5章 あなたを恨む理由

第6話

待ちに待った新たな詩集を胸に抱いて家に帰ったリコリは、何事もなかったかのように自室にそれを置いて、家の手伝いに取りかかった。料理に掃除に裁縫、それから弟の勉強を見る。


 どれも決して得意ではなかったが、母が昔のようにリコリを咎めることはなかった。苦手なりにでも一生懸命やれば、ありがとう、助かったわと、笑ってくれる。


 ……こうして母が笑えるようになるまで、本当に、時間がかかった。家の中からお日様が消え去って、母はいつも、泣き暮れていた。リコリ、あなたもつらいのにごめんなさい。そんな風に、自分を責めて。


 だから母の笑顔を消さないよう、リコリも笑顔でいるが。


 夜、詩集にやっと目を通せたリコリは、翌日もまたあの花畑へと足を運ぶ。






「……また来たよ、おねえちゃん」


 今日はお昼にはまだ早い時間帯。ここには日が明るい時に来ているが、その時間は毎日バラバラだ。


 今日も水色の花が咲き誇るそこは澄んだ甘い匂いと、春のあたたかさを運ぶ風で澄み渡っている。絶えず花びらが舞い上がっても、地面に敷き詰められた絨毯はみずみずしい色彩のままだ。


 つばの大きな帽子を、片手で押さえながら、リコリは慣れた足取りで花畑の中を歩く。できる限り、花を踏まないようにして。


 そうして、今日はここ、と決めた場所に、腰を下ろす。遠くには雪をかぶった青い峰々。空は快晴。見下ろせばそんな空を映した巨大な湖も臨める。……それから日中でもどこか陰鬱とした、北の森も。


 しかしそれらは、1枚の絵のように美しい光景としてまとまっている。リコリは目を細めた。


(……ピクニックしたら、気持ちいいだろうなぁ)


 とは思うものの、いつもここに食べ物や飲み物を持って行く気になれないでいる。ここで本を読むことすらも。


 だから帽子以外には特に持ち物もないまま、リコリは、ぼうっと遥か遠くに佇む山脈を見つめた。


「……今日も魔獣は、恋をする……か」


 風に乗せるようにつぶやいたのは、昨日読んだ吟遊詩人の手記であった。


 薄い紙束のそれは、昨夜の内に読み終わっていた。そうしてリコリの頭に住みついたのが、その一節。




 ――今日も魔獣は、恋をする。


 歌うように、明かすように。


 しかしその実、喰らうように、飲み干すように。


 恋しいあなたが旋律でも、虚言でも。


 奏でるように、つぶやくように。


 しかしその実、貪るように、啜るように。


 今日も魔獣は、恋をする。




 短い詞なので、簡単に覚えられた。どんな風に歌うのかは、もちろん、文字だけだから分かりようもないが。


 それは音色のように、リコリの頭の中に流れ続けている。


「……おねえちゃんを食べた魔獣も……、おねえちゃんに、恋をしたのかな?」


 ――魔獣が喰らうは、恋した証。


 そんな言い伝えが、まことしやかにこの国に根付いている。こんなにも空気の澄んだ片田舎の村だけでなく、もっと人の行きかう街にも、さらにはきらびやかな王都にも。


 そうしてリコリは、どういうわけかその言い伝えに惹かれずにはいられなかった。


 闇が光を飲み込む黄昏と、闇で満たされる夜にのみ現れるはずの魔獣が、春のきらめく陽光に包まれたこの花畑にまで来るなんて。そうして、姉の顔はきれいに残し、首と腹のみを喰らうだなんて。それだけ、姉への恋が深かったんじゃないだろうかと思わずにはいられなかった。


 好きな誰かを食べるなんて、と、幼い頃は――それこそ姉に甘えていられた頃は――恐ろしくて仕方なかったけれど、姉を魔獣に奪われてからは、ストンと、その言い伝えが胸の奥底にまで落っこちていったのを、リコリは感じていた。


 小高い丘に根付いているこの花畑からは、北の森を見下ろすことができる。とはいっても、決して気軽に歩いて行ける距離ではない。


 日の光も届かない、鬱蒼とした森から、魔獣はこの花畑を見上げていたのだろうか。そうして、無数の花びらと戯れる姉を、焦がれるように見つめていたのだろうか。お日様色の髪をした姉は、遠くから見てもきれいだったに違いない。


 実際は、恋の愚かさを、魔獣に例えているだけだと言われているけれど。それでもリコリは、想像せずにはいられなかった。


 空に勝るとも劣らない、澄んだ青の花畑。そこでさえずるような鼻歌を歌いながら、花冠を作る姉。名もなき獣が、サク、サクと花を踏みながら忍び寄る。音に気が付いた姉がふり返ったと同時、獣が飛びついて。


 あたりに飛び散る、ドス黒い赤。それが絶えず広がって、花々を染めていく。しかしそれにすら目もくれず、獣は、可憐な姉の体を夢中で、それこそ恋い焦がれるように、貪って、啜って、喰らっていく――……、


「――またこんなところにいたのか」


 目を閉じて魔獣の恋に思いを馳せていたリコリは、目を開けた。広がった視界には、どこまでも広がる空と峰々、姉の大好きな花々が咲き乱れるばかり。


 リコリはゆっくりと、後ろをふり返った。


「……私、もう16なんじゃなかったの」


「16だろうが、何度言っても懲りずにここに来ているなら子どもだろ」


 剣を提げた腰に手を当てた青年が、今日もそこに佇んでいる。昨日のことを根に持ってるところもな、と付け足されて、リコリはむっと口を閉じた。


「ほら、もう帰るぞ」


「……」


 渋々という感じを本心半分、装い半分で出しながら、リコリは今日も、ロッカに腕をとられる。


「ジュドのおっさんも言ってたぞ。お前があんまりにもうちに1人で来るから心配だって」


「……常連なんだから、そこは歓迎してもらいたいんだけど」


「歓迎してるさ」


 リコリは思わず、顔を上げた。リコリの腕を引くように先を歩くロッカの表情は、今日も見えない。


「子どもができなくて、奥さんは先に亡くなって、当然孫だっていなくて。お前がガキの頃から変わらず来てくれてることを、ジュドのおっさんは間違いなく喜んでる」


 その口調は、まぎれもなくやわらかくて。


「だからこそ心配してるんだろ」


 いい加減分かれよ、と。リコリに投げかける言葉までもが、やわらかい。


(……今日も魔獣は、恋をする)


 昨日読んだ詞のフレーズが、リコリの頭の片隅から浮き上がる。


「村の奴らみんなジュドのおっさんのことは気にかけてるが、やっぱりお前には甘いんだよ」


 歌うように、明かすように。


「誰が来ても内心うれしいんだろうが、お前が来た時が1番なんだろ」


 ……あぁ、ここのフレーズは何だったっけ。


「お前の為に、吟遊詩人の詩集を置いてるんじゃないか?」


 ここは思い出せる。恋しいあなたが旋律でも、虚言でも。


「絶対、本人に訊いても否定するんだろうけどな」


 奏でるように、つぶやくように。


「だから貸本屋にはまた行ってやれ。けどこんなとこふらつくくらいなら、サリー達のところにでも行ってこい」


 ――しかしその実、貪るように、啜るように。


「……何でそこでサリー達」


「もう16にもなったお前から、16らしいところが見当たらないからだよ」


 しれっと言ってのけたその声は、もう大人ぶった、いつものロッカのものに戻っていた。まるで昨日のことを気にしているのは、リコリだけだと言わんばかりだ。リコリは恨めしげにその背中を見上げた。


 あの頃は長かった赤茶の髪も、今は結びようがないくらい、スッキリと短い。ずっとリコリよりも背が高かったけれど、その差がますます大きくなったような気がしてしまう。リコリの腕を掴む手も大きく、強く、けれど痛くないくらいには、加減をされていて。


(……あぁ、そうだ。『しかしその実、喰らうように、飲み干すように』)


 さっき忘れた部分を思い出す。それはとても、とてもとても、リコリの胸の奥底にまで刺さり込む。


 そうしてリコリは、最後の詞を意地でも思い出さないようにする。

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