あちら側に消えてしまった、そのあとに
あちら側に消えてしまった、そのあとに
隣のテーブルで「一時間半の、ラストオーダーになります」と店員が声をかけた。
四人組のサラリーマンは各々に財布を取り出して会計の支度を始めた。
それはちょうど……僕が、二杯目のビールを半分ほど飲んだ時の事だった。
時計を見れば、十時半を過ぎている。
レモンサワーを片手にぼんやりと壁掛けのテレビを見上げている福浦先輩に「今日も疲れましたねえ……」と幾度目かの、同じ言葉を繰り返した。
金髪ロングで一部を赤色に染めている福浦先輩は、痩せたひげ面の顔を僕に向けて「げぷっ」と小さく息を吐いた。
「おめえ、ずっと揺らしてたもんな」
「まさか、六回もリテイクを食うとは思わなかったですから」
「ギャロップさん、その辺は厳しいからなァ……」
福浦先輩はそう言ってスマホをぽちぽちと叩いてから。
「どこが違うんか、俺にはよくわかんねえよ」
そう言って無音のアダルト動画がスマホの画面内に流れ始めた。
最初のうちは注意していた。
こういう場所でそういうの、やめませんか。まわりに人もいますから、と。
けれども、いまは身を乗り出して画面をぐっと凝視する。
「これ、今年の三月に出したギャロップさんの?」
「そうそう。童貞くんをどうのこうのっていう、榎並企画さんのやつ」
「売れたんですか?」
「いいんや。有料ダウンロードもそこまでハネてないの。柊桜子を使ったけどさ……もう無理だろ。柊さんの事務所もプッシュあったっていうけど、もう実際は四十二歳だろ。プロフ年齢が二十九歳って……限界あるよ」
「じゃあ、これって柊桜子の引退作になるんですか?」
「たぶんな。ほら、軽井沢界隈の同人のやつあるだろ。先月に逮捕された、なんてったっけー?」
「ぶらいと・ホスぴたる?」
「そう。そいつらのやつに、やっぱり柊さん出てたんだってよ」
「うわー。じゃあ、事務所もカンカンだ」
「そらそうよ。年齢のイッたタレントの闇営業だろ? 芸人さんみたいに火力があるわけじゃないけど、事務所からしたらお怒り案件には違いねえわけだからな」
ふうん、と僕はビールを舐める。
柊桜子とは幾度か仕事をしたことがある。
年齢の割に……というか、世間一般の女性のなかでは、すごくきれいな部類になる。
港区女子のような飾った綺麗さではなくて、もっと人間的な、動物的な魅力があるひとだ。若いころはグラビアアイドルに寄っていたし、歳を経るごとに円熟味が増して……『メスの魅力に喰われる』とキャプションにも負けていない女優だった。
いささか、その賞味期限も最近では切れ気味だ。
「好きだったなあー、柊さん」
「おい、まさか恋してたのかよ?」
僕の嘆きに福浦先輩は目を瞠ったが、すぐに「違いますよ」と手を振って否定する。
「すごく礼儀の正しい女優さんだったじゃないですか。僕らスタッフにも、すごく丁寧だったし」
福浦先輩は椅子に身を預けて腕を組んで。
「たしかに」
「ああいう女優さん……最近はいないよなあーって」
「人間が出来てたよな、柊桜子って」
芸名であることは百も承知で、本名や住所は当然に知らない。実年齢を知ったのは最近で、それもネガティブな――あのひと、もう四十二歳だからなという悪評――経緯からだ。
それと比べて、今日のお仕事でご一緒した霞クリスタルはひどいものだった。
ギャロップ監督の肝いりであることは疑いなかったが、化粧水から潤滑剤の香りまで細かい注文が多かった。匂いが強い、薄い、粘り気が弱い……そうした文句が出るなり、僕が近くの量販店や薬局に走った。
そうしてソファの上でシーン撮影で、僕は疲労困憊した。
画面では男性に突かれているシーンを撮影しているのだが、実際には僕が足首から膝のあたりを抱え持ち、前後に彼女を揺らすのだ。そんな僕の前に、カメラマンの福浦先輩がカメラを抱えて彼女を上から撮る。
そうした撮影風景のなかで霞クリスタルは、なまめかしい表情で喘ぐのだ。
性的な興奮なんてどこにもない。
あるのは性的興奮を連想させる映像を撮るための重労働だけ。
福浦先輩はテーブルに置いたスマホの画面を見ながら「わかんねえよなあ」と繰り返す。
「表情が硬いとかさ、柔らかすぎるとか、なにが違うんだ」
今年の三月に発売されたギャロップ監督の作品について福浦先輩は言ったが、まったく同意見だ。
監督のギャロップは演劇の出身ということもあって表情には厳しい。
演技面で厳しい事は良いと思うのだが、いささか僕らには違いが判らない。たぶん、スマホの画面越しにアダルト動画を見ている男性は、そのあたりの技術は求めていないのではないだろうか。
「毎回さ、監督の自己満足に振り回されるのは、勘弁してもらいてえよ」
福浦先輩はそう言ってぐいとグラスを煽った。
僕も頷く。
まだ、腕がじんじんしている。
霞クリスタルの撮影で、彼女をソファーの上で揺らし続けた。
ギャロップ監督はなかなかオーケーを出さない。
表情が……とか、汗が光って見えるとか、霞クリスタルが「くすっ……」と笑ってしまったとか、小さなアクシデントが重なったこともある。
テイクを重ねるごとに僕は顔を赤くして必死になる。
福浦先輩だって大きなカメラを担いで中腰で撮影を続ける。しんどくないわけがない。
しかもハウススタジオは狭く、大きな照明を使っているせいで暑い。
エアコンはついているが、霞クリスタルの体感に合わせている。鳥肌が立ってしまうようなことになってはいけないからだ。
ジーンズに汗が砕ける。粉の匂いと霞クリスタルの香水の匂い――。
そうした現場で、僕らは働く。
こうした現場に立ちたいと願ったわけではないが、結果として『こうした現場』に立つことで生活をしているのだ。
隣のサラリーマングループが会計を終えて立ち上がる。
そのとき、一人の男性がこちらの卓上で展開されているアダルト動画に気づき、ニヤッと笑った。彼がどう勘違いをしたのかは知らないが、いつからか――僕は『こうした動画をそうした理由で見れなくなった』のだ。
これは僕らが作る成果物で、女優さんも男優さんも、結構しんどいことをしている。
撮影スタッフも僕みたいな小間使いも、ニヤっと笑ったサラリーマンたちが描く夢の世界を画面の向こう側に作っている。
月額数百円とか数千円で何万作品が見放題……という残酷な活字が躍る血の海に、僕らは今日も作品をリリースし続ける。
柊桜子が使い古されると霞クリスタルが現れ、きっと別の若い女優が次から次へと入って来る。
若さこそが、武器で、売りだ。
熟達した技術とかキャリアじゃない。
この厳しい世界で戦う女優さんたちには、本当に頭が下がる。
表舞台で脚光を浴びる映画女優ではない。それなのに、どうして戦国時代のような冷酷な世界で戦い続けるのだろうと思う。
「夢、与えられてンのかな」
福浦先輩はそう言って、立ち去って行ったサラリーマンたちの背中を見送った。
「えっ……?」
「俺さ、カメラマンになりたかったの。写真家ってやつ」
「いちおう、カメラマンやってるじゃないですか」
「ちげーよ。自然写真のカメラマンだよ」
彼はそう言ってメニューを手にして、近くにいた店員に僕のビールと追加のレモンサワーを頼んだ。
「専門を卒業してさ、一発目に剣岳に行ったの。仕事でね」
「剣岳って、すごく難しい山なんじゃないですか?」
「ふん。剣岳に限らねえよ。カメラが好きで、街とか丘でパシャパシャ写真撮ってた若者をさ、仕事だって言って剣岳に連れ出したんだぜ、あの会社――」
その会社がどこなのかは、僕はわからなかった。
ただ、専門学校を卒業して……夢に向かって第一歩を踏み出した若き日の福浦先輩は、どこか思い浮かぶ。目を輝かせて「なんでもやります!」と意気込む先輩の姿が、見えた気がした。
「俺さ、登山なんてしたことないのよ。んで、重くて繊細な機材を抱えてさ、行くわけよ。一番の若手だから、へばらないように、頑張るわけ」
「そ、それで……」
「無理よ。剣岳の撮影が終わったとき、もうしんどすぎて頭がおかしくなりそうだった。でさ、稼ぎは微々たるもんなの。俺の給料じゃなくて、会社の儲けね。だから、すぐに次の山に行かなくちゃいけない。ほら、神話とかであるだろ、地獄の山に登り続けるみたいなやつ」
彼は運ばれてきたお酒を手に取って、つまらなそうに口をつけた。
「そういう地獄の時間だったんだよ。で、少しでも弱音を吐こうもんならさ、おまえが自然写真を撮りたいって言ったんだろうがって怒られるわけ」
そこで彼は顔を振って。
「あんだけ好きだった風景とか自然写真がさ、ぜんぜんいいものに感じなくなった。んで、その会社を辞めたのよ。夢が終わったっていうか、壊れたっていうか。ま、俺がアマかっただけなんだろうけど……なんにしても、俺が心の支えにしていたひとつの人生が終わったの」
「なんか、わかる気がします」
「おまえも似たようなもんだろ。将来の夢がアダルト作品の現場スタッフ、なんて奴はいないよ。みんな、なにかしらに傷ついて、挫折して、流れ着いた先が……ここなんだよ」
「ギャロップ監督も、そうですよね、きっと……」
「だろうな。あの人は演劇で食っていきたかったんだろうけど……ダメだった。だから、いま頑張ってるんだろうけど――ははっ、いい迷惑だよ。俺たちには、彼の言う違いがわからないんだから」
たしかに、と僕は頷く。
僕は福浦先輩に言った。
「でも、さっきのサラリーマンみたいな……ああいう大人にだけはなりたくなかった。なにか尖った事をしてご飯を食べたかった。そういう意味では、僕はいまの仕事に満足しているんだと思うんです」
「おっ、いい事を言ったな。そこは俺も同じだ。あんなサラリーマンなんかになってたまるか」
彼はそう言って金髪とアクセントの赤が入った長い髪の毛をなびかせた。
五十代を目前にした男性とは思えない髪型だけれども、僕は嫌いじゃなかった。
「でも、あっちの方が稼ぎ……いいんでしょうね」
「言うな。それを言わないのが、お約束だ」
福浦先輩はそう言ってから「普通の道じゃあ嫌だから、俺たちはここにいる。だったら、普通の生活を羨んじゃいけねえ」と諭すように餃子を口に運んだ。
「普通の生活を、羨んじゃいけない」
僕は繰り返す。
福浦先輩も夢を失った。
絶対に砕けないと思っていた信念のような夢を諦める悔しさを……僕も知っている。
だからこそ、福浦先輩とは年齢が大きく離れていても親しみを感じるのかもしれない。
あのサラリーマンたちにも夢はあるのだろうか。
夢を抱えながら、結婚して、子どもが生まれて、家や車を買って……じゃあ、その夢の実現に向けた準備とか取り組みは、いつしているのだろうか。彼らがどんな商品をサラリーマンとして売っているのかは知らない。
知らないけれども……自分の求める夢――例えば、歌手とかデザイナーとか――に直結する商品を取り扱えているのだろうか。
僕は「違うと思うなァ」と独り言ちた。
レモンサワーをぐいと飲んだ福浦先輩は「んで」とこちらに向き直る。
「おまえ、将来の夢はなんだったの?」
「映画をやりたかったんです」
「ほえー。デカいの持ってたな」
「まだ、諦めたわけじゃないんです」
「いいじゃんか。なれるよ。いまの現場にいりゃあ、いろいろ学べる」
はい、と僕は頷く。
大学生時代に短い映画を撮った。
学祭で上映して、結構いい反響をもらえた。
だから、僕はその道で頑張れる方法はないかと探った。
たくさんの仲間がいた。
でも、ほとんどは『普通の道』に行くために消えて行った。
大切にしたいという人たちが、普通の道に――まるで僕が異端であるような目で、分かれ道のあちら側に行ってしまった。
僕が悲しい顔をしていたのか、福浦先輩は餃子を食べながら言った。
「俺たちは夢を追ってる。だから、ちょっとだけ夢を分けてやるんだよ。スマホの向こう側にいる、あのサラリーマンたちが思い描く、夢のお花畑を作ってるんだ」
彼は身体を揺らす所作をした。
霞クリスタルが上下に揺れる姿を思い出す。
単純に、僕に揺すられているだけの女優の姿――。
でも、それを画面越しに見たサラリーマンたちは、余計な妄想を膨らませて興奮してくれる。
夢のおすそわけだ。
僕はちょっとだけ笑ってから。
「次の現場も、頑張りましょう」
「あたりまえだ!」
そう言って僕らは改めて乾杯した。
* *
福浦先輩と別れて、僕は最寄りの駅から自宅に向かって歩く。
スマホの向こうに見える夢――。
「夢のおすそわけ……か」
僕も福浦先輩も夢を追っている。
その名残を諦めきれていない。
ギャロップ監督だって、きっとそうだ。
そういう漂流者たちが集まるハウススタジオの現場――。
そこで夢のない大人たちに向けた『夢』を作っている。
変な話だ。
ゆったりとした丘陵地の坂を上りきったところで、街のまばらな灯が視界に入って来た。
明かりのなかに、温かい家庭の団らんがある。
僕が最初に手放した『ふつうの道』の典型が、あちこちに灯っている。
それを直視したくなくて、歩調を速める。
大学時代に付き合っていた彼女がいた。
一緒に映画を撮り、よくケンカもしたし、若い熱意をぶつけ合った。
そうしたなかで彼女の才能を羨んだし、僕のアグレッシブさを「あんたって、すごい」と褒めてくれた。
それが嬉しくて、もっといい映画を撮りたいと思ったものだった。
僕はふとスマホの画面に彼女の名前を入れて検索した。
SNSのアカウントが表示される。
夜の電灯のしたで、明るいスマホの画面が光る。
あの頃の名残のある女性の自撮り写真が、タイムラインに現れる。
そこには、料理と犬と子どもの写真がずらっと並んでいた。
旦那と郊外の家と赤いBMWも――。
僕はスマホの画面を消して、曇った空を見上げる。
検索したことを後悔し、普通の道を手放したことを後悔しないように努めた。
けれども、涙が溢れてきたのは……どうしてだろうか。
街には幸せそうな明かりが灯っている。
あとどれぐらい『彼ら』のスマホに夢を映し出せば、僕は幸せになれるのだろうか。
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