第40話 揺れの中で

朝、カーテンの隙間から差し込む光が、やけに白かった。優しくも厳しくもなく、ただ透明だった。


昨日のことを思い出す。

夕飯を一緒に食べて、手をつないで、部屋であんなふうに抱き合った。

「服のまま抱き合っていた。素肌は触れ合っていないのに、それでも、心臓の音まで伝わってくる気がした」

あの一文が、今も僕の中で静かに反響している。


これが恋かどうか、僕にはまだよくわからない。

でも、あの時間を思い出すと、胸のどこかがじんわりと熱を帯びる。


それなのに……。

なぜだろう。

片瀬のことが、ふと脳裏をよぎる。


あの海辺の町、あの車の中。

「ねえ、橘とキスして気持ちよかった? じゃ、この美緒姉さんともしてみない?」

あの言葉。

本気じゃなかったはずなのに、僕の中には、深く刺さって残っている。


自分でも、情けないと思う。

美穂がいて、こんなにも近くにいてくれたのに。

それでも、僕は誰かに惹かれてしまう。

こんな自分が、嫌になる。


スマホに目を落とす。

美穂からのメッセージは、既読のまま止まっている。

僕が返していないだけだ。

返せない。どんな言葉も、あの夜の沈黙の前では薄っぺらくなりそうで。


そのとき、ふいに通知が一つ。


片瀬からだった。


「今から変えない?おとといの海岸にきてるから」


///////////////////////////////////////


海は、昨日よりも少し怒っていた。


遠くの空で誰かが舌打ちでもしたような、どんよりと重たい雲が、海面をじっと睨んでいる。波は昨日の優しさを忘れたみたいに、岸辺を乱暴に叩き、泡を白く撒き散らしていた。


僕は、防波堤に腰を下ろして、ただそれを見ていた。制服でもなく、部屋着でもなく、何を着ても決まらないみたいな、停学最終日の僕だった。


そして、彼女が来た。


「よくここにいるってわかったね」


そう言うと、片瀬は風に髪を煽られながら、僕の隣に腰を下ろした。スカートの裾を押さえる手が、今日はやけに女っぽく見えた。


「昨日、見ちゃった。あの時間の君は、たぶん、ここに戻ってくるって顔してたから」


僕は何も言えなかった。言葉より先に、潮の香りが胸を締めつけてくる。


「海ってさ……恋に似てるよね」


彼女は突然そう言って、片手を前に伸ばした。指の先が、風に震えている。


「昨日、君があの子と過ごしてたって、知ってた。でも、それで冷めるどころか……ね。人って、自分でもおかしいって思いながら、ちゃんと壊れていくんだよ」


「……先生」


「ううん、今日は“先生”じゃない。名前で呼んで」


「……美緒さん」


その名前を口にした瞬間、何かがほどけるような感触があった。濡れた砂の上に、そっと指で線を引いたみたいな。


「明日から、また君は“生徒”になる。でも今日だけは、ね。ちょっとだけ、大人の顔、見せてくれてもいい?」


僕は、彼女の目を見た。海よりも深くて、風よりも不安定で、それでも触れてみたくなる熱があった。


そして、その熱は、唇の間で震える空気を生んだ。


でも、僕はキスをしなかった。


代わりに、手を握った。


ぎゅっと、じゃなくて、確かめるように、指と指を重ねた。


そのぬくもりだけで、今日は充分だった。


たぶん、この海の匂いと、彼女の体温は、明日からの日常の中で、静かに発酵していく。何かを腐らせるか、熟れさせるかは、僕次第。


そして風が、また強く吹いた。


「ほら、台風来るかもよ」


「うん。知ってる」


彼女の笑い声が、波音にさらわれていく。


——僕はそれを、ポケットの奥で、そっと握りしめた。

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