離宮のファラ

離宮のファラ


 初めて異性と交際したのは十三歳の時だった。

 自分が男性であり、異性が女性であると認識し始めたのがそれぐらいで、近所に離宮のファラと渾名される人が住んでいた。

 小学生の頃から近所で有名な女性で、ちょっとからかいたくて『僕ら子どもたち』は渾名をつけていた。


 この街はスラムだ。


 上半身裸の老婆がワンカップを片手に放浪している姿を見たことがあるし、交差点のふもとで眠りこけているドラゴンズの帽子をかぶったじいさんも……おととい見た。

 治安が悪いというわけではないが、後期高齢者が増え続ける日本で過酷な社会から離別を試みた高齢者が、林立する団地という巣に身を寄せている。

 そうした地域で『離宮のファラ』は異質な存在だった。

 なにより若かった。

 小学生の頃に見た彼女は、大学生ぐらいに思えた。

 長いぼさぼさの黒髪で、いつも胸元が薄く黄ばんだシャツを着ていた。おっぱいが大きくて、僕らはそれに釘付けになって、登校するときによくコケた。

 長年、逃走を続けた左翼テロリストが潜伏先に選ぶような、筋金入りのボロアパートの二階から……離宮のファラは登校する子どもたちを見下ろしていた。

 雨が降るとアパートの庭はぬかるみ、中国の宮廷のように見えることから『離宮の』という接頭語がついたと記憶している。宮殿の水辺でうっとりと胸の透ける絹の衣を身にまとって、僕らを見下ろしているようにも――見えなくはなかった。

 なぜ、ファラという名前になったかは意見が分かれるが「花田」という苗字がなまって『ファラ』と呼ばれていた。むしろ、幼い僕らはファラ、ファラと渾名していると本当に『ファラ』であるような錯覚に陥った。

 そのような小学生時代を経て中学にあがったとき、僕は夜のコンビニで離宮のファラと出会った。彼女は弁当と棒アイスを三本ほどかごに入れ、雑誌を手に取ろうとしていた。あの頃はコンビニに雑誌があったのだ、すけべな。

 若い女がコンビニですけべな雑誌を読んでいる、という事実に驚いたし、それが『離宮のファラ』であると気づいて、もっと驚いた。

 ジッと目を向ける僕にファラは気が付いたのか「あっ」と小さく声を漏らしてから、後ろの棚にあった――忘れもしない!――避妊具の箱を手に取り、アイドルが新作のスマホを広告するみたいに、頬に寄せて微笑んで見せた。

 そのとき彼女は何かを言った。「あそぼっか」なのか「興味ある?」なのか「シたい?」なのか、わからなかった。店内にかかっていた『ポイントがたまあーるっ! お得なポイントは××系列のお店へ!』という執拗なアナウンスによって、聞くべき言葉を塗りつぶしていた。


 僕は怖くなって逃げた。


 家に逃げ帰って、異性が僕を誘う意味を考え、若い熱さを人知れずに吐き出した。

 奇妙な雨がふつかほど続いて、木曜日の夕方に――僕はファラを訪ねた。

 彼女はいつもの胸元が黄ばんだシャツを着ていて、芳香剤とタバコの匂いが混ざり合った部屋にあげてくれた。麦茶とお茶とどっちがいい、と聞かれたので、お茶と答えたが麦茶が出てきたのは覚えている。

 僕は来訪の意を告げることができなかった。

 それは僕自身もよくわからなかったが、とにかくファラに会わなくてはいけないという強い思いがあった。それは宿命的と言うよりは性的で、不健全であるのに男性的な健全を示していた。

 ファラは気だるく温まった和室の匂いが漂う布団の上で、数本の煙草を吸ってから女性がどういう存在なのかを教えてくれた。

 そのなかで、彼女がまだ十七歳であることを知った。

 僕が通っている中学校の隣の中学校に通っていたが、事情があって途中からいかなくなったこと。両親と一緒に暮らしているが、両親は家に帰って来ないこと。料理は得意だが面倒くさくて、いつも適当に済ませてしまうこと。暑くて汗が流れる方が、より興奮することなどを教えてくれた。

 その日はぐるぐると流れる時間の早さに翻弄されて、記憶は断片のように散らばってしまっていた。ただ、僕は初めて『離宮のファラ』に導かれて、幻想的な和室の匂いのする離宮へと招待された。そこは確かに宮殿であり、豊かな時間を送らせてくれる場所だった。

 それから三日にいちどのペースで彼女のもとを訪ねた。

 相変わらず、宿命的ではなく性的な理由で。

 離宮のファラは「わたし達って付き合ってると思う?」と問いかけてきたので、僕は軽率に「そうだと思う」と答えた。

 ファラは僕に冷たくされたり、強い言葉で傷つけられても具体的な反応を示さない女の子だった。最初はなにも感じなかったが、あとから振り返ってみると――彼女は沈黙に閉じこもることで外界の攻撃から身を守る習性を持っていたのかもしれない。

 外界が恐ろしい場所だから、黄ばんだシャツを着て自宅に閉じこもっていたのかもしれないと思い至ったとき――僕は彼女のもとへ謝りに行った。

 彼女はそっけない返事と離宮で見せる奔放な女性の体温を感じさせてくれた。いつもより入念で、そして長い時間をかけて。


 僕は大人になりつつあった。


 ファラは最初から大人だったけれども、少なくとも僕は異性とデートに行く必要性を理解し始めた。

 彼女が黄ばんだシャツではない格好をして、額に浮かぶニキビをどうにか隠そうとしながら小走りにショッピングモールへ現れたとき――僕は交際する楽しみのようなものを見つけた気がした。

 食事をしたり、映画を見たり、買うことのできない品物を眺めたり。

 たくさんの時間をともに過ごしたが、どこか距離がうまく縮まらなかった。

 導入が良くなかったといえばよくなかったのかもしれない。

 ただ僕とファラの間には『透明な誰か』が必ず存在していて、隣同士の席で映画を見ていても……その手を握ることはなかった。あの気だるい和室では、あんなに手を握っていたのに。

 僕が高校を卒業して専門学校に通うというころになって、ファラとは別れた。

 遠い町に行くと言っていた。

 そのころにはファラと出かけることもほとんどなくなっていたし、新しいガールフレンドが出来て、性的な関係はそちらに依存していた。ファラはそうした事柄もどこかお見通しで、いつも僕よりも先んじているように感じられた。

 僕に初めて異性を教えてくれた人は、最後まで透明な膜のようなものを盾にして本心を明かしてはくれなかったように思えた。

 最後にパスタを食べに行って、彼女は涙も熱い抱擁もない「じゃあね」の一言で、街を去って行った。

 職業訓練所に行ったとか、精神的な病院に入ったとか、いろいろな断片的なうわさは聞いたのだが……僕は彼女が『透明な誰か』と手を握って、どこか遠い安息の地に引っ越してしまったのだと考えた。

 いくら僕が手を強く握っても、彼女を引き留めることはできなかった。

 なぜなら、最初から彼女には『透明な彼(もしくは彼女)』がいたのだ。

 見えない三人目の存在と僕らは、いつも同じ時間を過ごしながら――結局は僕がはじき出されてしまった。

 そこまで理解が至ったとき、異性との交際はひどく難しいものなのだなと理解した。

 だからこそ『透明な誰か』を感じなかった女の子と結婚した。


 離宮のファラは、僕に結婚の指針を与えてくれたような気が、いまでもしている。

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