別居調停

星 剣七(本当は七星剣 蓮)

別居調停 前編


 朝の薄明かりが差し込む家庭裁判所の一室。壁に掛けられた時計が静かに時を刻む中、長年連れ添った夫婦と、その背後に広がる家族の苦悩が、一つの机を囲んで集まっていた。今日、ここに集まったのは、家庭内の長年の摩擦が子どもに及ぼす深刻な影響――特に、拒食症と診断された長女の命運――を救うための、別居調停の手続きである。


 仲が良いと噂されるこの家族も、20年以上共に暮らしてきた中で、表面上の穏やかさの裏に、見えにくい傷が刻まれていた。夫は、時折冷徹な言葉を投げかけ、妻は耐えながらも涙をこらえ、娘はその影響か、学校での食事も拒むようになっていた。児童精神科の先生からは、もう一度夫婦が離れて距離を取らないと、娘はまた心が折れてしまうという厳しい忠告があった。だが、家族全体の生活は、朝から晩まで夫と自分たちの両親が交代で支えるという、複雑な仕組みに支えられており、どのように状況を打開すべきか、誰もが答えを見いだせずにいた。


 そのとき、調停室に入るためのドアが静かに開かれ、調停委員が入室した。落ち着いた声色で、「本日は『別居調停』という、家庭内の現状を法的に整理し、一時的な生活環境の変更を図る手続きについて、ご説明させていただきます」と口火を切った。彼の説明は、普段は耳にしない法律用語とともに、別居調停が単なる離婚手続きではなく、家族全体の安全と心の健康を守るための一時的措置であることを、丁寧に解説していた。


 妻の美紀は、これまでの喧嘩や激しい言葉のやり取り、そして何よりも娘の苦しむ姿を思い出しながら、声を震わせて語り出した。「夫は時に、とても冷たく、私たちを無視するような言動を繰り返してきました。娘は、その影響で、何も食べようとしなくなってしまいました。私自身も心が折れそうでした。しかし、決して夫と別れる覚悟がなかったのです。良い時もあったから…。でも、娘が再発するのではないかと、不安でたまりません。」


 夫の隆一は、しばし沈黙を保った後、やっと口を開いた。「確かに、俺は口が悪かった。だが、俺だって悩んでいる。長年連れ添ってきた中で、心も体も疲れ果ててしまっている。お前や子どもたちに迷惑をかけたくはなかった。でも、今は少し、俺自身も変わらなければならないと思っているんだ。」


 隣の席に座る美紀の両親は、重い空気の中で顔を見合わせながらも、これまでの支えが自分たちだけでは到底解決できない現実に、苦悩の表情を浮かべていた。祖父の正夫は、長い人生の中で多くの困難を乗り越えてきたが、今この家族が直面する状況は、彼にとっても理解しがたいものであった。「私たちは、みんなで支え合ってきた。しかし、今は一度、各々が距離を置いて心を癒すことも必要なのかもしれん」と、やや遠い目をして呟いた。


 調停委員は、家族のそれぞれの声に耳を傾けながら、「別居調停は、決して永久の別離を意味するものではありません。あくまで、皆さんが冷静に今後のことを考えるための、一時的な措置です」と力強く語った。彼の説明には、法律的根拠に基づいた具体的な手続きの流れが盛り込まれており、たとえば、調停成立後は一時的に住む場所を変え、各自の安全と心の回復を図るとともに、定期的な調整を行う仕組みがあることが詳細に述べられた。


 その説明が進むにつれて、部屋の空気は次第に変わっていった。美紀は、これまでの迷いと不安が少しずつ薄れ、娘のために自分の心を強く持たなければならないと感じ始めた。隆一もまた、これまで自分が抱えていた怒りや誤解、そして心の闇に直面し、涙をこぼしながら「俺も、本当に変わりたい」と静かに告白した。調停委員の言葉に促されるように、家族全員が自分自身の本音をさらけ出し、初めて互いの苦悩が共有された。


 しかし、急展開が訪れるのは、その調停の最中だった。調停委員が、ふとした表情を浮かべながら、携帯電話に着信があると告げた。画面に映し出された番号を確認すると、委員の顔色が一変した。「失礼します。こちら、警察からの連絡です」という、厳粛な声が室内に響いた。委員は一瞬、戸惑いの表情を見せたが、すぐに静かに説明を再開した。「実は、先ほど警察より、皆様の家庭に関する新たな通報が入りました。詳細はまだ明らかではありませんが、これまで調停の中で語られた事実と照らし合わせると、非常に深刻な状況が明らかになりかねないとのことです」


 その一報に、部屋は一瞬凍りついた。美紀は娘の手を握りしめ、隆一は顔を俯いた。祖父正夫ですら、言葉を失い、ただただその場に立ち尽くす。調停委員は、冷静さを保とうと努めながらも、「この件につきましては、皆様には後ほど改めてご説明させていただく予定です。ただし、現時点では、家庭内での安全確保が急務となるため、すぐにでも一時的な別居措置を検討していただく必要がございます」と、厳しい口調で告げた。


 突然の警察からの連絡により、これまで互いに隠し通していた苦悩が、一気に表面化した。隆一は、これまでの自分の行動を振り返りながら、涙ながらに「俺は、これ以上皆に迷惑をかけるわけにはいかない」と呟いた。美紀は、娘の苦しみを守るためには、どんなに心が痛んでも、決断を下さなければならないと、内心で固く誓った。正夫は、長い人生の中で何度も試練を乗り越えてきたが、今度は自分がこの家族を守る番だと、力強い表情を取り戻した。


 警察からの連絡は、調停室の扉を再び叩く予兆であり、家族全員にとって、これまでの苦悩と隠された秘密が、一瞬にして明るみに出る決定的な瞬間であった。調停委員の最後の言葉が、部屋に重く響いた。「皆様、この先の行動について、速やかに各自の安全と子どもたちの未来を守るため、今一度、冷静にご判断いただく必要がございます」――その瞬間、全員の視線が一点に集まり、家族の未来を左右する重大な転機が、今、ここに訪れようとしていた。

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