水餃子の街でツバサ・ナビを餞別に
水餃子の街でツバサ・ナビを餞別に
水天宮さんが退職するという話は、倉本真一(くらもとしんいち)にとって寝耳に水だった。
「えっ……来月ですか。もう来月にはいないって事ですか?」
「んまあ、そうなるな。いろいろとお金の面で区切りがついたって言うのが、正直なところだ。いつまでもこんな仕事を続けられるわけでもないだろう。身体のこともあるし……」
白髪交じりの角刈りを掌で撫でつけるようにして、水天宮は言った。
今年で四十八歳になる水天宮は、優し気な皺を寄せて笑った。
まるで『この世界から足抜け出来ること』を喜んでいるようだった。
「でさ、倉本くんに餞別があるんだ。俺の車まで来てくれるかな?」
「餞別って……」
真一が勤めている会社は全国に営業所がある『運送会社』である。
誰もが街中で目にする『黒兎運送』である。
今年で二十八歳になる真一は体力には自信がある。
元甲子園球児で、東東京の代表として憧れの舞台に立った。三番サードで活躍したが、一回戦で母校は敗れた。その後、大学で野球を続けたが……絶望的な腰のケガで選手生命を絶たれた。
勉強ができたわけではない真一は、その後になんとか就職するが……いくつか職を転々として、いまの『黒兎運送』に落ち着いた。
いまでこそ四年目の社員であるが、一年目の時は配達が終わらずに四苦八苦したものだ。
そのときに助けてくれたのが、水天宮だった。
配送量は日に日に増え、配達が間に合わない事が当たり前だった。
終電までに配送が終わればいいが、そうでない日は会社に泊まった。そうしたときにも水天宮は付き合ってくれたし、配送のコツのようなものを教えてくれたりした。
つまり、頼れる先輩だったのだ。
水天宮の配送トラックは古くなってはいたが、綺麗に整頓されていた。
とくに運転席周りは綺麗だった。
「でも、水天宮さんはすごいですよ。警察に捕まったこともないわけでしょ?」
「ははは、まあね。コツがあるから」
「そんなの、わかりませんよ」
水天宮のすごいところは駐車違反や信号無視などで警察の世話になっていないことだ。物損や人身事故は論外であるが、配送をするうえで軽微な交通違反は日常茶飯事――。
真一が一年目の時は、先輩の交通違反の『替え玉』として警察署へ出頭し、点数を切られたりした。違反金は先輩が払うが、点数を引かれて運転が出来なくなれば営業所の配送自体が滞ってしまう。そのため、若手はいつも犠牲になった。
「いまはさ、若い子に身代わりをさせるわけにもいかないから、大変だろう」
「そりゃそうですよ。俺らはやられ損ですって」
いまの営業所長の田口が、もっとも交通違反を犯す先輩だった。
でっぷりと太った田口は、配送員時代には多くの違反を取られ、替え玉を必要とした男だ。
いまの営業所長としての働きぶりにも疑問符が付くが……とにもかくにも、人手が足りないのだ。
「水天宮さんが所長になってくれればよかったのに……」
「俺は現場で身体を動かすのが好きなんだ。ただ、もう年齢には勝てないけどな」
そう言って水天宮は備え付けの車載モニターから小さなSDカードのようなものを抜き取った。
「これ、やるよ」
「なんですか、これ……?」
「『ツバサ・ナビ』ってんだ。俺のすべてが入ってる」
「……先輩の、すべて?」
水天宮はにっと笑ってから言った。
「いいか、よく聞けよ。これはおまえの仕事に革命を起こす。だけどな、あと三か月で期限が切れる。少しでも仕事が楽になればっていう親切心でこれを渡すわけだけど……くれぐれも使い過ぎるなよ」
そう言って彼はSDカードを押し付けるように真一に渡した。
「えっ、だから、これはどういう……」
「まあ、使ってみろ。わかるから」
水天宮はそう言って片手をひらひらさせて営業所へと帰ってしまった。
真一はSDカードを見つめて……。
「わかんねえときあるんだよなァ。水天宮さんって」
そう呟いた。
ツバサ・ナビがどのようなものかは、すぐに理解した。
最初は「う、うそだろ……」と度肝を抜かれた。
会社から貸与されているナビに、新たなマッピングレイヤーが上書きされる。
真一が担当しているエリアは都内の下町地域で、ほぼ都県境の区である。
この区の厄介なところは、一方通行が多く、エレベーターのない団地が林立している点に加えて『水餃子』という名前の『地主一族』が住んでいる点だ。
どういう経緯かはわからないが『水餃子』というバカげた名前の一族が、あちこちに大きな屋敷を構えている。団地で生活に四苦八苦している人の脇で、水餃子の人々は庭でバーベキューをしたり、全国各地からグルメな食材を取り寄せたり、巨大なテレビを購入したりと楽しく暮らしている。
つまり、配送上でどういう弊害があるか。
リストに「水餃子太郎」「水餃子次郎」「水餃子三郎」という具合に「水餃子」がぶわーっと並ぶわけだ。つまり一丁目の水餃子なのか、二丁目の水餃子なのか、こちらで正確に判断をしなくてはいけない。
標準搭載されているナビが、配送リスト情報に基づいて最短経路を計算するが……これは単純に順路を計算したものに過ぎない。
配送指定時間も加味されているが、この水餃子たちは『自分たちが要求した配送指定時間に出てこない』連中であったりする。そのために再配達で時間を取られ、一方通行の罠にかかり、大通りで待機している警察によくサイレンを鳴らされる。
水天宮が餞別に与えてくれた『ツバサ・ナビ』は、どういうわけか『そうした事象すら織り込んで』ルートを計算する。
荷台に積みこむ荷物も指示してくる。
後入れ先出し法で、荷台の出入り口に近いものを次々に運び出す計算で積み込み順を指示してくれる。警察が張っている場所も予想して『ここは通るな』『止めてはいけない』と教えてくれる。
水天宮が有休消化を使い始めたころ、真一は驚くような速度で配送が捗るようになった。
不在宅はスルーされ、在宅の家々に荷物を届ける。
チャイムを押せば住人が出てくる。荷物の運び出しも楽になった。
手前側から順々に運び出せばよいからだ。
警察の取り締まりに引っかかることなく、駐車禁止の札を貼られることもない。
驚くような速度で仕事は終わり、明るいうちに帰宅できるようになった。
「最近さ、倉本くん……早くない?」
所長の田口はそういって真一が『不正』をしていないか、事細かに確認を始めた。顧客から荷物の不配届が来ていないかとか、配送トラックの走行履歴をみたりと……田口は存分に営業所長としての『シゴト』をやっていた。
不正などない。
すべてしっかりと届け、警察の世話にもならずに営業所へ戻ってきているのだから。
そうした日々のなかで長野結衣(ながのゆい)の苦労に気づいた。
真一がゆっくりと残務処理をして、晩飯を近くの牛丼屋で食べて……営業所の前を通って帰宅しようとしたとき――長野結衣の配送トラックが、二次配送を終えて戻ってきた。
時間は午後十時である。
「最終便、どれぐらいあるんだよ」
最後の荷分けをしている長野結衣に声を掛けた。
「そんなにないんです。でも、再配達がちょっとあって」
「場所、どこだっけ?」
「尾久から十条のほうです」
真一は夕食で酒を飲まなくてよかったと思った。
「俺さ、昔そっちのほう廻ってから手伝うよ。リスト、こっちにまわしてくれる?」
「えっ、でも……」
「いまから頑張れば、終電までには終わらせられるから。ほら、リストと荷物を!」
長野結衣は今年で三年目だと思う。
新卒で入ってきているから、年齢こそ離れているが勤務歴は近い。
結衣に再配送の荷物を渡し、夜便の荷物を自分の配送トラックに積み込んだ。
こういうとき、もう我武者羅だ。
真一は『ツバサ・ナビ』にデータを入力し、最短経路で配送をこなしていく。
長野結衣が営業所に戻って来たのは、午後十一時四十分ごろだった。
二十分ほど前に戻ってきていた真一は缶コーヒーを彼女に投げ渡した。
「おつかれさん。終電、間に合うか?」
「あの、ありがとうございました。倉本さん、早すぎですよ」
「むかし、廻ってたエリアだからさ。それより、おまえ終電は?」
ふふふっと結衣は笑ってから。
「うち、自転車で行ける距離ですから。電車、関係ないんです」
「えっ、そうだったの?」
「はい。だって、毎日終電を逃してしまうので、こっちに引っ越してきたんです」
「そ、そうだったのかあ……」
仕事が終わらずに終電を逃す。だから、営業所の近くに引っ越してきた……。
こんな都合が『普通』だと思ってしまうのが、いまの運送業界であり『黒兎運送』の現実だ。
長野結衣は深く頭を下げて。
「助かりました。手伝ってもらって、ありがとうございます!」
「なら、一杯ぐらいおごってくれよ。メシまだだろ?」
「えっ……? それでいいんですか?」
「いいよ。俺も身体を動かして腹減っちゃったから、メシ行こうぜ」
そう言ってふたりでファミリーレストランへ入った。
本日二度目の夕食だったが、長野結衣とふたりきりでご飯が食べられるのなら、ぜんぜん苦ではなかった。
長野結衣はずっと学生時代は陸上をやっていたと話した。
長距離の選手だったというが、競技者として活躍するには実力が足りなかったのだとか。
「実業団だなんて、ぜんぜんそんなんじゃないですよ」
彼女は可愛らしい目を見開いて否定しつつ「でも、先輩は甲子園いってるんですよね。それってあと少しでプロだったって事ですよね?」と聞き返してきた。
甲子園に行ったことを言われるのは、嬉しい。
嬉しいが……『あと少しでプロだった』という事実が、胸にちくりと刺さる。
もし歯車がかみ合っていれば、東京ドームや明治神宮球場でバッターボックスに入っていたかもしれない。それが、水餃子のための荷物を運び続けている。
「あの、先輩って次のお休みっていつですか?」
「えっ、ああっと……木曜日だったかな」
「あ、わたしも木曜日が休みなんです。もしよかったら、お昼ご飯とか行きませんか? 家で作るの面倒くさくって」
真一は願ってもない申し出に「もちろんだよ」と快諾した。
幸いなことに『黒兎運送』でカネは貯まる。
使う時間がないのだ。
だからこそ、休みの日の昼飯ぐらいは外食したい。
そうして二人は数日間の勤労を経て、木曜日の昼食を一緒に食べた。
それから流れで映画館に行き、夜ご飯を食べ、何事もなく別れた。
お互いに気があったし、年齢は離れていたが話は盛り上がる。
最初はそこまででもなかった結衣の表情のひとつひとつが、自分のなかで大きなものになっているのだと気づいた。
彼女は休みの日はジムで身体を鍛えているといった。
真一が一緒にジムに通い出したのは自然な流れだった。
休みの日は結衣とジムへ行き、昼食を食べて、買い物をして、夕食を食べる。
外で会っていたのが、お互いの自宅で会うようになり、自然な流れで交際が始まった。そのまま結婚を前提にしているのだとお互いに意識をしながら……月日は流れた。
田口から呼び出されたのは、そうした日々のなかでのことだった。
「人数を増やす関係でね、キミを『主任』にしようとおもうんだけど……どうかな」
「主任って……?」
「まあ、コース編成やら荷物の振り分けなんかを仕切ってもらうんだ」
それは田口の仕事を引き受けるというわけか。
「給料はどうなります?」
「いちおう、主任という正式な役職が会社としてあるわけじゃない。うちの営業所がパイロット的に導入して、うまく行ったら全国に広げるというものなんだ」
「つまり?」
「んまあ、倉本くんの将来の事を思えば、引き受けてもらいたいんだ。会社の新しい流れを作るわけだからね」
「違います。あの、給料がどうなるかを聞いてるんです」
田口は少しムッとした様子で、ぶっきらぼうに言った。
「そら、バックオフィス業務だから、いまの歩合はもらえないよ」
「なら、お断りします」
歩合があってこその『黒兎運送』である。
ただの事務員で、会社から承認されたわけでもない名ばかりの『主任』という役職で、田口の業務を肩代わりする。まっぴらごめんだ。
「おい、倉本ッ!」
田口の声を背中に聞きながら、配送トラックに戻った。
変な呼び出しのせいで、朝から出遅れてしまった。
いつものようにエンジンをかけて『ツバサ・ナビ』を起動させる。
すると、画面に妙な文字が警告として現れた。
『――利用期限は、あと三日です』
たしかに水天宮は『あと三か月で期限が切れる。少しでも仕事が楽になればっていう親切心でこれを渡すわけだけど……くれぐれも使い過ぎるなよ』と言っていた。
言われてみれば、水天宮が営業所を去ってから……そろそろ三か月になる。
真一は『ツバサ・ナビ』のSDカードを抜きだし、そこに書かれている会社情報を読み取った。それをスマホで調べて……。
「あとで、電話してみるか。期間延長をしてもらわないと」
結局『ツバサ・ナビ』の製造元に連絡をとったのは、使用できなくなった当日だった。
忙しさにかまけて、すっかり電話をするのを忘れていた。
そして、なにより――。
「よ、四千万ってなんですか、それ――!!!」
データ利用を継続する場合の金額が四千万円だと電話口で言われた。
これから結衣と結婚するにあたって、少しずつでも結婚資金をためようと話していた矢先だった。
「くそっ! バカにしやがって!」
真一はスマホを叩きつけるように切った。
四千万円はどうにかできる金額じゃない。
そもそも『ツバサ・ナビ』がなくても仕事はできる。
水天宮から『ツバサ・ナビ』をもらうまでは、会社から渡されているナビで仕事をしていたのだから。
真一は三か月ぶりに、会社が発行する荷物のリスト、配送リストをもとに仕事を行った。
こんなにもキツかっただろうか。
訪問する、不在。
訪問する、不在。
訪問する、不在……。
積み込んだ荷物をトラックの奥から引っ張り出すのに、いくつかの荷物を動かさなくてはいけない。そうして引っ張り出した重い荷物を抱えて訪問する……が、水餃子は不在だった。
次の配送に向かい、あっという間に時間は過ぎていく。
いつも以上に時間がかかっている。
慌ててアクセルを踏み込んだとき、背後からパトカーのサイレンが聞こえた。
「運転手さん、左に寄せて止まってください」
スピード違反を切られた。
久しぶりだった。
「くそっ!」
ハンドルを叩き、ぐっと奥歯を噛みしめる。
まだ、配送が終わっていない。
時計は午後八時を回ろうとしている。
最終便であるが、まだ再配達が残っている。
そこへ仕事用の携帯が鳴った。
「ちょっと、どこにいるのよ! 七時に届けてって言ったでしょ! 水餃子です!」
「あの、どちらの水餃子さまでいらっしゃいますか」
「水餃子って言ったら、水餃子でしょうが!」
きんっ、と響くような声で女性は叫び、電話は一方的に切れた。
リストをもとに配送履歴を確認する。
七時から八時の時間指定で、七時半に訪問し、不在ではないか。
五丁目の水餃子だ。
品物は十数年物のワインだった。
真一はルートから外れて、五丁目に向かう。
もし営業所に連絡を入れられれば、田口からなにを言われるかわからない。
警察から違反切符も切られている事だし、これ以上の面倒は起こしたくなかった。
いろいろな事を考えたら、怒りがふつふつとわいてきた。
なぜ、こんなに現実は理不尽なのだろうか。
それらのイライラをぐっと飲み下して、ぎゅっとハンドルを握る。
これ以上の面倒ごとを起こしてはいけない。
いけないんだ……。結衣と穏やかな結婚生活を実現させるために――。
五丁目の水餃子の自宅に荷物を届けたとき、神経質そうな夫人が出てきた。
水餃子夫人――。
彼女は言った。
「どーしてくれるのよ。今日、必要だったの。そのワイン!」
「えと、あの、申し訳ありません」
「うちはね、時間指定してるでしょ。なんで時間通りに来ないのよ」
この言葉には反論しなくてはいけない。
「あの、七時半ごろにお伺いしているんです。時間通りに来てるんです」
すると水餃子夫人はハッとして「んまあっ!」と甲高い声を出して。
「うちにはね、パピニアちゃんがいるの。彼のお散歩の時間に、文句をつけるって言うの……あっ、なに、あなた、うわっ、汗臭いのねえ。ちょっと玄関がくさくなるから、近づかないでいただけます――?」
そう言って彼女は真一からワインの包みをぶんどった。
「さっさと帰りなさい、配送屋! それとうちに来るときは、身なりを整えて――」
瞬間、真一は考えよりも、身体が動いていた。
五十代と思しき線の細い女性を突き飛ばし、馬乗りになって、拳を振っていた。
眼鏡が飛ぶ。
血が飛ぶ。
「なにが臭ぇだ! くそばばあ! テメエみたいに地主で食ってるヤツに俺らの気持ちわかンのか! てめえのアタマが餃子かどうか、確かめてやる!」
真一が気づいたとき、すでにワインのボトルと水餃子の頭は割れていた。
ぜえぜえと真一は激しく息をつきながら、軽い頭痛に眉を寄せた。
* *
「だから言ったじゃないか」
テレビ報道を見た水天宮は、ソファの上で大きくあくびをした。
妻が台所で夕食を作っている。
「人間はね、欲を出したらダメなんだよ。お金も、仕事も、異性もね。何事も腹八分目がちょうどいいってもんよ。水餃子だけにね」
油物をしていたらしい妻は「ねえ、いまなにか言いました?」と聞き返してきた。
「んー、なんでもないよお」
水天宮は白髪交じりの頭を掌で撫でつけながら「五千万でも『ツバサ・ナビ』は買うべきだったね。いやあ、倉本くんは人生のルートを間違えちまったみたいだ」とリモコンを手に取って、テレビを消した。
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