女雛(めびな)
女雛(めびな)
「俺さ、町田さんのチカラになりたいんだ。だから、こんなタイミングで本当に申し訳ないんだけど……その、町田ッ、いやっ、真凛さんッ……付き合ってくれませんかッ!」
頭を下げられて、右手がぐいと差し出された。
握手を求められている。
その手を握れば『同意』とみなされて、わたしは加藤くんと付き合うことになる。
うれしい。
本当に、うれしい。
サッカー部で活躍する加藤くんは背が高くて、気配りができて、格好が良くて……。
若手俳優の小黒流星に似ているのもいい。声だって綺麗だし、話しかけられたら最悪だった一日がハッピーになる。
そういう人から、告白を受けた。
十七歳になった、その三日後に――。
来週から夏休み。
たぶん、彼は夏休みをわたしと一緒に過ごしたい。そういう算段があるから、いま告白したのだろう。
誰もいない、美術準備室の前で――。
わたしは顔を振る。
涙があふれる。
「なんで、いまなの」
ぽつりと声を漏らす。
加藤くんは「……えっ」と不安げな顔をあげる。
その整った若い顔が、混線する悪夢の『貌』と重なる。
同じなんだ。
まったくもって、同じなんだ。
「ううっ……!!!」
不意に胃液が胸を駆け上がってきて、両手で口元を塞いだ。
告白の返事をしなくちゃいけない。
でも返すべき答えも、まとまらない心の内側も、なにもかもがバラバラだった。
わたしは走り出していた。
口を押えて、トイレに向かって全力疾走――。
背中に「町田さんっ!」という不安げな加藤くんの声が聞こえた。
涙が、また出た。
加藤くんは悪くない。
悪いのは、わたし――。
わたしが悪い。
加藤くんは関係ない。
だから、涙が出る。
「あんたが悪いんでしょ!」
イヤホンを耳に押し込んでスマホでバラエティ番組を大音量で見ていたのに、その悲鳴のような声は壁や扉を貫通して、わたしの耳に届いた。
二日前のこと。
つまり、誕生日の翌日のことだ。
味気ない、儀式的な誕生日の翌日に、パパはママと話し合いの機会を持った。
うまくいってくれればいい。
でも、うまくいかないであろうことは目に見えていた。
そうして、ママは叫んだ。
「あたしばっかりなの? あたしなんだ。ふーんっ、そうよね、そうなるよね! わかってるんだって! でもさ、あんたは悪くないの? 悪いんじゃないの! あんたが嫌になったから、こうなったって言うこと、どうしてわかんないのよ!」
バラエティ番組で芸人さんがおとぼけたことを言って会場が笑いに包まれている。なのに、ママの声はそれすら上書きするように、耳に届く。
わたしは枕をぎゅっと抱えて、目を閉じる。
「あんたが悪いんだよ、どう考えても」
枕に向かって、感想を述べる。
ママのことを『あんた』と呼ぶ。もう『ママ』とは呼びたくなかった。
パパがなにかを言った。
静かな、落ち着いた、冷静な声で言ったと思う。
するとドンドンドンという地団駄を踏む音が響いてから。
「あんたが悪いんだって!」
絶叫する母の声とグラスが割れる音が聞こえた。
わたしは部屋を飛び出して、リビングに出て。
「うっさいんだよ! バカ女ッ! おまえが悪いだろうが!」
そう言ってリビングボードに置いてあった写真立てをママに投げつけた。
ガラスが割れて、床に散らばる。
三人で撮った写真――。もう数年前に亡くなってしまったポメラニアンのアルタも映っている。
そんな思い出のすべてが、いまは嫌だった。
「真凛っ、ほら、やめなさい」
ずんぐりむっくりとした大男のパパは、わたしとママの間に割り込んだ。
「どいてよ!」
「危ないから」
「どいてって!」
「落ち着いて」
次の写真立てを投げつけようとするわたしの手をぎゅっと掴む。
汗をかいた、ごつごつごとしたパパの手――。
わたしは悔しくなって、あふれる涙をこらえながら――でも、堪えきれなくて――あの女に絶叫する。
わたしを産んだ、あの女に。
「おまえが不倫なんてしなかったら、こうならなかったんだよ!」
言葉になっていただろうか。
ただ、押し寄せる思いが胸を貫いて声になった。
わたしは部屋の扉を叩きつけるように閉めて、部屋で泣いた。
泣きながら、遅れていた月経が『いま』来たことに身体と運命を呪いたかった。
ママは不倫していた。
加藤くんや小黒流星に似ている、パート先の大学生と不倫していた。
わたしの身体や脳みそには、大切な家族を差し置いて年下の男に腰を突き出す女の血が流れている。
* *
家族って、こんなに壊れやすいものだったんだ。
加藤くんに告白されて、返答も出来ないままトイレに駆け込んで……。
授業が始まっていたのに、トイレの前で加藤くんは待っていてくれた。
彼は「だいじょうぶ?」と優しく声をかけてくれた。
その優しい表情すら、不安定なわたしにはずきんと響いた。
返答できずにいるわたしに「顔色が悪いから、保健室に行った方がいいよ」と心配してくれた。わたしは「ごめん」と小さくつぶやくばかりで、彼の手を「いまは、ごめん」と拒絶した。
少し悲し気な顔をする加藤くんに申し訳なさを感じながら、ふたりで保健室へ来た。
保健の先生がいなくて「オレ、呼んでくるから」と職員室へ彼は走って行った。
保健室にひとり残されたわたしは、口のなかに不愉快な胃液の酸っぱさを感じながら、丸椅子に腰かけた。けれども、背もたれが欲しくてベッドに横たわった。
乱れた月経の周期が、嫌な倦怠感を身体に与えてくる。
こんなときに優しくしてくれる加藤くんが、ありがたかった。
でも、パパとは違うタイプの男――。
あの女が不倫した大学生と同じ系譜の男――。
それを考えると吐き気が胸からあがって来る。
「――うぇ、うええっ!」
近くのゴミ箱を手繰り寄せて、胃液も出ない嗚咽を繰り返していた。
胸がドキドキする。
単純に苦しいドキドキ。
「いやあー、つらそうですねえ」
「ひあっ!」
不意に響いた男性の声にわたしは飛び上がった。
見れば、先生が座る椅子に白衣を着た中年の男が座っていた。
「ああ、驚かせてしまってすいません。清水先生の代理です。用事があるとのことで、今日は臨時で入らせていただいているんです」
「あ、あなたは……?」
「近くでクリニックをやっている者です」
そう言って彼は胸の名札を示した。
そこにはエム医師と書かれていた。
「エム医師……?」
「どちらかと言えば、処方箋を出すことが仕事です。身体の不調は心から来ていることが多いですから、その心を整えるための処方箋です」
ねっとりとした口調のエム医師に、わたしは口元を拭いながら眉を寄せる。
このひとは保健の先生なのだろうか。
怪訝にエム医師を見つめていると「素敵な男の子が、あなたの事を心配していましたよ」と加藤くんのことを口にした。
「あんな素敵な男の子に好意を持たれて、さぞ青春を楽しまれて――いないように見えるのは、どうしたことでしょうか」
「よ、余計なお世話です……。あの、いま、調子悪いので」
ほっといてくれませんか、とベッドのカーテンを閉めようとしたとき、彼は鞄から一対のひな人形を取り出した。台座もない、紺色と薄桃色の人形――。
「いつの時代も男女の関係は難しいものです。そうした恋煩いで苦しいのなら、この『流し雛』をお使いなさい」
「流し雛……?」
「悪いところを刺すのです。するとひな人形が身代わりとなって苦痛や悩みを受けてくれます。最後にはお焚き上げで清めれば、きれいさっぱり……あなたの悩みは消えてなくなります」
「あの、わたし……そういうんじゃ――」
「要は身代わり人形です」
エム医師はそう言って一対のひな人形を机の上に置いて、ほほ笑んだ。
不気味なひな人形の笑みとエム医師の表情が、重なった。
小学生の頃は桃の節句で部屋に飾ったりした。
独特の梱包からひな人形や台座や屏風を取り出して、パパがセットしてくれて……ママの指示を聞きながらわたしが人形を飾っていった。
あの頃は、パパもママも笑っていたのに……。
「うぶっ……!!!」
気持ちの悪さが胸にこみあげてきて、またゴミ箱を手繰り寄せた。
あんなに優しくて、料理も裁縫も出来て、凛としていた自慢のママ――。
それが、あんな大学生と不倫していたなんて!
若い男のみずみずしい身体をぎゅっと抱きしめて、わたしやパパには見せない声や表情で子犬みたいに鳴いていたのだろうか。気色悪いスマホの広告バナーに書かれているような、卑猥な言葉を一心不乱に叫んだりしたのだろうか。
強制されたわけでもなく自主的に腰を突き出して、わたしを産んだ道に無関係な大学生の異物を受け入れたというのだろうか。
わたしが学校で、パパが職場で日常を淡々とこなしているときに、ママは大学生と繁華街の涼しい一室で秘密の時間を過ごしたのだろうか。
そう考えると――気色が悪くて、気持ちが悪くて、頭が、身体が、すべてが、どうにかなりそうだった。
わたしは早退した。
帰りたくなかったけど、わたしには帰る場所が自宅しかなかった。
誰もいない自宅――。
両親はこれからに向けて『前向きな話し合い』をするのだろう。
この大人ぶった言い方が、大嫌い。
わたしはもう前向きにはなれない。
時間が解決してくれる、なんて生半可なものじゃない。
パート先の大学生で仕事をよく教えてくれるの、とママが不倫相手の大学生を自宅に招き入れて紅茶とケーキを振舞っていたことがあった。
わたしが予定よりも早く帰って来たので、偶然に遭遇したのだ。
そのときわたしは「嫌になっちゃうよね。ママの好みとわたしの好みって、ほんとに似てるんだから」とふざけて言ったものだ。
だから、加藤くんと大学生の間にはたくさんの共通項がある。
抗い難い、あの女から生まれた『わたし』に備わった呪いの共通項が――。
その言いぐさを聞いたママは「もぅー」といつものように笑い、相手の大学生は「嬉しいなあー」と朗らかにほほ笑んだ。
あの男が、わたし達の家庭を破壊する原因になるとは思わなかった。
わたしは鞄からエム医師が保健室に置いて行ったひな人形を取り出した。
結局……持って帰ってきてしまった。
机の上に置いたひな人形をしばらく眺めて、こうして一組の男女が隣り合って長い時間を過ごすのは、あんがい難しい事なんじゃないかと思った。
パパもママも幸せな夫婦のひとつで、絶対に離婚なんてしない両親だと思っていた。
それが、あっさりと終わろうとしている。
パパが「やり直すから」と言ったとしても、わたしが無理だ。
あの女が入った風呂のあとなんか入りたくないし、洗濯物を一緒に洗ってほしくない。出来る事なら、同じ空気も吸いたくない。食卓も囲みたくない。家族の戸籍から分離したいし、あの女から生まれた事実すら消したい。
それだけ、気色悪い存在に思えてしまう。
「どうしたらいいのよ」
ぽつりと言って。
「どうしたらいいのって!」
ベッドにあった目覚まし時計をひな人形に投げつけた。
鋭い角度で投げつけられた時計は机の角に当たって、プラスチックのフレームが割れた。先日の写真立てが割れたみたいに、きらきらと鋭い星くずが床に散る。
不愉快な胃液は上がってこない。
上がってこないかわりに、壊れてしまった家族のカタチが悔しかった。
わたしは机に近づいて文房具が入った抽斗を乱雑にあけた。
そこからハサミを取り出して。
「ふざけんなっ! ふざけんなよ!」
薄桃色の着物を着た女雛の脳天にハサミを振り下ろした。
ぐさっ、ぐさっ、ぐさっ……と何度かハサミを打ち付けて、その腹に、忌々しいわたしを宿したであろう腹に刃物を突き立てた。
「なんなの、なんなの、親子って! 母親ってなんだよ! なんなんだよ!」
呪いの人形で、あの女の身体がずたぼろになってくれればいい。
そう思いながら、必死にハサミを振り下ろした。
それでも怒りが収まらなくて。
「なんなの、本当になんなの!」
若い男を――。
加藤くんみたいな整った顔つきの男を、なんで求められるの。
わたしとパパがいるじゃん。
家族があるじゃん。
旅行に行ったり、卒業式で写真撮ったり、わたしが誰かと結婚して、あんたは結婚式で両親としてあいさつするんだよ。孫が出来たら、あんたはどんなおばあちゃんになりたいの……?
そういう未来があったはずなのに、なんでパート先の……。
「あんな男にオンナを出せるんだよッ! 気色悪いんだよ!」
台所から持ち出してきた包丁を振り上げて、女雛に振り下ろした。
鈍い音がした。
すでに女雛はぐしゃぐしゃになっていて、もとの美しさはない。
「あっ、ああ……」
わたしはへろへろとその場に座り込んで、止まらない涙の熱さに辟易しながら。
「パパ、ごめん……」
ただ一言だけ、そう残して……握っていた包丁で自分のおなかを刺した。
きっと加藤くんと付き合っても、わたしは似たようなことをする。
だって、わたしは……ママの娘だから。
* *
目が覚めたとき、外は真っ暗だった。
場所は病院で、わたしはベッドで横になっていた。
「……パパ?」
ちらと傍らを見るとワイシャツ姿のパパがこうべを垂らして眠っていた。
「あ、ああっ、真凛、気づいたか。動くな、また痛むだろうから」
そう言ってパパは傍らのナースコールを押して看護師を呼んだ。
いまがいつなのか。
なにがどうなったのか。
いろいろなことがわからない。
ぽっかりと空白が出来ていて、おなかがちくちくと痛む。動こうと思うと激しくズキズキする。
パパはずっとわたしの手を固く握りしめてくれていて。
「ねえ、ママは……?」
「いいから。もう」
わたしの問いかけには、なにも答えず。
「おまえは心配しなくていいから。安心していなさい」
「安心なんて、出来ないよ」
反抗的に呟くわたしの手を、やっぱりパパはぎゅっとしてくれる。
言葉じゃないんだ、この人は。
顔でも体型でもない。
見た目じゃない。
「ごめんなさい……」
わたしはパパに謝った。
だって、イチバンつらいのはわたしじゃなくてパパなのに、どうしてこの人はまったくうろたえずに、自分の足で歩き続けようとするのだろうか。
ぎゅっとするパパの手を強く握り返す。
「わたし、頑張れるから」
短く、わたしは言った。
この手だけは、離したくなかった。
* *
病院を遠く見つめていたエム医師は「いやはや……」と頭を擦る。
「ひな人形ではなく自分を刺してしまうとは思いませんでした。けれども、あの子なら苦難を乗り越えられるのかもしれませんね」
ゆったりとした歩調で、自分のクリニックを目指す。
「しかしながら、家族とはもろいものですねぇ。独り身のわたしには、あんまりわからない世界ですけれども……」
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