声が落ちてくる。リコリは、目をまんまるにした。
(……しゃべった‼)
それは初日以来、初めてのことだった。しかもその時より長い。
しかし姉は、まったく驚いた様子を見せなかった。
「あなたの口から聞きたいの」
「……」
少年が、うんざりしたようにため息を吐いた。
「知ってるなら、それでいいだろ」
「本当に知らないわ。聞こえてきそうになったら、耳を塞いでいたもの」
「は?」
少年が、思わずといった仕草でこちらを見下ろした。何だか初めて少年の“表情”というものを見た気がして、リコリはなおさら目を丸くした。
「どうせなら、その人から名前を聞きたいじゃない。だからお父さんやお母さんが言いそうになったら『言わないで!』って大声を出して聞こえないようにしていたし、村でそういう話をしていそうな人がいたら、耳を塞いで離れて、遠回りして」
「……」
姉が身振り手振りで説明するのを、少年が、呆気に取られたように見つめた。
「わたし、本当にやっていたわよね、リコリ?」
「うん、やってた!」
お陰でリコリまでもが少年の名前を、本当に聞きそびれていたのである。
「何だか、これから読もうとしている本のネタバレを聞いてしまうような気持ちになるの」
姉は大真面目に続けている。そういう時の姉は、ふわっとした優しい花のような笑顔ではなく、ぎゅっと眉根を寄せて、どこかきりっとしているような顔になるのだ。
今もそうで、頭上にいる少年を、ちょっぴり怒っていそうな表情で見上げている。
「でも前におじさん達が話しているのが聞こえてしまって、『ロ』から始まる名前なんだってことが分かってしまったの! おじさん達は悪くないんだけど、とっても、悔しくなって!」
姉の言葉に熱がこもる。
「それはもう仕方ないから、『ロ』から始まる、何て名前なんだろうって、予想してみることにしたの。それで候補を紙に書き出して。リコリにも手伝ってもらったわよね」
「うん!」
「ロビンとか、ローランとか……えぇっと、ロレンツォに、ローリィに、ロバンとかロンとか」
「おねえちゃん、ロイもあったよ!」
「そうだったわ! それからロマネに、ロイドに……あぁ、あと何だったっけ?」
「ロ……ロ……。り、リコリも分かんなくなっちゃった!」
「あぁ、こんなことならその紙を持って来ればよかったわ!」
姉が本気で頭を抱え、リコリも同じように頭を抱えた。少年の名前を考えると思うとむっとしていたが、だんだん、ただただ姉と「ロ」から始まる名前を考えるのが楽しくなっていたのだ。だから今思い出せないのが本気で悔しくなっている。
「……くっ」
大真面目に嘆く2人の頭に、そんな音が落っこちてきた。
(……。へ?)
リコリはぽかんとして、声のした方を見上げた。そしてさらに、ぽかんとした。
あの少年が、喉をくつくつと鳴らして、笑っているのだ。
「……もしかしてわたし、また変なことを言った?」
姉が、頬をじわじわと赤らめて、少年に尋ねる。
「あぁ。相当、おかしかった」
少年が、まだくっくと笑いながら肯定した。姉がさらに顔を赤くする。
「ご、ごめんなさいね。お父さんとお母さんにも、よく人を置いてけぼりにするって言われて、リコリだけがこんな風にいつも一緒に楽しんでくれるから、つい……調子に乗っちゃって」
姉の声が、どんどんと消え入るように小さくなっていく。どうして恥ずかしそうにしているのか分からず、リコリは首をかしげて姉を見上げた。
「妹も分かってないんじゃないか」
「それは本当にやめて……」
少年におかしそうに指摘された姉が、顔を両手で覆って座り込んでしまった。明るい黄緑色のワンピースの裾が、お日様色の髪が、地面に花びらのように広がっていく。
いつものリコリなら、こんな姉の様子を見たら「おねえちゃんをいじめるな!」……と怒っていたことだろう。だが今日はそれができなかった。笑いながら意地悪する男の子はいるけれど、この少年は、笑ってる顔も、姉に話しかける声も、何故か意地悪には思えなかったからだ。
リコリはそんな風に感じる自分にも困惑しながら、とりあえず、顔を隠してしまった姉の頭を撫でてあげた。
「……リコリ、ありがとう……」
恥ずかしげなまま礼を言う姉に、さらに少年が笑い声を立てている。
「……明日、また来たら」
「へっ?」
唐突な言葉に、姉がきょとんと顔を上げた。今や少年は、こちらに向き合うように座り直し、視線も姉にしっかり合わせていた。
「紙、持って来たら。正解があるかもよ」
「……!」
姉が、ぱぁっと顔を輝かせたのが分かった。リコリはまだ言いたいことが分からず、姉と少年とを交互に見た。
「……えぇ、雨でも来るわ!」
「それは家にいろよ」
姉はすっくと立ち上がり、うれしげにリコリと手をつないだ。
「また明日!」
はしゃいだ様子で、遠ざかりながら姉が少年に手を振った。リコリも真似てみる。
少年は手をふり返すことこそしなかったが、まだどこかおかしげに、木の上からこちらを見つめていた。
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